So-net無料ブログ作成

蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十一)  [芭蕉翁像]

(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

西岸寺芭蕉立像.jpg
『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  
 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。

[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。  ]

 上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
 芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
 明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
 三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。

 上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。

 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)

 これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。

 ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。
 
 この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
 いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
 蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
 そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
 また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
 というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
 これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。

俳仙群会図・部分.jpg
「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)



コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。