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蕪村の絵文字(その十三) [蕪村書簡]

(その十三)

道立宛書簡.jpg
『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「一一八道立宛宛」

[ 青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
 これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。御心切(しんせつ)之段々、忝(かたじけなく)奉存候。
   四月廿五日                    蕪村
道立 君
 尚々(なおなお)枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候。 ]

 この書簡中の句、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」は、安永九年(一七八〇)の几董編『初懐紙』に収載されている。そのことから、この書簡は「安永九年」の書簡と推定されている。
 その『初懐紙(几董編)』には、「正月廿日壇林会席上探題」のところに、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」の前書きを付して、「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の句形で収載されている。
 この「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」とは、「司馬相如が富豪の娘で寡婦の卓文君に琴歌に託して意を通じ妻にした故事」(『蒙求・文君当壚』)を裏返し、琴を三味線に転換してのものとの解がある(『蕪村全集一発句』所収「二〇九四頭注」)。また、「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばな交じりの菫のみして」(藤原公実『堀河院百首』)を踏まえての句のようである。
 句意は、「恋する人の垣根に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花が咲いている」というようなことであろう。そもそも、この句は小糸とは関係のないものなのだが、この書簡中に置くと、「恋する人の垣根(家)に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花ならず、小糸の三味線の音色が伝わって来る」というようなニュアンスになって来よう。

 そして、この句の創作年次の安永九年(一七八〇)を根拠にして、この書簡も同年のものと即断するのは、必ずしも正当とは言えないであろう。事実、天明二年(一七八二)五月の『花鳥篇』(「小糸と同座しての連句が収載されている」)刊行後の、最晩年の天明三年(一七八三)と推定しているものもある(『戯遊の俳人与謝蕪村《山下一海著》』)。

 ここで、この書簡の宛名の樋口道立について触れて置きたい。

 樋口道立は、元文三年(一七三八)生まれ、文化九年(一八一二)没。本名、樋口道卿、通称、源左衛門。別号に、自在庵・紫庵・芥亭など。明和五年(一七六八)版『平安人物志』の儒者の部に「源彦倫、字道卿、号芥亭、下立売西洞院東ヘ入町、樋口源左衛門」と掲載されている。『日本詩史』の著者江村北海の第二子で、川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を嗣いだ。安永五年(一七七六)四月、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵再興が企てられ、写経社会が結成されると管事となっている。蕪村との交遊は二十余年に及ぶが、蕪村門人というよりも蕪村盟友という関係が相応しい。天明元年(一七八一)五月に芭蕉庵は改築再建される。

 ここで、この書簡が出された年次について、金福寺内の芭蕉庵が改築再建された天明元年(一七八一)五月二十八日前の四月二十五日というのが浮かび上がって来る。
それは、この書簡の理解に最も相応しい『几董・月居十番句合(蕪村判)』の「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」に対する、蕪村が判定を下した次のものに、この書簡のニュアンスが最も近いということに他ならない。

[ 老(おい)初(そめ)て身のむかしだにかなしきといふにもとづき、恋ほど切なるものはあらじといへるに、老が身の事々物々に親切なる、況(いはんや)人のきくを憚るも「年過半百(白)不称意」(年半百ニ過ギテ意ニ称ハズ)といふがごとく、かく老が恋の切なれども、秋のくれのそゞろのものゝかなしき、「眇々悲望如思何」(眇々タル悲望思ウモ如何)ともの字をもて自問自答せるなり。  ]
『蕪村全集四俳詩・俳文』所収「評巻五蕪村判、几董・月居十番句合(天明元年)」

 ここで、前回の「天明二年(一七八二)」の年譜と合作すると次のとおりとなる。

(天明元年=一七八一)
四月二十五日 道立宛書簡(「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候」)。
五月二十八日 芭蕉庵改築再建に際し、芭蕉庵再興記を自筆に記して奉納する。
八月十四日 几董・月居の十番左右句合に判す「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」(『反古瓢』)。
(天明二年=一七八二) 
一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

老いが恋.jpg
『蕪村全集四俳詩・俳文』(第四巻月報「老が恋・芳賀徹稿」所収)

 上記は、安永三年(一七七四)九月二十三日付大魯宛書簡の後半部分である。『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』によると、次のとおりである。

[ 狐火の燃えつくばかりかれ尾花 
是は塩からき(趣向・技法の古くさい)様なれど、いたさねばならぬ事にて候。御観察可被下候。
几董会 当座 時雨
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
  しぐれの句、世上皆景気(叙景の句)のみ案(あんじ)候故、引違(ひきちがえ)候ていたし見申候。「真葛(まくず)がはらの時雨」とは、いさゝか意匠違ひ候。
  右いづれもあしく候へども、書付ぬも荒涼に候故、筆之序(ついで)にしるし候。
  余は期重便(じゅうびんをごし)候。頓首
   九月二十三日          蕪村
大魯 様                      ]

 この書簡中の「真葛(まくず)がはらの時雨」というのは、慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原の風騒ぐなり」(『新古今・巻十一』)を指し、その「風が吹いて葛が白っぽい裏を見せる、恨み(裏見)で心の落ち着かない恋心」と、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「老(おい)が恋」とを、「時雨」が同じだからと言って、同じように取って貰っては困るというようなことであろう。
 とすると、この「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の句は、先に紹介した『花鳥篇』の「花ちりて身の下やみやひの木笠」の「花ちりて」に近いもので、その背後に、式子内親王の「花は散りてその色となく詠(なが)むればむなしき空に春雨ぞふる」(『新古今・春下・一四九』)の、「花は散り=人生の終わり」「むなしき空=虚空」を意識している雰囲気で無くもない。
 同様に、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「わすれんとすれば」の字余りは、式子内親王の「花は散りて」の字余りを意識してのものなのかも知れない。

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな(安永三年大魯宛書簡)
  妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
       (安永九年『初懐紙《几董編》』・天明元年道立宛書簡) 
  花ちりて身の下やみやひの木笠(天明二年『花鳥篇』)

 蕪村が「老(おい)が(の)恋」を主題にしたのは、安永三年(一七七四)、五十九歳の頃である。爾来、没する天明三年(一七八三)、六十八歳までの、約十年間の主題であり続けた。
その間、冒頭の天明元年(一七八一)の道立宛書簡のように、「よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし」と自戒の書簡を認めることもあった。
 しかし、その書簡に記すが如き、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」、それが、「泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候」と、この「老(おい)が恋」は、表面的には形を失せても、内面的には益々、蕪村の主題としてあり続けたのである。
 そして、そのエッポクメーキング(それを示す象徴的なもの)が、天明二年(一七八二)の『花鳥篇』なのである。
 そこに収載されている蕪村(夜半)の句は、「花ちりて身の下やみやひの木笠」、どうにも、「花ちりて」「身のしたやみ(闇)や」と、「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」なのである。
 しかし、その「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」の、その底流に流れているものが、実は、『花鳥篇』の中に、さりげなく記されている。

[ 寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波将軍(ふくはしやうぐん)が老当益壮といへるぞ、よろずの道にわたりて致(おもむき)を一にすべし。古(いにしへ)、市河(川)栢筵(はくえん)、今の中むら(村)慶子などは、よくその道理をわきまへしりて、年どしに優伎(いうぎ)のはなやかなるは、まことに堪能(かんのう)の輩(ともがら)と云ふべし。  ]
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」

 ここに出て来る「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」とは、『後漢書(馬援伝)』に出て来る馬援のことで、その馬援の言葉の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」こそ、蕪村の「老(おい)が恋」の底流に流れているものなのであろう。
 それは、実生活上でのものというよりも、芭蕉俳諧の「さび・しをり」に対して、蕪村俳諧は「壮麗」を目指したいという、蕪村の創作理念とも言うべきものなのであろう。
そして、その「壮麗」の具体例として、立役の名優二代目市川団十郎(俳号栢筵)と女形の名優初代中村富十郎(俳号慶子)の歌舞伎役者を挙げ、彼らは年齢に関係なく壮麗・華麗な優伎を現出させており、それを範とすべきと言うのであろう。

 この「老当益壮」の視点から、冒頭の「道立宛書簡」を読むと、蕪村の真意が明瞭となって来る。

一 「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。」 → ご意見承知いたしました。
二 「去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ   」 → 然しながら、その風流で得た句の、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」を、
どうか、ご批判下さい。
三 「これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。」→ この句は、泥の中から玉を拾ったような気持ちです。外出もせず、画室にて、この句より得た「「老当益壮」の「壮麗なる句そして画」を構想してるのが、今の楽しみであります。

 また、この「尚なお書き」の「枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候」からすると、道立の「御意見」というのは、当時の金福寺内の芭蕉庵再興という大きな懸案事項を抱えていて、「健康第一を旨として戴きたい」というようなことが包含されているような感じに受け取りたい。
 それに対して、「多情を戒める枇杷葉湯を頂戴し、これは、まさに俳諧(滑稽)です」というのは、蕪村と道立との信頼関係における成り立つ「遊び心」の表現なのであろう。

(補説一)

 上記の『花鳥篇』の「寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。(攻略)」について、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、次のように記している。

これは蕪村の手で天明二年に刊行された『花鳥篇』に収める六十七歳の老蕪村の壮麗論である。芭蕉一門の「さび・しをり」に対して、蕪村はここで「壮麗」を対立理念として提唱した。その基本にあるのは「老当益壮」(老イテハマサニマスマス壮(さか)ンナルベシ)ということだ。門人の几董はこういう師の蕪村について、「もとより懶惰(らんだ)なりといへども、老イテハ当(まさ)ニ益々壮(さか)ンナルベシと、つねに伏波将軍の語をつぶやき」と言っている。『後漢書』馬援伝に見える言葉で、伏波将軍とはこの馬援のこと。蕪村の青春の詩は五十代から六十代にかけて花を咲かせた。蕪村が祇園の妓女小糸と、生涯で最も熱烈に恋をしたのは六十五歳から六十八歳の死までである。「老」という人生の喪(ほろ)びを前にした壮麗論だ。それは落日が黄昏(たそがれ)に近いがゆえに限りなく美しかったようにである。老いの喪びゆえに、壮麗な美しさを見せる落日の美学だ。(『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』所収「落日庵蕪村の詩論」)

(補説二)

上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』中の、蕪村の「懶惰(らんだ)」そして「老当益壮」関連については、やはり、蕪村の最高傑作詩篇とされている、安永六年(一七七七)二月の春興帖『夜半楽』の三部作(「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」)と、さらに、安永四年(一七七五)作の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の「憂き我・老懶」などの関連で、再構築が必要となって来よう。その再構築(メモ)の一端を下記に掲げて置きたい。

一 蕪村の安永四年(一七七五)の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのことは言をまたない。

二 芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。

三 蕪村の安永五年(一七七六)の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでないなかにあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。

四 それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。

五 さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」としつつ、そして、いよいよ募る「憂い・老懶」に、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」たる、「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」を以てしたのではなかろうか。

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