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蕪村の絵文字(その九) [蕪村書簡]

(その九)
几董宛書簡2.jpg
『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「六 京師之人心、日本第一之悪性」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「三几董(推定)宛(日付なし)」に、その全文が収載されている。
 この書簡の中ほどに、「名角(なにか)ニ付(つけ)京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」という文言が出て来る。意味は、すばり「何かにつけて京都の人間の心は日本第一の悪性(悪い性質)であります」と、蕪村の強烈な京都人への痛罵なのであろう。
 この蕪村の書簡は、蕪村が夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠の仲間入りをした、明和七年(一七七〇)三月以降の、その蕪村の夜半亭継承に関連する書簡のようである。
 冒頭の「御細書(さいしよ)御厚意之趣(おもむき)相心得候」というのは、「細々としたお手紙、私(蕪村)に対するお心遣いよく承知しました」ということで、「蕪村が夜半亭二世を継承したのは、若い几董に夜半亭三世を継承させるための繋ぎ役なのだ」ということについては、「夜半亭社中で不満に思っている方がおられますから、その点の御配慮をお願いします」というような、几董の書簡の返信のようなのである。
 それに対して、「社中ニ左様之不平をいだき被申候(まうされさうらふ)仁(じん=人)、たれ(誰)ニ而(て)候哉(や)」と、「その不満をいだいている人とは誰なんだ」として、「京師之人心、日本第一之悪性」という文言が続くのである。
 そして、この書簡の後半に、「何ぞ可焉(かえん)・来川(らいせん)が輩」と、「夜半亭一世(郢月泉)早野巴人」に連なる古参俳人の「可焉(上阪氏)」と「来川(来川庵小川由至)」との名が出て来る。

 ここで出て来る「可焉(上阪氏)」は、現在、早野巴人の唯一の墓(詣墓=まいりばか)である京都の俗称椿寺で知られている昆陽山地蔵院の「宋阿早野巴人墓」の建立者なのである。
 夜半亭宋阿(早野巴人)は、寛保二年(一七四二)六月六日、江戸日本橋石町で没する(享年六十七)。当時、宰鳥を名乗っていた門人蕪村は二十七歳の夏である。宋阿(巴人)は浅草幡随院門前の即随寺に埋葬された。その即随寺は、文政年間の火災及び関東大震災によって打撃を受けて、千葉県市川市に移転していて、過去帳は遺っているようだが、墓碑は不明のようである(『与謝蕪村の俳景―太祇を軸として― 谷地快一著・新典社』所収「京都の早野巴人墓碑覚書―俳諧寺可焉と蕪村」)。
 寛政九年(一七九七)刊行の『誹諧家譜後拾遺』で、可焉について「明和九年(一七七二)九月十三日没 年七十五」とか(『谷地・前掲書)、それで生年を逆算すると、元禄十年(一六九七)生まれ、彭城百川と同じ年ということになる。いずれにしろ、蕪村よりも相当年配な、京都在住時代の早野巴人門下の一人であることは間違いない。
 宋阿(巴人)が江戸を出立して上洛したのは、享保十年(一七二五)の、五十歳の頃で、再び、江戸に帰って来たのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時である。従って、宋阿(巴人)の関西(主として京都)移住は、十二年間程度で、この京都時代に、宋屋(富鈴)と几圭(宋是)とが、巴人門の高足である。
 宋屋は、望月氏、初め百葉泉・富鈴・机墨庵などを号とした。宋阿(巴人)帰東後は一門を率いて、淡々系俳家など他流と広く交際し、京俳壇の一方の雄となっている。門人も多く、嘯山(三宅氏)・武然(望月氏)・蝶夢(睡花堂・五升庵・泊庵)など、宋屋後もそれぞれ一派を成している。
 几圭は、高井氏、庵号は郢月居(巴人の庵号の郢月泉と関係があるか)、薙髪して宋是を名乗る(これも巴人の別号の宋阿と関係があるか)。蕪村の後継者となる几董は、几圭の次男で、几董の初号は雷夫である。
 京都椿寺の地蔵院に在る「宋阿早野巴人墓」の建立者の可焉は、宋屋よりも几圭に近い俳人のように思われるが、蕪村が夜半亭二世を継承した明和七年(一七七〇)当時には、宋屋(明和三年=一七六六没)も几圭(宝暦十年=一七六〇)も亡き京都の巴人門の中では、最古参の俳人の一人だったのであろう。
 そして、蕪村は、「愚老ひろめの事(文台開きの事=宗匠になったことを世間に知らせる儀式)も、滞りなく相済み候間、御安心下さるべく候」(明和七・一七七〇年三月二十二日付の召波宛書簡)と、宋阿(巴人)没後二十八年の後に、夜半亭誹諧が京都で蘇ったのであるが、その夜半亭継承に関連しては、いろいろと複雑なことがあったのであろう。
 この蕪村が夜半亭誹諧を継承した明和七年(一七七〇)から可焉が没した明和九年(一七七二)の、この二年間という短い期間前後に、可焉は、「宋阿(巴人)敬慕の墓守を自らに命ずる意味で俳諧寺を名乗り、詣墓を建てた」とする推測も十分に成り立つであろう(『谷地・前掲書)。
 なお、この可焉について、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、
「安永三年=一七七四没」「上坂(『誹諧家譜後拾遺』)氏は上阪氏の表記」と、『誹諧家譜後拾遺』とは違った記述をしている。

 ここで、明和七年(一七七〇)の蕪村の夜半亭継承について、別な観点からすると、次のような環境にあったということが言えるであろう。

一 宋阿(巴人)俳諧の継承者の第一は、宋屋であったが、宋屋は、明和三年(一七六六)に没し、その宋屋誹諧は、宋屋の高足の武然(望月氏)に引き継がれている。
二 この宋屋に次ぐ几圭は、宝暦十年(一七六〇)に没しているが、生前に、宋阿(巴人)の別号である「郢月泉」に因んでの「郢月居」を別号としており、その几圭誹諧は、遺児の几董が引き継ぐとすると、几董が、宋阿(巴人)俳諧の、「郢月泉」なり「夜半亭」を継承することは一つの自然の流れであろう。
三 明和七年(一七七〇)当時、宋阿(巴人)の「夜半亭」の継承者としては、江戸と京都の巴人門の中で、蕪村より年長者の結城の俳人雁宕(砂岡氏)が健在であったが(安永二年=一七七三没)、雁宕は江戸俳壇関連の人で、京都俳壇とは極めて遠い存在で、「夜半亭」の継承者としては、やや難点があったことであろう。
四 明和六年(一七六九)に、『江戸廿歌仙』(湖十等編)に比すべく『平安二十歌仙』(三宅嘯山等編)が刊行され、その発句の部(「追加 四季混雑」)で、その筆頭に蕪村の四句が収載されている。この『平安二十歌仙』は、太祇(紀逸門)・嘯山(宋屋門)・随古(巴人門)の三吟二十巻が主たるもので、発句には、太祇(四句)、嘯山(四句)、随古(二十二句)と、最も句数が多いのは随古(湯浅氏)で、この三人が当時の京都俳壇の最右翼に位置していたのであろう。そして、この三人は、当時の蕪村と親交が厚く、特に、太祇は、当時の蕪村の三菓社句会の実質的なリーダー格的な役割を果たしていた。この三人は、蕪村の夜半亭継承に大きな役割を果たしたであろうことは、想像するに難くない。
五 この『平安二十歌仙』の発句の部にも、「可焉・来川」の名は見られない。また、几董の亡父几圭十三回忌を早めて、明和九年(一七七二)に刊行した、蕪村七部集の筆頭を飾る『其雪影(几董編)』にも、その名は見られない。そして、この『其雪影』こそ、夜半亭二世蕪村とその三世を引き継ぐことが約束されている几董とが、世に問うた第一の俳諧撰集ということになろう。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、蕪村が「京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」と痛罵したのは、生粋の京都人の几董宛て書簡の中であり、当時の夜半亭誹諧(三菓社社中)の主だった面々(随古・召波・烏西・峨眉・図大・田福・百池・鶴英・子曳・自笑・鉄僧・杜口・馬南=大魯・維駒・郢里等々)の殆どが、京都人であることに鑑みると、故郷喪失者(「浪速江近きに生を享け、若くして江戸放浪の身となり、京に定住しても余所者意識の強い、帰るべき母郷と決別している「故郷喪失者」)としての、「やるかたなきよりうめき出(いで)たる実情」(安永六・一七七七年二月二十三日付、柳女・賀瑞宛書簡)の吐露に近いものであったという思いを深くする。

早野巴人墓.jpg
京都・俗称椿寺で知られている地蔵院の「宋阿早野巴人墓」
左側=墓碑(正面に「宋阿墓」、碑影に「こしらへて有とはしらす西の奥/俳諧寺可焉建之)
右側=記念碑(側面に「巴人晩年宋阿ト号ス其角ノ門人ニシテ蕪村ノ師ナリ享保ノ中頃京ニ来往後江戸ニ帰リ寛保二年六月六日歿享年六十七/昭和七年七月 藤井紫影)
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