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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その八)  [芭蕉翁像]

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
 その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
 初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
 この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
 蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
 さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
 それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。

選書・芭蕉像.jpg
『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」


『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙    
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
  伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。

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