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蕪村の絵文字(その十) [蕪村書簡]

(その十)

其雪影.jpg
『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「巴人・几圭対座像」

 『蕪村七部集』のスタートを飾る『其雪影(几董編)』は、巻首(上巻)と巻尾(下巻)との二巻から成り、明和九年(一七七二)に刊行されている。この俳諧撰集は、宝暦十二年(一七六二)十二月二十三日に没した父几圭の十三回忌追善のために編んだものであるが、几圭の実際の十三回忌は安永三年(一七七四)で、それを二年引き上げている。
 それは、明和七年(一七七〇)三月の、蕪村の夜半亭二世継承と大きく関係していることであろう。この六月より、几董は俳諧修行のため句稿を書き始め、その第一集が『日発句集』(明和七年歳旦より翌八年六月に至るまでの「発句・連句・俳文・紀行等」の記録集)である。
 その『日発句集』の「発端」には、「巴人(夜半亭一世)・几圭(巴人門の高足で几董の父)・蕪村(夜半亭二世)」の三人を、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」とし、その三人の句を「巻のかしら(頭)」とするということで、その「数十章」の句が列記されている。
 この几董の『日発句集』を目の当たりにすると、蕪村は夜半亭二世を継承する時に、その三世は、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」の、この「亡父(几圭)」の遺児(几董)にバトンタッチをするということで、蕪村に懇請をされたものであろう。
 几董は、明和七年(一七七〇)七月に、この蕪村の懇請を受けて、夜半亭社中(三菓社中)に、馬南(後の大魯)と共に参加する。蕪村は、将来の夜半亭社中を、この二人に託するという意味合いもあったのであろう。

 当時の夜半亭社中の連衆(会衆)は次のとおりである。

(明和三年三菓社句会の初回からの連衆)
 蕪村・太祇・召波・鉄僧・竹洞・印南・峨嵋・百墨(後の自笑)
(明和三年七月~明和五年七月、蕪村讃岐行のため休会)
(明和五年三菓社句会再開、以降の新参加者)
 鶴英(伏見、明和五年六月~)、田福(明和五年七月~)、五雲(江戸より移住、明和五年十二月~)、図太(江戸より移住、明和六年~)、鷺喬(伏見、明和六年六月~)、竹護(江戸より移住、明和七年六月~)
 几董・馬南(後の大魯)=明和七年七月~
 泰里(江戸より上京)・嘯山(泰里の上京中参加)=昭和七年七月~九月

 蕪村が、夜半亭二世を継承したのは、明和七年(一七七〇)三月であるが、その翌年の明和八年(一七七一)八月に、盟友太祇が没(享年六十三)、秋に伏見の鶴英没、そして、十二月に、召波没(享年四十五)と、悲報が続く。そういう悲報と併せ、上記の三菓社中は夜半亭社中に移行し、三菓社句会は高徳院(知恩院の一院の名)発句会に衣替えをして行く。この高徳院発句会の新参加者は次のとおりである。

(明和八年四月~) 百池、その他几董社中数名
(明和八年八月~) 武燃(宋屋門)、重厚(蝶夢門)、維駒(十一月~)

 この明和八年(一七七一)の春に、蕪村は『明和辛卯春』の春興帖を刊行し、その翌年の明和九年・安永元年(一七七二)、上記で紹介した『其雪影(几董編)』が、単なる几圭追善集ではなく、夜半亭一門の実質的な俳諧撰集として広く世に問うことなる。
 この翌年の安永二年(一七七三)に、几董は「春夜楼」という俳諧結社を結成し、独自に『初懐紙』と称する歳旦帖を出している。すなわち、几董は、蕪村の夜半亭社中から独立して、俳諧宗匠(点者)の道を歩み始める。
 この几董の独立と歩調を併せ、馬南(大魯)が、大阪で「蘆陰社」という俳諧結社を結成する。馬南(大魯)が俳諧宗匠(点者)となったのは、蕪村よりも早く、明和七年(一七七〇)の在京俳諧宗匠(点者)六十余人中、馬南(大魯)は五十七番目、蕪村は六十四番目で、宗匠(点者)としては大魯が先輩格であるが、その業俳(俳諧を業とする)のままに、蕪村の夜半亭社中に参加し、蕪村を師と仰ぐのである。
 そして、この安永二年(一七七三)に、几董と馬南(大魯)の両吟歌仙一巻を筆頭にした、『蕪村七部集』の第二集に当たる『あけ烏(几董編)』が刊行される。この『あけ烏』は、蕉風復興を志向し、俳諧の新風を世に示すものであった。同時に、几董一門の歌仙二巻が収載され、几董の「「春夜楼」俳諧のスタートを意味するものであった。
 これらの夜半亭一門の几董や大魯の動きと並行して、当時、二十二歳の月渓(松村氏)が蕪村の句会に参加している(『耳たむし』)。それは、その翌年の安永三年(一七七四)からスタートする、「高徳院発句会」から「月並発句会」への衣替えと繋がっている。
 この夜半亭一門の「月並発句会」の連衆(会衆)は、従来からの、「蕪村・几董・田福・鉄僧・自笑・百池・佳棠・我則・五雲・維駒」等の他に、「月渓・道立・柳女・賀瑞・正名・東瓦」等が参加して来る。

 さて、冒頭に掲げた『其雪影(几董編)』の「巴人・几圭対座像」について触れて置きたい。

この右上の画像は、巴人像で、その上に、「郢月泉巴人 後以巴人為菴号 更名宋阿 別号夜半亭」(郢月泉巴人、後ニ巴人ヲ以テ菴号ト為シ、名ヲ宋阿ニ更メ、別ニ夜半亭ヲ号ス)と、説明書きがしてある。その左に、次の巴人の句が記述されている。

 啼(なき)ながら川こす蝉の日影哉

 その巴人に対座しての左下の画像は、几圭像で、その右に、「高几圭 後更名宋是 号几圭菴」(高《井》几圭 後ニ名ヲ宋是ニ更メ、几圭菴ト号ス)と説明書きがあり、左上に次の几圭の句が記述されている。

  凩のそこつはあらでんめ(梅)の花

 巴人像の文台の右下に、「夜半亭蕪村画 門人高几董書」とあり、蕪村が画像を描いて、書は几董筆であることが記述されている。

 実は、この「巴人・几圭対座像」の前に、「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」があり、そこに、次の三句が記述されている。

  古いけや蛙とび込(こむ)水の音   芭蕉翁
  稲妻やきのふは東けふは西      晋其角
  黄ぎく白菊そのほかの名はなくも哉  雪中菴嵐雪

 この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」と「巴人・几圭対座像」とにより、蕪村が継承した夜半亭俳諧は、「芭蕉→其角・嵐雪→巴人→几圭」に連なり、「蕪村→几董」に継承されて行くことを示唆している。この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」は、次のとおりである。
芭蕉・其角・嵐雪像.jpg
『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」
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