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雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その二) [雪舟・探幽・応挙・大雅・蕪村]

雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その二)

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図9-1 破墨山水図(上部・「雪舟・序」「五山僧・賛)  図9-2 破墨山水図(下部・「雪舟筆」) 
(国宝 掛幅 紙本墨画 明応四年《一四九五》東京国立博物館 一四九・〇×三三・〇cm)

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 上掲の「破墨山水図」(図9-2)は、その絵図の上部に、雪舟の「自序」があり、さらに、その「自序」の上部に、当時高名だった六人の五山僧の「賛」が付してある(図9-1)。その六人の高僧の名は、月翁周鏡(相国寺)、蘭坡景茝(相国寺)、天隠龍澤(建仁寺)、正宗龍統(建仁寺)、了庵桂悟(東福寺)、景徐周麟(相国寺)である。
 水墨画の絵図に賛がつくのは一般的なことだが、「自序」がつくのは異例である。そして、それは紛れもなく雪舟の肉声とも言えるものであろう。雪舟の真筆というものは極めて稀で、その多くが「伝雪舟」の中で、この晩年に近い「破墨山水図」は一際異彩を放っている。
 その雪舟の「自序」は、当時、鎌倉円覚寺の如水宗淵蔵主が、周防(山口県)に在住していた雪舟に弟子入りしていて、その帰国することに由来があるものである。
その送別に際しての印可の証しとして、雪舟がこの破墨(溌墨と同じ)の山水図を描き、この「自序」を認めて、その「自序」付きの山水図を与えた、宗淵は、それを携え、当時の京都在住の最高の詩文僧六人に賛をして頂いたというのが、この「自序」と「賛」の内容なのである。
その「自序」の中で、雪舟は、「眼昏(くら)み、心老いて、以て製する所を知らず」と己の老齢を嘆きながら、「禿筆(とくひつ)を坫(ひね)つて淡墨を洒(そそ)ぐ」と記している。
その全文は、要約すると、凡そ次のようなことである。

「宗淵は私(雪舟)に師事して絵を学び、その帰国するに際し、私に教わった証として絵を描いて欲しいと依頼してきた。『私は老齢で目もかすみ、気力も衰えていたが、ちびた筆をひねり、淡い墨を注いで絵を描いた』。 私はかって、宋の地に入り、揚子江を渡り、斉や魯を経て都(北京)に至ったが、優れた画家は希であった。だが、『長有声(ちょうゆうせい)』と 『李在(りざい)』の二人に随い『破墨の法』(破墨)と『色の塗り方』(設色)とを学んだ。その数年後に帰国し、師である『如拙(じょせつ)』と『周文(しゅうぶん)』の両翁がものの本質を描写していて、中国と日本の両方を見て、『如拙・周文』の考えが高いところにあったということがわかって、両者を慕う気持ちが一層強くなった。」
(『水墨画の巨匠第一巻 雪舟(執筆 吉野光・中島純司)』「図版解説(中島純司稿)」等)

 この雪舟の「自序」付きの「山水図」に対しての、六人の五山僧達の「賛」は、「胸中の酔墨」「天中の水墨」「酔後の筆端、興限りなし」とか記しているようである(『前掲書』等)。

 ここで、雪舟が記す「破墨」については、「実は、溌墨で、玉潤風を祖述する激しい表現だが、雪舟の胸奥を吐露するにとどまらず、現実の風景の骨組みを残し、湖辺の夕陽の中で老翁二人舟上に語らう内容を保っている」(「上掲稿」)としているが、要は、丁寧な輪郭線など引かず、興に乗るまま一気呵成に描いた山水画のことで、「破墨」も「溌墨」も同じ筆法とされている(『没後五百年特別展 雪舟』「作品解説」等)。
 ここで、面白いことは、これに着賛した五山僧たちが、「酔墨」とか「酔後の筆端」とか、
『本朝画史』(狩野永納編)に出て来る「描くときには、酒を飲み尺八を数声吹き、また詩歌を吟じて一気呵成に描き上げた」と、同じような感慨を抱いていたということである。
 これは、後の蕪村などの「草画」(俳画)に通ずるものがあり、この「草画」というのは、
書道の「真(楷)体・行体・草体」の、その「草体」に由来するものと解すると、雪舟の「破墨」とか「溌墨」とも、その種のものと解しても差し支えなかろう。
 そして、晩年の蕪村が愛用した「溌墨生痕」の遊印の「溌墨」も、この雪舟の「破墨」とか「溌墨」とかと連動していると解して、これまた差し支えなかろう。

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 図10 蕪村愛用の遊印「潑墨生痕」

 さて、上掲(図1~図8)の、雪舟の「瀟湘八景図」の原画が現に存在しているものなのかどうかは定かではない。この雪舟の「瀟湘八景図」は、江戸時代前期を代表する狩野派の巨匠、狩野探幽が模写した写本なのである。
 探幽の「年譜」(『水墨画の巨匠第五巻 探幽・守影(執筆 松永伍一・武田恒夫)』所収)によると、探幽は、慶長七年(一六〇二年)、狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として山城(京都)に生まれる。十一歳で、駿府で徳川家康に拝謁、十六歳で、幕府御用絵師となり、二十歳で、狩野宗家を、嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興している。驚くべき早熟の狩野家切っての天才肌の絵師であり、一大の頭領である。
 さらに、その主だった事項を上げると、次の通りである。

寛永十二年(一六三五) 三十四歳 江戸にて江月宗玩より「探幽斎」の号を与えられる。
同 十五年(一六三八) 三十七歳 剃髪して「法眼」となる。
同 十七年(一六四〇) 三十九歳 日光「東照宮縁起絵巻」完成。
同 十八年(一六四一) 四十歳  大徳寺本坊方丈に「山水図」襖絵を描く。
正保四年(一六四七)  四十六歳 江戸城本丸・西の丸・黒書院などに障壁画を描く。
明暦三年(一六五七)  五十六歳 西本願寺黒書院の障壁画などを描く。
寛文二年(一六六二)  六十一歳 後水尾院の尊影を描き「筆峰大居士」の画印を賜る。また「法印」に叙せられる。
同 四年(一六六四)  六十三歳 河内国に知行二百石を拝領。
同 七年(一六六七)  六十六歳 安信ら画『四時幽賞』刊。この年『富士山図』を描く。
同 十年(一六七〇)  六十九歳 痛風を病む。翌年本復する。この年『波濤群燕図』を描く。
延宝二年(一六七四)  七十三歳 十月没、池上本門寺に葬られる。


 ここで、改めて、最初に掲げた上掲の雪舟筆(探幽写)になる「瀟湘八景図」の、その落款(「図8」)を見ると、「寛文十一年(一六七一)」とあり、それは、探幽の最晩年の七十歳の時で、その前年の「痛風を病んで」、それを克服した翌年に、模写したものなのである。
 なお、「痛風を病む」(寛文十年)は、「中風を病む」(『古画備考』)が正しいのかもしれない。ここで、「探幽縮図」のことについて触れたい。
 「縮図」とは、画の「六法」(一、気韻生動 二、骨法用筆 三、応物写形 四、随類賦彩 五、経営位置《構図》 六、伝模移写)の、「六、伝模移写」(臨写・模写)の「縮写」の意であろう。
 この「臨写」「縮写」などの分野で最も名を馳せている画人の筆頭が、探幽その人で、探幽の縮図等に書き入れられた年紀によると、ほぼ寛文元年(一六六一)、六十歳の頃から没年の延宝二年(一六七四)までの、晩年の十三年間に及ぶもので、その数量は長持ちに七棹もあったと伝えられている(『日本美術絵画全集十五 狩野探幽』「狩野探幽(武田恒夫稿)」)。
 実際には、探幽は、もっと早い時期から、この縮図等に取り組んでいて、その早い時期のものは、明暦二年(一六五六)の江戸の大火で消失してしまい、あまつさえ、探幽の晩年の、この長持ち七棹もあっとされている縮図も、探幽没後の文化三年(一八〇六)の火災で、鍛冶橋狩野家のものは全て灰燼に帰してしまったようである(前掲「狩野探幽(武田恒夫稿)」)。
 現在、目に出来るものは、狩野各家に分蔵されたものなどが主で、それらは、東京国立博物館・京都国立博物館・東京芸術大学・各地の美術館や個人所蔵と分散されており、その全貌は容易に期しがたい状況にあるとされている。
 何故、探幽が、これほどまでに精力的に縮図に取り組んだのかということについて、次の三点に要約しているものがある(『日本の美術七 狩野探幽』「探幽縮図―平福家本を中心に(河野元昭稿)」)。

一 自己の創作活動に資する。
① 古今和漢にかかる全ての主要画題と、その表現に精通することができることと、大きな画面を短時間で的確に縮写する必要から、絵画の本質を捉える鋭い視覚と画技の向上が自然に身につく利点がある。
② 「臨画帖」や「学古帖」は、縮図あるいはそれに若干の改変を加えて鑑賞絵画としたもので、両者の関係を直接的な形で示している。
二 鑑定の資料に資する。
① 御用絵師としての仕事の鑑定に、真偽にかかわらず縮写しておくことは、重要な判定基準となる。
② その留書きは詳細を極めており、縮写とあわせ、それらが、その後の狩野各家に踏襲されている。
三 子弟の教育の資料に資する。

 この「二、鑑定の資料に資する」の「留書き」は、次の十項目に整理しうるとされている(前掲「狩野探幽(武田恒夫稿)」)。

一 展閲年時 「寛文六年八月十九日」など。
二 所蔵者名 「水戸様御内太田ノ藤六と申仁所持候由」など。
三 持参者名 「宗真持参候」など。
四 形質   「三幅対ノ内」など
五 時代国籍 「中古のからゑ」など。
六 筆者   「古法眼」など。
七 落款   (署名、ことに印章は朱墨に分けて、丹念に写しとる) 
八 題賛   (原文通り、篆隷楷行草を分けて写す)
九 鑑識   「正筆見事也」など。
十 その他の備忘事項 「銀十枚斗と申遺候」など。

 さらに、この「三、子弟の教育の資料に資する」ということは、いわゆる、狩野派の「粉本(模写した手本=絵手本)による教育主義」と結びついて行くことであろう。それは、江戸から東京への明治期(明治元年=一八六年以降)に移行する頃の狩野派画人橋本雅邦の、「狩野派画学ノ順序ハ臨写ヲ以テ初メ臨写ヲ以テ終ル」(「木挽町画所」=「国華三=明治二二・一二」)と結びついて行くことであろう。

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図11 狩野探幽写 雪舟像(『探幽縮図(文人画研究所・京都国立博物館所蔵図録)』)

 上掲(図11)は、いわゆる「雪舟七十一歳像」の探幽の写図である。寛文二年(一六六二)、
探幽が、六十一歳のものである。この雪舟の原本は不明であるが、その原本の款記に「自筆写寿像付与等観蔵主四明天童第一座主雪舟七十一歳之冬」とあり、雪舟が自ら写して門人の秋月等観に与えたものであることがわかる。原本の画賛は、弘治九年(一四九六)、明の文人青霞によるもので、秋月が入明する際に携行し、そこで賛を得たものとされている。 
 この「雪舟七十一歳像」は、雲谷等益などによる模写本が多数あり、探幽が、直接、雪舟の原本から臨写したものなのか、それとも、他の模写本などから臨写したものなのかどうか不明である。
 しかし、この探幽写図が紹介されている「探幽縮図の雪舟画」(『探幽縮図(文人画研究所・京都国立博物館所蔵図録)』)というのは、「花鳥(十二点)・山水(三十一点)・人物(六点)・走獣(三点)・道釈(六十四点)」と、想像以上のものがあり、これらを、当時の探幽が目にして、それを「探幽縮図」として精力的に取り組んでいたのかは、この図録を見ただけでも容易に察することができる(「誰が雪舟を画聖にして来た(いる)のか?-画聖神話をめぐる近年の研究動向と今後の課題」《福島恒徳稿)(『美術史論集』九・神戸大学美術史研究会》)。
 そもそも、狩野派というのは、雪舟を遠祖としていて、その初代の狩野正信と二代の元信は、漢画(水墨画)と大和絵(土佐派)とを融合して、室町中期から江戸末までの四百年にわたり絵画の世界に君臨し続けた、日本最大の専門画家集団の礎を築き上げたとされている。
 雪舟と正信とは、まさに東山時代(足利義正時代)の同時代の人で、雪舟が、中国帰りの禅僧の画人として、地方の周防(山口)を活動拠点としての水墨画の祖とすると、正信は、その雪舟の水墨画の禅宗臭さを取り払い、都(京都)の御用絵師として、様々な障壁画や屏風絵に新風を吹き込み、それが、さらに、二代目の元信によって、大和絵の明るさが加わり、この二人は、名実共に、雪舟を遠祖として憚らない、いわゆる「狩野派」の始祖という名を得ることとなる。
 そして、次の「安土桃山時代」となると、永徳・山楽の「豪健壮奇」なる画風を生み出し、そして、江戸時代になると、ここに、永徳直系の探幽が出現し、ここで、またしても、その遠祖の雪舟の再評価を経ての、「瀟洒雄抜」たる画風が生み出されて行く。これは、まさに大きなドラマである(『御用絵師 狩野家の血と力(松本寛著)』)。
 さて、この「瀟洒雄抜」たる、探幽の「瀟湘八景」と題する作品は、例えば、『水墨画の巨匠第五巻 探幽・守影(執筆:松永伍一・武田恒夫)』に掲載されているものだけでも、「景元斎コレックション」や、「静岡県立美術館蔵」のものなど、全く、別様のそれを目にすることができる。
 「景元斎コレクション」のものは、二曲四隻(各一〇〇・〇×一〇〇・〇cm、絹本墨画淡彩)で、各隻で季節を異にし、「山市晴嵐」と「烟寺晩鐘」が春、「遠浦帰帆」と「漁村夕照」が夏、「平沙落雁」と「洞庭秋月」が秋、「瀟湘夜雨」と「荒天暮雪」が冬で、「山市晴嵐」の右下方に「法印探幽六十二歳筆」との署名がある。
 「静岡県立美術館蔵」のものは、八幅(各二八・四×七〇・〇cm、絹本墨画淡彩)で、八幅を全部掛け並べると図巻を開いたような長大さである。この八幅は、単独でも鑑賞できるような構図を取っているが、「洞庭秋月」図に、法印落款が施されており、これが一番最後に来る、図巻仕立てのもののようにも思われる。

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 図12 狩野探幽筆 「瀟湘八景図」(静岡県立美術館蔵) 
上段(左) 「漁村夕照」          上段(右) 「遠浦帰帆」  
中段(上左) 「烟寺晩鐘」 中段(左) 「山市晴嵐」
中段(下左) 「洞庭秋月」  中段(上右) 「瀟湘夜雨」
下段(左 )  「平沙落雁」          下段(右  「荒天暮雪」)

 これらの各幅に、画題は表示されていないが、『水墨画の巨匠第五巻 探幽・守影(執筆:松永伍一・武田恒夫)』では、「遠浦帰帆」(画面右上に帆影がある)と「洞庭秋月」(中央の奇岩の中に月が描かれている)との二図が紹介されている。
 この探幽の「瀟湘八景図」(静岡県立美術館蔵) は、図巻仕立てのものとしても、冒頭に掲げた雪舟筆(探幽写)の、それとの関連は薄いようである。そして、これは、紛れもなく、
伝牧谿筆の「瀟湘八景図」を念頭に置いてのものと思われる。それらのうちの五図を次に紹介して置きたい(「瀟湘夜雨図(個人蔵)」「江天暮雪図(個人蔵)」「山市晴嵐図(現存せず)」。

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図13  伝牧谿筆  遠浦帰帆図  京都国立博物館蔵

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図14  伝牧谿筆  漁村夕照図  根津美術館蔵

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図15   伝牧谿筆  烟寺晩鐘図  畠山記念館蔵

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図16   伝牧谿筆  洞庭秋月図   徳川美術館蔵

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図17   伝牧谿筆  平沙落雁図   出光美術館蔵

 さて、画俳の二道を極めた与謝蕪村の句に次のようなものがある。

1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信
2 守信と瓢に書けよ鉢たゝき 明和五(一七六八・五十三歳)  狩野探幽
3 雪信が蠅打払ふ硯かな   明和六(一七六九・五十四歳)  清原雪信
4 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟(か)寒き 明和八(一七七一・五十六歳) 雪舟と雪信

 一句目の「四郎次郎」は、「安土桃山時代」の狩野派のエース・「永徳」の、その長男の「光信」の名で、光信は「探幽」の兄に当たる。二句目の「守信」は、江戸時代前期の狩野派を代表する狩野探幽その人の名である。
 三句目の「雪信」は、探幽の四天王の一人の久隅守景の娘で、探幽を大叔父とし、その探幽門の狩野派随一の閨秀画家でもある。後に、雪信は駆け落ちをして、その不祥事(守景の息子の不祥事も重なる)などにより、守景は狩野派を破門させられる。
 この守景は、蕪村の俳諧の師筋に当たる宝井其角(蕪村の師の早野巴人の師)の盟友、英一蝶(俳号・暁雲)と関係が深く(守景の風俗画に連なる)、蕪村の初期の画号「朝滄」は、一蝶の剃髪後の号の「朝湖」に由来があるとされている。
 さて、四句目の「雪舟」は、東山時代の水墨画の祖「雪舟」その人で、「雪信」は、探幽に連なる守景息女の閨秀画家・清原雪信であることは言うまでもない。蕪村の好みの画人ということになると、上記の句に出て来る「雪舟・探幽・(守景)・雪信」は、その筆頭格であろう。
 その探幽の高弟にして、雪信の実父に当たる守景の「瀟湘八景図」を、その八景を一図に納めている「穎川美術館蔵」(掛幅)のものと、「サントリー美術館蔵」(六曲一双)のものとを掲示して置きたい。

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図18 久隅守景筆 瀟湘八景図 掛幅 絹本着色 五五・五×九五・九cm 穎川美術館蔵

 この守景の「瀟湘八景図」の、近景(右方)が「山市晴嵐」、その近景(中央から左方)の左方が「漁村夕照」、そして、中景(左方)が「遠浦帰帆」、その中景(中央)に「平沙帰雁」、その中景から遠景にかけての(中央)に「烟寺晩鐘」が描かれている。
 その中央に屹立する奇岩の上の寺社の右後方に月が掛かっている。この右側の中景から遠景にかけてが「洞庭秋月」、そして、その月の右側に、「荒天暮雪」が描かれている。
「瀟湘夜雨」は、中央(近景)の、「烟寺晩鐘」の下方の景であろう。

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図19 久隅守景筆 瀟湘八景図 六曲一双 右隻六曲 サントリー美術館蔵

この右隻の右の一扇と二扇の近景から中景にかけて「山市晴嵐」、その遠景に「江天暮雪」、三扇と四扇の近景から中景かけて「瀟湘夜雨」、そして、五扇と六扇の近景から中景にかけて「遠浦帰帆」が描かれている。

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図20 久隅守景筆 瀟湘八景図 六曲一双 左隻六曲 サントリー美術館蔵

 この左隻の一扇と二扇の中景に「平沙落雁」、その二扇と三扇の近景に「漁村夕照」、その二扇・三扇から五扇の中景から遠景にかけて「烟寺晩鐘」、そして、五扇と六扇の近景から中景にかけて「洞庭秋月」が描かれている。

「予が家(土佐家)にはまづ真筆を宗(むね)とし行草を次とす、草筆のみ好ぬれば皆実を失ふ。狩野家にはまづ草筆を宗とす。尤も筆力の強所は及べからず、一得あれば一失あり。」
(『本朝画法大伝(土佐光起編)』)

 狩野探幽の時代に、宮廷絵所預(あずかり)に復帰していた、大和絵を代表する土佐派の土佐光起の、狩野派と土佐派との相違を強調した言である。すなわち、土佐派は、「真行草」の画体において、「真体」を宗とするが、探幽以降の狩野派は「草体」を宗としていると言うのであろう。
 この光起の言は、端的に指摘するならば、「大和絵の本流は土佐派であり、狩野派は唐絵(中国画)の水墨画を大和絵に持ち込んでおり、その「真行草」の画体からすると、土佐派は「真」体を基調としているが、狩野派は「草」体を基調としていて、そこに両派の大きな相違点がある」と言うようなことであろう。
 そもそも、書道の「真行草」になぞらえて、和漢の様々な画風を吸収・咀嚼・整理し、
それを「画体」として、「真体・行体・草体」の三区分による表現法を編み出した、その人こそ、狩野派二代目の元信なのである(『本朝画史(狩野山雪草稿・永納編)』)。
 その「真体」とは「対象に忠実な表現(正格)」、「草体」とは「形を崩しての表現」、そして、「行体」とは「真体と草体との中間的表現」というようなことであろう。
元信は、それらを具体的に、「山水画」の「真体」は「馬遠・夏珪」の画風、「行体」は「牧谿」、そして「草体」は「玉澗」の画風と、さらに、「人物画」「花鳥画」「大和絵(藤原信実・土佐光信)」等の、その和漢の画風を融合して、それを、狩野派の共同制作の拠り所としたのである。
 その元信の編み出した「真・行・草」の「画体」を駆使しての最初期の実例として、天文十二年(一五四三)に制作された京都妙信寺の塔頭・霊雲院障壁画などが挙げられる(『御用絵師 狩野家の血と力(松木寛著)』)。

  室中(前列中央)  四季花鳥図  行体  元信
  檀那の間(前列左) 琴棋書画図  真体  元信周辺の絵師
  礼の間(前列右)  渓山問奇図  真体  同上
  衣鉢の間(奥列左) 雲景山水図  行体  同上か元信(説が分かれる)
  書院(奥列右)   月夜山水図  草体  元信
 
 上記は、「方丈建築」の「晴(ハレ)の空間」の、「前列の三室」(「室中」「檀那の間」「礼の間」)には、「真体」か「行体」の絵画を、「褻(ケ)の空間」の、「奥列の二室」(「衣鉢の間」「書院」)には、「行体」か「草体」の絵画と、それぞれ空間に即応したもので装飾しようとするもので、部屋(空間)の格式、絵師の格式、画題・画体の格式等の相互関係によって、それが相乗的に整然と構築されているということを意味する。
 さらに、この画体の確立と、それによる絵画制作のシステムは、幕府・大名・武将・禁裏・公家・寺院等々の幅広い注文主の要求に応え、多種多様な絵を大量制作できるという、後の狩野派の制作体制を決定づける事になる。この狩野派の体制は、安土桃山時代の狩野永徳の時代に大飛躍を遂げ、それが、次の江戸時代前期の狩野探幽へと連動して行くこととなる。

「本朝画史ヲ読テ、其家祖正信(注・初代正信)オヨヒ元信(注・二代元信)カ伝ヲ考エルニ、(中略) 此輩ノ筆ヲ指テ、必宋画ノ体ト呼タルナルヘシ。其後守信(注・探幽)出テ古体ヲ一変スト云ヘトモ、唯減筆(注・減筆体)ノ格ヲ用ヒ、優柔ヲ加ヘタルニテ、其趣意ハ家習ヲ守ル所ナリ。」
(『水墨画の巨匠第五巻 探幽・守景(執筆 松永伍一・武田恒夫)』「墨画から墨絵へ(武田恒夫稿)」所収『絵事鄙言(桑山玉洲著)』)

 上記は、江戸時代中期の文人画家・桑山玉洲の『絵事鄙言』の中のものである。言わんとしていることは、「探幽が正信以来の古法(様々な画風を『真行草』の「画体」として確立してきた伝統的な画法)を一変したとされているが、それは、探幽が『減筆体』(元来は書道の省筆のことで、それを絵画に応用したもの。写意的,象徴的表現を目的として用いる。唐末,五代の石恪 《せきかく》 の水墨画にその萌芽がみられ、宋代の梁楷《りょうかい》の画風において完成したとされている)を用いたた」ためで、其の「趣意ハ家習(狩野派の画法)ヲ守ル所ナリ」と、探幽を弁護しているということであろう。

 ここまで来ると、冒頭に掲げた、雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」)の「図1」から「図8」は、狩野派の古法の「真行草」体の画法を基礎に据えての、そこに「省」体を加味しての、探幽が雪舟を通して発見したところの、いわゆる、狩野派の新法の、謂わば、「真行草・省」体の確立と、その画法を期しての、「探幽縮図」の一つと理解出来るのではなかろうか。
 ここで、探幽が確立した「真行草・省」体の観点から、探幽門下四天王の一人で、探幽が没する二年前(寛文十二年=一六七二)に、家族の不祥事などにより破門された久隅守景の
「瀟湘八景図・穎川美術館蔵」(図18)と「瀟湘八景図・サントリー美術館蔵」(図19=右隻、図20=左隻)とを見てみたい。
 まず、「瀟湘八景図・穎川美術館蔵」は、八景の各場面を一図におさめ、近景に「山市・夕照」、屹立する岩山の頂上に「烟寺」、その背景に「暮雪・秋月」が続く、右方に構図の重心を置くが、左方の広やかな湖上に、「帰帆・落雁・夜雨」を展開させている。これは、紛れもなく、正信・元信の「古法」に通ずる「真体描法」が駆使されている。
 それに対して、「瀟湘八景図・サントリー美術館蔵」(図19=右隻、図20=左隻)は、六曲一双の右隻・左隻とも、余白を画面いっぱいに設定し、右隻に「山市・暮雪・夜雨・帰帆」、
左隻に「落雁・夕照・烟寺・秋月」を配置している。
右隻の一扇から三扇の近景が「真体描法」(山市)、その中景と遠景に大きく余白をとって、「減筆体」的な「行体的描写」(夜雨・暮雪)、四扇から六扇の近景と遠景は余白(五扇・六扇は全面的に余白)、四扇の中景に「夜雨」の続き(行体描法)、五扇と六扇の「帰帆」は、減筆体の「草体的描法」の趣である。
左隻の一扇と二扇の中景に、右隻の五扇と六扇の「帰帆」と続けて減筆体の「草体的描法」の「落雁」、その近景には、小舟が二艘描かれている。その小舟が、三扇と四扇の近景と連動して「夕照」(「真体的描法」)、四扇の遠景が「烟寺」(山は「草体的」寺「行体的」)
である。五扇の中景の帆(「草体的」)は洞庭湖を暗示している。その五扇と六扇の遠景に、「減筆体」的な月らしきものが描かれていて「秋月」の景となっている。六扇の近景から中景には「行体的」な岩山と樹木の景である。この左隻の上半分は余白が占めていて、四扇の「烟寺」だけが、ぽっかりと浮かんでいる。
 この両者を比較して、この後者の「瀟湘八景図・サントリー美術館蔵」は、まさしく、
古法を一変させたという「探幽画法」を具現化したものの一例として差し支えなかろう。 それは、主題の要求する中核的なモティーフ(核心となる主題)を際立たせるために、「余
白」を活かし、画面空間の奥行や遠近表現だけではなく、それぞれのモティーフ(景・景物)
の相互関連を明確にするための媒介的な役割を担っていると解することも出来よう。
 そして、この「探幽画法」の「余白」と「画体」(真行草体)との関係について、それは、
「余白」と「減筆体」(省体)との問題に帰着するという見解がある(『水墨画の巨匠第五巻 探幽・守景(執筆 松永伍一・武田恒夫)』「墨画から墨絵へ(武田恒夫稿)」)。この「減筆
体」とか「余白」というのは、「気韻」とか「洒脱」とか、その時代の美意識と深い関係に
あるものなのであろう。
 また、それらは、「軽妙」とか「軽淡」とかの「軽」とも連動していて、「画の要は、軽の一字に止のみ、故に悉く以て軽くかくこと専一なり、其軽きこと尤も難しき処なり」(『画筌(林守篤編)』)と、これも「探幽画法」の一端なのであろう。
 これらのことが、先に紹介した『本朝画法大伝(土佐光起編)』の「狩野家にはまづ草筆を宗とす」の、土佐派から見た狩野派の印象となって来るのであろう。
 延宝二年(一六七四)、探幽は七十四年の生涯を閉じた。以後、狩野派では探幽を凌ぐ者は現れず、探幽を始め過去に輩出した大家たちの作品の粉本を宝物とし、「伝統主義・祖法墨守・形式主義」の中に埋没して行くのである。
 その一方、幕藩体制と深く結びついた御用絵師集団の狩野派の保守的・形式主義の反動として、江戸時代中期になると、町人階級の勃興と歩を一にして、江戸では「浮世絵」、京都では、「琳派・円山派・文人画」等々の新しい動きが顕著となって来る。それらの新しい動きは、全て探幽の世界と深い関係にあることが了知される。

 まず、「浮世絵」というのは、江戸狩野派の創出者たる探幽の、家康・秀忠・家光と歴代の将軍をバックにしての、謂わば、公的な大空間向きの絵画を主体とすると、私的な誰でもが購入出来る小画面の一般大衆向けの木版画が主体となるものであった。
 それは、江戸時代前期の、菱川師宣・鳥居清信、中期の、奥村政信・鈴木晴信、そして、後期になると、喜多川歌麿(美人画)、東洲斎写楽(役者絵)、葛飾北斎(名所絵)、歌川国芳(戯画・武者絵)と、江戸時代全期を通して、その隆盛を見ることとなる。
 「浮世絵」が在野の江戸(東京)の絵画とすると、「琳派」や「円山四条派」は都(京都)の町衆の絵画(「琳派」は富裕な町衆、「円山派」は新興の町衆、「四条派」は町衆以下の層)ということになる。それは、探幽の狩野派が京都から江戸へと軸足を移すことにより、京都の町衆を中心として支持されている絵師集団で、狩野派が「血縁絵師集団」とすると、琳派や円山四条派は「師弟絵師集団」ということになろう。
この琳派は、探幽以前の「本阿弥光悦」「俵屋宗達」を経て、探幽と同じ江戸前期の尾形光琳が出現することにより、その頂点を見ることとなる。そして、それは、「京都琳派」(渡辺始興等)に止まらず、江戸後期になると、「江戸琳派」(酒井抱一・鈴木其一)として、その命脈を保つこととなる。
 江戸前期の光琳が、探幽の鳥類写生を模写しているものを今に目にすることが出来るが、その光琳の弟子の渡辺始興の鳥類写生を、江戸中期以降の京都画壇の主流を占めた円山派の創出者・円山応挙が模写をしているなど、探幽の写実(生)は光琳・応挙にも繋がっている。
 応挙が探幽から多くのものを学んでいることは、応挙の金字塔ともいわれている「雪松図屏風」(図22 六曲一双・紙本金地着色)と探幽の瀟洒淡泊の様式を確立したとされている名古屋城上洛殿の「雪中梅竹遊禽図襖」(図21 四面・紙本淡彩金泥引)とを比較すると (その違いも含めて) 一目瞭然となって来る。
 この円山派は、蕪村の弟子であった呉春(松村月渓)が、蕪村没後に応挙門となり、円山・四条派として、一大勢力と化して行く。応挙門には、長沢蘆雪、原在中、岸駒・森徹山、山口素絢、月僊などがいる。呉春門下には、松村景文、岡本豊彦、柴田義董などがいる。岡本豊彦は、四条派に再び南画様式をとり入れたが、その画系には塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳らが相次ぎ、明治の京都画壇に大きくリードすることになる。
 ここで、応挙門の破天荒の多芸多才な画家・長沢芦雪、雪舟と同時代の画僧・曽我蛇足十世を自称している奇想の画家に相応しい・曽我蕭白、そして、「丹青活手ノ妙神ニ通ズ」(売茶翁より)とまで激賞された「動植綵絵」(三十幅)と洒脱な水墨画でも知られている伊藤若冲とを、「奇想の画家」(『奇想の系譜(辻惟雄著)』)として、何れの派にも属さない「雑派」とされているのが通例である。
それらに関して、探幽に連なる「江戸狩野派」や山雪に連なる「京狩野派」の「血縁絵師集団」ではなく、琳派や円山四条派の「師弟絵師集団」、さらには、文人画(南画)派を含めて、「地縁絵師集団」的な意味合いの濃厚な「京派」(『日本の美術№39応挙と呉春(鈴木進編)』)というネーミングも目にするが、当時(江戸中期)の京画壇のルネッサンス(再生・新生)的動向を踏まえて一つの示唆深いものであろう。

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図21  狩野探幽筆 雪中梅竹遊禽図襖 四面 紙本淡彩金泥引 各一九一・三×一三五・七cm  名古屋城(上洛殿三の間)

図-22.png

図22 円山応挙筆  雪松図屏風 六曲一双 紙本金地着色 各一五五・〇×三六二・〇2㎝ 三井記念美術館蔵

 名古屋城上洛殿の「雪中梅竹遊禽図襖」(図21)は、寛永十一年(一六三四)、探幽、三十三歳の時のもので、安土桃山時代の狩野永徳の「豪華壮麗」の世界を、探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界へと一変させた作品として、夙に知られているものである。
 この「瀟洒淡泊」の探幽様式は、その後の江戸狩野派を規定するばかりではなく、江戸絵画の母体を規定する時代様式になったとまで評さられている(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』)。
 この探幽様式は、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、「豊穣な余白」
(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)とが、その大きな特色とされている
(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))。
具体的に、その「水墨画の初発性」というのは、この二等辺三角形(右隻一・二面と左隻
一面)の中に描かれている老梅の墨の濃淡や筆割れや掠れは、先に触れた、画体の「真行
草・省」体の意識的な混交が見られ、緩急自在に「付立」(下絵などに頼らずじかに一筆の運びで表現する)や「片ぼかし・外隈」(雪を表現する時によく用いられ、枝の片側に墨を施し、その外側空間の部分にも墨を掃いて積雪を表現する)を多用している。
 それにも増して、この襖四面の、金泥引きに胡粉の白を刷毛掃きしたような「余白の美」
は、これこそが「瀟洒淡泊」のネーミングの底流を流れているものであろう。雪・梅・竹
・遊禽(雀・尾長・雉など)が「言葉のある空間」とすると、この余白は「言葉のない空間」
という雰囲気で無くもない。
 この探幽の「瀟洒淡泊」は、「江戸文化を象徴する粋(いき)という言葉には、軽みが付随
する」(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』と関連し、その「粋」と「軽み」は「秘
すれば花/秘せずは花なるべからず」(『花伝書(世阿弥著)』)に通じているのであろう。

 さて、次に「雪松図屏風」(図22)なのであるが、一見すると、先の探幽の作品(図22)が
姉とするならば、この応挙の作品は妹の、姉妹関係にあるようにも思われる。しかし、両
者を仔細に見ていくと、一見、同じような志向で、同じような技法とで為されていると見
えるものが、実は、この応挙の作品は、この探幽の作品の、その真逆に近いいものを意図してのものということが察知される。

[「雪松図屏風」は、近くで観察すると筆の省略が見られるなど、いわゆる精密な写生図ではない。しかし「遠見の絵」として鑑賞されるとき、画面の向こうに広がる雪世界にあたかも実際に松が生えているかのような印象を与える。この「本物らしさ」こそ、応挙が目指した新画風である。本図の地には金泥が引かれているが、これは単なる装飾ではない。応挙が描いたのは、陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである。また、松の樹下に光る金砂子とて、伝統的・工芸的な装飾技法ではありえない。朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである。(略) 牧谿をはじめとする中国の水墨画が、日本で規範として受容され、独自の変容をとげ、日本の水墨画となっていった。円山応挙「雪松図屏風」の光り輝く大気が充溢する空間は、日本水墨画史の系譜上に位置している。 ] (「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「雪松図屏風の空間と形式の成立―円山応挙の大画面構成について―(樋口一貴稿)」)。

 ここで、両者の顕著なる異同やその感想などについて触れておきたい。

一 探幽の「余白」は、「言葉のない空間」(語らない空間)に比して、応挙のそれは「言葉のある空間」(上掲の引用ですると、「陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである」「朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである」と「語っている空間」)ということになる。
二 探幽の「省筆」(減筆体)は、上記の「余白」の「言葉のない空間」と一体を為しているものとすると、応挙のそれは、まさしく、「言葉のある空間」と一体を為していて、それぞれ意味のある「省筆」(減筆体)なのである。それは、「何も描かない」(省筆=減筆体)で「雪」そのものを写生(実)しているのである。
三 探幽の「写実」(写生)は、後に「探幽縮図」として膨大な遺産を遺すほどに、いわゆる「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のものに比して、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」と、それこそが、主たる世界のものとして、その創作活動の基本に据えて、隅々まで、その「写実」(写生)を徹底させている。
四 探幽の「空間」が平面的な空間とすると、応挙のそれは立体的な空間で、「中央に余白を設け、右隻では右上方奥から左下方手前へ、左隻では左下方手前から右上方手前へという大きな動きが看守される。(略) 全体として時計回りの立体的循環が生じ、余白が立体的空間として把握されるようになる」(「樋口一貴前掲稿」)。応挙は若年時玩具商に奉公し、「眼鏡絵」制作に携わった経験があり、そこで得た「遠近法的画面構成法」が、応挙の立体的空間作りの源となっている。
五 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)とすると、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)ということになる。
探幽の「雪中梅遊禽図襖」の右隻一面に、老梅にたむろしている雀の上に一羽の雀が空中に飛んでいる。そして、左隻の二面に、空中に飛んでいる尾長が、左隻一面の老梅の細い枝の先端を振り返って見ている。中央の右隻二面に、枝に留まっている雉か尾長の尻尾が描かれている。その胴体が失われているが(完成後、損傷し修復したのかどうか不明)、その胴体が空間の中に隠れている感じすら受ける。右隻一面の老梅の枝先に、三本の若梅の枝が垂直に空間の上に伸びきっている。その下方に雪を被った竹の枝と葉が描かれている。この全体の、詩情性豊かな軽やかな、余白空間には圧倒される。
六 応挙の「雪松図屏風」については、「樋口一貴前掲稿」の中で、次のように細かく描写の記述の後に、「遠見の絵」であることを述べられている。
「松は輪郭線を用いない没骨法を描かれおり、枝には付立の技法も使用され、モチーフの立体感を表現している。樹皮には筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている。右扇には直線的で力強い松が唯一本あるばかりで、一方左隻には曲線的で柔らかい二本の若木が配される。雪のハイライトが眩しい松叢の描写も、左隻では直線的、右隻では曲線的と、樹幹の形態と対応している。雪の部分は、紙の地そのままを生かして効果的に表現されている」。続けて、「『雪松図屏風』は、近寄ってみると松葉が存外粗い筆遣いで描かれているのだが、十分に間を取って見た場合には雪原の中に松樹が立体的に浮かび上がってくる。まさに『遠見の絵』である」としている。
 これを先に触れた探幽様式の、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))とで比較検討すると、両者の相違点が浮き彫りになってくる。
 すなわち、探幽が「水墨画の初発性」という偶発性の厭わないのに比して、応挙のそれは、それを回避するように「筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている」と、全て「写生(実)」の、その「実体らしきもの」を描出するための、あたかも実験的且つ作為的な技法を露出そのものなのである。これは、探幽と同じ視点の「近見の絵」として鑑賞すると、どうにも「重い」という印象は拭えない。
七 同じように、探幽の「豊穣な空間」に比すると、応挙のそれは、これまた、「光」とか「大気」とかの、その「実体らしきもの」を描出するための、すなわち、実験的な試行錯誤の末の作為に作為を重ねている、「人為の極の空間」という印象を深くするのである。
 それは、この屏風一扇一扇は、それぞれ一枚の紙に描かれていて、画面に紙の継ぎ手のないものを使用していることや、その紙の地肌の真っ白さを利用して塗り残して表現していること、さらに、墨の滲みを抑える紙を使用し、墨の濃淡であたかも紙に墨が滲んでいるような印象を与える描法を取っていることなど、「人為の極の空間・紙の選択・描法」等を駆使していることからも裏付けられるものであろう。
八 この「雪松図屏風」に使われている紙の大きさや滲まないものは、当時の日本製の和紙ではなく、中国南部からの輸入紙であったろうとされている(「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「紙の万華鏡(増田勝彦稿)」)。
 そもそも、「雪松図屏風」のような大画面を描く場合に、「遠見の絵」を目指したというのは、応挙の言葉が多数抄録されている、応挙の支援者であった、三井寺円満院の祐常門主の『萬志』に書き留められているものであって、それは、応挙の創出した画法の一つと理解すべきなのであろう。
九 「真物を臨写して新図を編述するにあらずんば、画図と称するに足らんや」(『仙斎円山先生伝(奥文鳴著)』)、この「真物臨写」が、応挙が目指した「写生」とされているが、応挙が編み出した「写生」は、「(真物)らしきもの」の飽くなき追及で、それはまた、若き日に身に着けた「眼鏡絵」の「からくり絵」的描写を根底に有するように思えるのである。
十 いずれにしろ、三代将軍徳川家光が上洛する折の名古屋城上洛殿の一角を飾った「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽と、今に続く三井財閥の惣領家・北三井家(京都の豪商)の宮参りや正月などの祝いの席を飾ったとされている「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽とが、前者は、膨大な「探幽縮図」を、そして、後者は、懐帖形式の「写生帖」や浄写形式の「草花禽獣写生帖」等を今に遺し、この両者は、無類の「模写・臨写・写生・写実」のテクニシャンであったということは、単に、この「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」との二点を見ただけでも察知出来るであろう。
十一 最後に、この大画面構成たる「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」とを、付かず離れず見て行くと、これは、名古屋城とか三井記念美術館とかの「晴れの場」には相応しいかも知れないが、日常手元に置いて、普段の日常生活の「褻の場」には、どうにもしっくり来ないということは、どうにも拭えないのである。
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