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若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」 [蕪村と若冲]

若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」

 若冲は「名遂(と)げぬ。事畢(おわ)りぬ」(「碣銘」)の、「釈迦三尊像」(三幅)そして「動植綵絵」(三十幅)完成以後の五十代、六十代の作品は多く残らない。

 明和七年(一七七〇)十月、父の三十三回忌に当たり、その三尊(三幅)および綵絵(三十幅)の寄進の全てが終わる(「位牌銘」)前年(明和六年=一七六九)六月十七日の相国寺の「閣懺(かくせん)」(相国寺三門で行われる儀式)に合わせ、これらの全てが方丈に掛けられ、一般の人々も、その全貌を知るに至ったのである。

 この年(明和六年=一七六九)に、これが若冲の作なのかと疑うほどに、何とも奇妙奇天烈な、ユーモアに溢れた水墨画の「蝦蟇・鉄拐図」(双幅)を制作している。

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(若冲「蝦蟇・鉄拐図」)           

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(光琳「蹴鞠布袋図」)

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」は、光琳の「蹴鞠布袋図」に想を得たのではないかとされている(「日本の美術9(NO.256)伊藤若冲(佐藤康宏稿)」)。

 この「蝦蟇図」の月遷浄潭の賛は、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」、「鉄拐図」の寂照の賛は、「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙。泉南叟書」。

 月遷浄潭(じょうだん)は、海雲山法蔵寺住持(黄檗僧)で、この明和六年(一七六九)に没している。また、泉南(せんなん)叟は、「平安人物志」(明和五年版)に出て来る「学者・書家」の「釈寂照(号)・泉南(字)」で、若冲と親交があったのであろう。

 「蝦蟇図」の蝦蟇仙人(劉海蟾=りゅうかいせん)、そして、「鉄拐図」の鉄拐仙人(李鉄拐=りてっかい)は、中国の仙人で、不老不死の術を修めた、超人的な能力を持つ人々である。
蝦蟇仙人は、三本足の白いカエルと共に描かれ、このカエルは「青蛙神(せいあじん)」との別名で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。

 一方、鉄拐仙人は、物乞いの体を借りて蘇ったことから、破れた衣を着て、鉄の杖を持ち、その口元をすぼめて、自分の分身を吹き出しているポーズなどで描かれている。

 さて、若冲が描く右双の「鉄拐仙人」は、実に奇妙奇天烈なポーズで、「杖を両手で握りしめ、顔らしき『顎と目玉二つと鼻ならず口と顎髯』とが、天を仰いで、その天に何やら、その分身の杖を持っている河童らしきものが描かれている」。これに賛する「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」。

 この「泉南叟書」とは、「泉南叟=釈寂照」の「書(賛)」で、この「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、「この何とも表現できないような図画の、この気を吐いている仙人は、『獨楽窩(どくらくか)』と自称しているアトリエで、『丹青不知老将至(たんせいまさにおいのいたるをしらず)』なるものを遊印として使用している『若冲居士(仙人)』さんさながらですね」というような意が込められているのかも知れない。

 そして、若冲が描く左双の「蝦蟇仙人」は、三本足の「青蛙神」を河童の頭のような禿げ頭に乗せて、その「青蛙神」が天を仰いでいる。その仰いでいる方向に、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」が書かれている。

 この「失魄無依附餓莩尸。元非其質」は、鉄拐仙人にかかわる故事の、「魂を失うて依るべき所なし、一餓莩(ウヒ)の尸(シカバネ)を起し之に附す。元(以前の)其の質(カタチ=肉体)に非ず」(「鉄拐一日老君と約して華山に赴かんとす、即ち其徒に約して曰く我が魂此に在り、若し游魂七日にして返らずんば汝吾が魂と化すべしと、徒母疾あるを以く迅く帰り、六日にして之に化す、鉄拐七日に至りて帰るも已に魂を失うて依るべき所なし、一餓莩の尸を起し之に附して起つという、形跛悪なる是れがためなり)に因っているのであろう。

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」の「鉄拐図」(右双)の基になっているという、尾形光琳の「蹴鞠布袋図」の「布袋」は、日本の「七福神」(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・寿老人・布袋)の一柱で、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが通例である。それを光琳は、その大きな袋を放り投げて、蹴鞠に夢中になっている布袋で、その布袋が、頭上高く舞い上がっている蹴鞠を仰いで構図である。

 その日本の「七福神」の一柱の「布袋」を、中国の「八仙人」(呂洞寶=ろどうひん、李鉄拐=りてっかい、鐘離権=しょうりけん、張果老=ちょうかろう、藍菜和=らんさいか、曹国舅=そうこくきゅう、何仙姑=かせんこ)の一柱の「(李)鉄拐」に転回しているのである

 その「鉄拐図」(右双)の「鉄拐(仙人)」が吐き出す霊気の中の「分身」が、光琳の「蹴鞠布袋図」の宙に浮いている「蹴鞠」の見立てで、今度は、その「蹴鞠」の如き「鉄拐(仙人)」の「分身」は、「蝦蟇図」(左双)の「蝦蟇仙人」(河童頭のみ表示されている)と転回し、その「蝦蟇(仙人)」が連れ歩く「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が、「蝦蟇仙人」の頭上で、天を仰いで、光琳の「蹴鞠」ならず、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」を仰いているのである。

 これは、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との見事な連携プレーで、蕪村の俳諧の世界でするならば、見事な「付け合い」ということになる。

 さらに、この若冲の「鉄拐図」(右双)の、若冲の「図」とそれに賛する寂照の賛「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、俳諧(連句)の世界でするならば、発句(若冲「図」)に対する、脇句(その発句を受けての挨拶句の趣)の「賛」という雰囲気である。

 そして、この若冲の「蝦蟇図」(左双)は、右双の「若冲図・寂照賛の『鉄拐図賛』」に対して、その「鉄拐図賛(若冲図と寂照賛)」に比しての、「蝦蟇図賛(若冲図と月遷浄潭の賛)」の、この「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が見上げている、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質」(魂ヲ失イテ依ルトコロ無シ、餓死シタル屍ニ附ク、元、其ノ質ニ非ズ)という、この月遷浄潭の賛こそ、これら一連の図と賛との「結句」のように思われる。

 それは、「肉体は無になっても、魂は無にならない」というようなことを暗示していて、これらのことを、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との関連に当て嵌めて見ると、「光琳の『蹴鞠布袋図』の魂は、若冲の『蝦蟇・鉄拐図』において、その形状は消えていても、その魂は生き続けている」ということになる。

 事実、若冲は、天明九年、改元して、寛政二年(一七九〇)の、七十五歳の晩年に於いて、光琳が得意とする金壁障屛画の如き「仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)」(襖六面・紙本金地着色・各一七七.二×九二.二cm)として結実して来る。

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(若冲「仙人掌群鶏図」)

 さて、蕪村には「蝦蟇・鉄拐図」と題する作品はない。ただ、蕪村の丹後時代(宝暦四年=一七五四~同七年=一七五五)の作「十二神仙図」(六曲一双)の一扇(面)に、「蝦蟇(仙人)・鉄拐(仙人)」を描いたらしきものが残っている。

 これらの各扇(面)の「押絵貼(おしえばり)」で描かれた人物の特定は難しいが、その右隻の第三扇(面)は、「右側は足が悪いながら魂を自在に離脱させた李鉄拐(りてっかい=鉄拐仙人)、その隣は左手に桃を持ち右手に銭差しらしき紐を握ることから劉海蟾(りゅうかいせん=蝦蟇仙人)」と鑑賞しているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収「作品解説」)。

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(蕪村「十二神仙図屏風」、右隻=六扇、その第三扇=「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」)

 この「十二神仙図」の右隻の第三扇(右から三番目)、これが蕪村の「「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」である。鉄誘仙人の口から吐き出される霊気の中には、その分身は描かれていない。それは、おそらく、その分身が戻るべき肉体が焼かれて、飢え死にした肉体に宿って再生したということを暗示しているのであろう。

 また、蝦蟇仙人には、三本足の「青蛙神」は居らず、代わりに、不老不死や邪気を払う蟠桃(ばんとう)と金運を象徴する銭差しを持っている。これらも中国または日本の版本(絵手本など)から示唆を受けたものなのであろうが、蕪村の趣向というのが窺える。

 ちなみに、この「十二神仙図」は、享保五年(一七二〇)に刊行それた大岡春卜の『画本手鑑』に掲載されている図と類似するものがあるとの指摘がある(『南画鑑賞(八―十、一九三九年)所収「蕪村の画系を訪ねて(人見少華稿)」)。

 この大岡春卜は、若冲の最初の師とされ、若冲も、この大岡春卜の版本などから多くのものを学んでのであろう。若冲自身は、「狩野氏ノ技ヲ為ス者ニ従ヒテ」と、春卜その人の名を明らかにはしていないが、続いて、若冲は、「不如舎(舎=捨テルニ如カズ)」と、全てを断ち切り、「周(アマネ)ク草木ノ英(エイ)、羽毛虫魚ノ品(ヒン)、ニ及ンデゾ貌(カタチ)ヲ悉(ツク)シ、ソノ「神」ニ会シ、心得テ手応ズ」と「物」を「写実」することを基本に据える。

 一方、蕪村は、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、画道において終生師として仰ぐものを持たなかった。ただ、目標としていた画と俳(俳諧)との二道の面において、当時、京都在住の、その先駆的な一方の雄であった彭城百川を慕って、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って上洛して来たという事実は紛れもないことであろう。しかし、その百川は、蕪村が上洛した翌年(宝暦二年=一七五二)八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じてしまうのである。

 この百川の逝去が一つの動機となっているのだろうか、その逝去の二年後、宝暦四年(一七五四)の春か夏の頃、百川も嘗て足を止めていた丹後の宮津へ移住し、百川が標榜していた「売画自給」(画業で自立する)の実践の途を決行することになる。この時、蕪村、不惑の齢の一年前、三十九歳であった。

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。


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