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蕪村の絵文字(その十五) [蕪村書簡]

(その十五)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 上記の書簡について、先に(「蕪村の絵文字・その一」)下記の(参考)とおり記した。しかし、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、蕪村の恋の句関連の書簡として、概略、次のとおりの鑑賞をしている。

一 夏山はつもるべき塵もなかりけり

 この蕪村の句は、「君なくて塵つもりぬる床夏(とこなつ)のつゆ打ちはらひ幾夜寝ぬらん」(『源氏物語(葵)』)を背景としている。この歌は「常夏(とこなつ)」に「床(とこ)」を言いかけたもので、これは妻の葵の上を失った源氏の独り寝を「塵つもりぬる床」と表現したものである。
 また、「塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝(ぬ)るとこ夏の花」(『古今集』・巻三)の歌は、「塵のつもりぬる床」の逆で、「塵をだにすゑじ床」の意となる。
 これらの歌を背景とすると、上記の句は、「塵の積もるはずの独り寝の床にあって、その積もるはずの塵さえないほどに、悶々とした日々を送っている」ので、今日の遊びに「御誘引を賜りたい」と続くとの鑑賞のようである。

二 「池」「ち」「千」の羅列は、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている

 俳諧入門書の『俳諧独稽古』に「三字中略は千鳥(ちどり)を塵(ちり)と取る」とあるように、「チドリ」の三字を中略して「チリ」を発句としている。蕪村のこの書簡は、この「賦物」形式を利用して、発句に「塵」を詠んで「千鳥」の名を暗示し、そこから、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている。
(そして、蕪村の「千鳥」の句には、妓楼の情緒を含んでいるようなニュアンスなのである。以下は、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』の引用ではなく、『蕪村全集一発句』所収「明和五年(一七六八)作『千鳥』の句」を挙げて置きたい。)

二六四 磯ちどり足をぬらして遊びけり
二六五 打(うち)よする浪や千鳥の横歩き
二六六 湯揚(あが)りの舳先(へさき)に立ツや村衛
二六七 風呂と見て小船漕(こぎ)よる千鳥哉
二六八 風雲のよすがら月のちどり哉
二六九 浦ちどり草も木もなき雨夜哉
二七〇 羽織着て綱もきく夜や河ちどり
二七一 むら雨に音行(ゆき)違ふ衛かな
二七二 ふられたる其(その)夜かしこき川千鳥
二七三 鳥叫(ない)て水音暮るゝ網代かな
二七四 わたし呼(よぶ)女の声や小夜ちどり
二七五 小夜千鳥君が鎧に薫(たきもの)す
二七六 鎧来て粥を汲む夜や村千鳥

 そして、橘南谿の『北窓瑣談』(文政十二年、一八二九)に、「加茂川の西岸三条辺に、冬のころ暫し住みしことのありしに、夜は川千鳥はなはだ多く啼く。久しく京に住みながら、かく千鳥の多きことを始めて知りたり」とあるように、鴨川には千鳥が群をなして鳴いていたのである。そうした鴨川の千鳥の情緒が、祇園の妓楼を包んでいたと言うのである。

※ 「蕪村の絵文字」ということで、「蕪村書簡」中の、「絵が描かれている書簡、謎を秘めているような書簡」などを見て来たが、そのスタート時点の、この書簡からして、上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』のように、どうにも、「謎が謎を生んで行く」気配で無くもない。
 しばらくは「蕪村書簡」(蕪村の絵文字)にはのめり込まないことが肝要なことなのかも知れない(丁度「その十五」は、その「潮時」に相応しいのかも知れない)。

(参考) 蕪村の絵文字(その一)

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。
  
  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)とか「銭貨・銀貨・金貨」などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

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