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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その二) [芭蕉翁像]

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg



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