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蕪村の絵文字(その五) [蕪村書簡]

(その五)
暁台宛て書簡.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「安永七年十月十一日 暁台・士朗宛書簡」(名古屋市博物館蔵)

  この書簡の内容は、以下のようなことである。

一 名古屋俳諧の巨匠・暁台が、士朗・閭毛(りょうもう)を伴って、安永七年(一七七八)十月に上洛するが、慌ただしく帰国する。その早々の帰国は何か気に障るようなことがあったのかと一抹の懸念を伝えている。
二 蕪村門の「道立・我則・月居・維駒」が亭主役になって歌仙を巻く準備していたが、それが出来なくて心残りである。
三 士朗注文の絵を揮毫したこと。また、暁台の庵名の「龍門」の額字が出来たこと。
三 暁台が仲介役になっている名古屋の富商達の依頼品も近日中に揮毫すること。「おくのほそ道」画巻を完成させて近々送付すること。
四 此の書簡は、暁台と士朗のお二人宛てになっているが、閭毛にも御伝声をお願いしたい。
五 日付は、「十月十一日」(安永七年は推定)。
六 宛名は、「暮雨(暁台の別号)主盟(同盟の主宰者)・士朗国手(医者の尊称)」。
七 蕪村は、次の二句を文末に記して、暁台と士朗の意見を徴している。
    茶の花や石をめぐりて道を取(とる)
    道を取(とり)て石をめぐればつゝじ(躑躅)かな
八 その後に、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画が描かれている。

 この戯画中の、「朱樹台」は士朗の別号で、真ん中の人物が士朗であろう。その左の女性と肩を組んでいるのは暁台で、「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。
 真ん中の人物の士朗が、「朱樹台(士朗の別号)を已来(以来)やくたい(「益体も無い遊びに熱中する」の「益体」)と改メマショウ」と、駄洒落を連発して、酒宴を盛り上げている。
 この「久村(暁台の別姓)キヤウトイ キヤウトイ」は、その士朗を見て、「キヤウトイ(気疎し=きやうとし=きやうとい=「えらい・けなげだ」)・キヤウトイ」と名古屋弁で暁台が囃しているのであろう。
 さて、右端の人物は、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」の文言から、「書簡一九〇に蕪村が歯の痛みに悩んだ記事がある。この戯画の人物は蕪村か」(頭注)と、蕪村としているのだが(『蕪村全集五(三〇四頁)』、これは蕪村ではなく、この時の暁台・士朗と一緒に上洛した閭毛であろう。

 安永七年(一七七八)当時の蕪村は、六十三歳、京都俳壇の大宗匠且つ文人画の大家(この年に最晩年の栄光の画号「謝寅」を使い始める)で名を轟かせている、「画・俳」両道の世界では、最右翼に位置していたと言っても過言でなかろう。
 そして、名古屋俳諧を牛耳っている加藤暁台は、京都俳壇・画壇で名を馳せている与謝蕪村とでは、年齢にして、十六歳も、蕪村が年長ということになる。また、江戸俳壇と京都俳壇の狭間に位置する名古屋俳壇は、まだまだ、新興勢力ということになろう。
 ただ、暁台は尾張藩の武家出身で、諸国を遊歴して、江戸の蓼太(大島氏)と共に門人の数などからすると、蕪村門よりも大きな集団を成していたようである。
 その尾張の暁台門の筆頭が、士朗(井上氏)で、年齢的には、暁台より十歳程度年下である。閭毛については詳細不明だが、士朗に次ぐ暁台門人ということになろう。
 この、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画は、京都俳壇の蕪村と蕪村門の面々(この書簡中にその名がある「道立・我則・月居・維駒」、後に、暁台と親しくなる百池などの面々)の前で、名古屋俳壇の盟主暁台とその高弟の士朗・閭毛が踊りを披露しているのであろう。
 そして、この三人の主役は暁台で、士朗と閭毛は、その師匠の太鼓持ちのような引き立て役を演じている。この酒席の最長老の蕪村が、この踊りの列に加わり、年下の暁台の太鼓持ちのようになって、暁台に媚びているような踊りを披露することは有り得ないことであろう。
 問題は、この右端の閭毛と思われる人物の上の「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」であるが、これは、閭毛の発言と取るのが自然であろう。また、蕪村の発言と取って、この時の閭毛の踊りの恰好や仕草が、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」ほど面白かったとする解もあろう。
 ちなみに、この暁台と肩を組んでいる女性は、「雪楼」こと祇園「富永楼」の女将「お雪」さんの風姿なのかも知れない。


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