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芦雪あれこれ(海浜奇勝図屏風) [芦雪]

(その十三)海浜奇勝図屏風

芦雪・山水図屏風.jpg

海浜奇勝図屏風(芦雪筆)六曲一双 メトロポリタン美術館蔵
各一五四・六×三五六・〇

「この屏風が今や日本に存しないことに複雑な気分になる。ある時期まで、茶や禅だけを日本の美の核とする(今もつづいている)錯覚のあることが、たとえばこうした作品を喪わせたのである。金地屏風を前にして墨色によって奇景を描くことは、痩せ枯れた美とは相対するものと思われたに相違ないが、日本美は厳然としてここにあるのだ。」
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」

「芦雪画の魅力(狩野博幸稿)」(『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収)は、次の九つの視点から記述している

一 対比 二 型破り 三 空間構成 四 生命観 五 律動 六 表現の冒険 七 即筆 八 自由の絵画 九 抒情の真実

 この「海浜奇勝図屏風」は、「五 律動」の中で取り上げられているが、この作品を通して、上記の九つの視点から、芦雪画の魅力・特徴を次の通り説明することも可能であろう。
(なお、次の記述の『』の記述は、「芦雪画の魅力・狩野博幸稿」を引用している。)

一 対比 

 芦雪画の魅力・特徴の第一は、『黒と白、大と小、高さと低さ、漲(みなぎる)る力とフット力を抜いたすがた』など、その対比の妙にある。この絵ですると、上段の「左隻(落款のある隻)」の「動・ダイナミック」と下段の「右隻」の「静・スタティック」ということになろう。

二 型破り

 『型破り、とは伝統を無視することだ。もっというならばあたかも伝統を無視するように動くことであろう。』 この「型破り」とは「意表を突く」という言葉に置き換えても良かろう。この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山、その豪快な筆さばきは、まさに「度肝を抜く」という言葉がより適切であろう。そして、小さな小舟に小さな五人の人影も、やはり「奇(型破り)」という言葉が適切であろう。それに比して、この「右隻」の穏やかさ、そして、やはり人家に「老師と三人の若き人影」も、やはり「奇(型破り)」で、それは「新」に連なるということを意味するのかも知れない。
 なお、冒頭の作品解説(「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」)の「『茶と禅を基調とする日本文化』=『痩せ枯れた美』」(伝統)に相対する「奇(型破り)は新なり」(革新)の解説は、この「型破り」に多く由来している。

三 空間構成

 『粗野と精緻を一つの作品で表現し尽した屏風絵は、応挙師匠一途の弟子たちの精神世界では、生まれるはずもない画境というほかはない。』 ここで言う「粗野と精緻」というのは、応挙風の写実主義(写生主義)の見地からすると「粗野と精緻」ということなのであろう。この「海浜奇勝図屏風」ですると、「左隻」が「粗野」、そして、「右隻」が「精緻」の世界で、その「対比」の世界は、応挙門ではタブーであったのであろう。しかし、芦雪は敢えて、そのタブーに挑戦する途を選んだのだろう。芦雪の「対比」「型破り」は、すべからく、芦雪の「空間構成」(「空間マジック」)の巧妙さに由来する。「右隻」そして「左隻」の、それぞれの「空間構成」の凄さ、そして、「右隻」と「左隻」とが一体となっての「空間構成」の凄さは、まさに、芦雪の独壇場の世界であろう。

四 生命感

 『応挙の膨大な数の弟子たちのなかにあって、芦雪が孤立していたことは疑いようがない。芦雪自身は《孤立》を恐れなかったが、その芦雪の《孤立》自体を《社会的存在》と化していた円山派の画家たちが許すはずはなかったのである。《自由》こそが十八世紀京都画壇のレゾン・デートル《存在理由》であったのに、円山派そのものが体制へと変貌した。』
 この前に、『応挙を筆頭とする写生画派』という言葉が出て来る。この「写生」の「生」を「生命感」と捉えると、応挙も芦雪も他の応挙門の全てが、この「生命観」を描出することに専念した。そして、応挙が追及したものは、目に映る外的な「生命観」で、目に見えない内面的な「生命観」は、拠雑物として排斥した。そして、応挙門の多くが、師の応挙の、この姿勢に追随したが、芦雪は、応挙の姿勢を足掛かりにして、応挙門ではタブーの内面的な「生命観」の世界をも、自己の造形の世界に取り入れようとした。
 それが、芦雪の「対比・型破り・空間構成」等々で、それらが応挙の世界からすると逸脱した世界ということになろう。
 「海浜奇勝図屏風」でするならば、この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、「悪画」(「己れ一人と心得て慢心になり、画はいよいよわるくなり」=『書画聞見集《応挙門・東東洋からの聞書き集=澹斎編》』)の見本とされ、あまつさえ、「芦雪は困窮して大阪で首をつった」などの流言すら、この書により喧伝されることになる。
 しかし、芦雪は、決して、反「応挙」ではない。応挙の目指したものは、「写生」(生を写す)から「写実(生の実を写す)=生命感」であり、芦雪は、その応挙が追い求め続けた「写実(生の実を写す)=生命感」の世界へ一歩踏み出した画人であったような感じで無くもない。

五 律動

『芦雪が求めつづけたのは絵の安定性というものではなかった。そのことは、ここに掲げる二つの屏風(「白梅図」=省略「海浜奇勝図」=冒頭に掲載)を眺めるだけでも明らかではないか。』
 「生命感」と「律動」とは密接不可分のものである。それを洞察したのは、芦雪であった。それが、冒頭の、この「海浜奇勝図屏風」ということになる。

六 表現の冒険

『絵を描く、とはどんな意味を持つのだろうか。中国では昔から詩作と画作とは同じことだとして、詩は形のない絵、絵は音のない詩と永くいいつづけられてきた。』
 この「詩は形のない絵、絵は音のない詩」というのは、「詩は有声の絵、絵は無声の詩」の方が分かり易いかも知れない。そして、その「詩画一体」の世界を目指したのが、蕪村や大雅の文人画が世界であった。
 しかし、芦雪が目指したのは、応挙門の絵画の世界で、それは造形の世界であった。その造形の世界で、「形を造る」基本の「写生」から「写実」、そして、さらに「写意」(表現主義=「外形の印象から進んで内面の心の表現)へと弛まざる冒険(試行)の軌跡でもあった。
 この「海浜奇勝図屏風」で説明すれば、この「左隻」の、「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、芦雪の抑え難き「心象風景」以外の何物でもなかろう。この芦雪の「心象風景」を理解した人は、立場の相違はあれ、造形の世界の「絵画の自律性」を弛まず追求し続けた、芦雪の師の応挙只(ただ)一人のみという印象を深くする。

七 即筆

 「即筆」「席画」「画家のパフォーマンス」については、先に、「牧童吹笛図」(その十一)で触れた。「即筆」とは「『席画』などの、あらゆる場所で、あらゆる作画の要求に、瞬時に対応出来る画人としての実力」を指しての造語的なものであろう。そして、芦雪は、その「指頭画」など、抜群の「即筆」の達人であった。

八 自由の絵画

 十八世紀の京阪地方の「自由」なる文化的風土について、これまた、「牧童吹笛図」(その十一)で触れた。それは、造形という世界に限れば、画家の自由な表現意欲を湧きたたせ、その意欲に駆られた画家同志の切磋琢磨する風土と、それを支えるサロン的風土が構築されていたということに他ならない。そして、芦雪に限れば、それは、芦雪の「自在なる心」を揺さぶるものであったろう。
 この「海浜奇勝図屏風」の、この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、それを自他(他は一部の許容者)共に認めた象徴的な作品ということになろう。

九 抒情の真実

 『芦雪は、本来、抒情的感性をそれこそ豊穣にもっていた画家である。しかし、その感性にそのまま素直に表現してしまうほどには、かれの自意識は余りにも強烈すぎた。』
 「抒情」の説明は、夏目漱石の『草枕』ですると、「知・情・意」の、芦雪の本質は「情」の画人ということになろう。それに比して、芦雪が心酔し、絶えず、その鏡とした師の応挙は、「情」を殺して、「知・意」に徹した画人ということになろう。
 この相克の狭間の軌跡が、芦雪の画業の全てであったのかも知れない。
さて、この「海浜奇勝図屏風」で、芦雪の「抒情の真実」を端的に語っているものは何か(?)
 それは、いろいろな答えがあろうが、ずばり、「左隻」の「芦雪の世界」と、「右隻」の「応挙の世界」とを結びつける、「右隻」の、左側の三扇(面)の「余白と落雁(?)」の、この『あわい』(ほのかな)の「姿影」に、芦雪の『抒情の真実』の一部が発露しているように思われる。

 さて、「芦雪画の魅力・狩野博幸稿」の九つの視点に、もう一つ、「遊びこころ」を加えたい。

(十)遊びこころ

 この「海浜奇勝図屏風」(左隻)を見て、芦雪特有の「度肝も抜く・驚かせる」のパフォーマンス(作為)過剰と共に、その巨大さに対する微細な帆船の人物像などを見ると、どことなく芦雪特有の「遊びこころ」とか「おかしみ」のようなものが伝わって来る。
 人によっては、これを「慢心」とか「見せびらかしている」とか、否定的に受け取る向きも出て来ようが、こういう性向は、芦雪の生来的な気質から来ているようにも思えるのである。
 そして、この種の「遊びこころ」や「おかしみ」というのを、拠雑物として極度に拒絶する芦雪の師の応挙が、芦雪に陰に陽に諭すなどしたことが十分に窺えるが、芦雪にとっては、それは、抑えがたいものとして、応挙の教え通りにはならなかったのであろう(こういうことが重なって、芦雪の応挙門破門に関する逸話などが伝えられているのであろう)。
 こういう視点から、「右隻」の人物像を見ると、老師が一人の弟子を叱咤し、それを二人の弟子が見ている図のようにも取れ、この老師が応挙、そして、叱咤されているのが芦雪のように思えて来るのである(そういう芦雪の潜在的・無意識的なものが、その芦雪の「遊びこころ」などを通して伝わって来るというのが不可思議なのである)。

補記

一 「この屏風が今や日本に存しないことに複雑な気分になる」『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」ということについては、明治維新後の「神仏分離令」などによる「廃仏毀釈運動」などと大きく関係しているのであろう。これにより、若冲の「動植綵絵」(三十幅)が五山の相国寺から「宮内庁三の丸尚蔵館」へと渡った経緯などと同じようなことが、その背景にあるように思える。

二 この「海浜奇勝図屏風」を、「山水唐人物図屏風」としているものも目にするが、水墨画の山水画(風景画)」という範疇でネーミングするならば、上記の「右隻」「左隻」の「六曲一双」としては、後者の「山水唐人物図屏風」がより適切なのかも知れない(「メトロポリタン美術館」では、このネーミングなのかも知れない)。 

三 この「海浜奇勝図屏風」(左隻)の、この「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・洞窟・岩山などは、例えば、永徳の父・狩野松栄が大徳寺(聚光院)の襖八面に描いた「瀟湘八景図」の、次のようなものが、芦雪のイメージにあったのかも知れない。

松栄.jpg
狩野松栄筆「瀟湘八景図」(襖八面)「部分図」(大徳寺・聚光院蔵)

四 落款の「蘆雪」の「蘆」を「くさかんむりを二つの点で表す署名は、寛政十年(一七八九)の『大仏殿炎上』(その六)と同じ」(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)とすると、この作品は、芦雪の亡くなる一年前の作ということになる。

五 「芦雪の死と墓所」について、次のとおりの記述がある(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)。

[ 芦雪が、寛政十一年(一七九九)六月八日に四十六歳で没したことは、墓所、回向院(京都市上京区)の過去帳から明かである。死因は不明だが、毒殺や自害の伝聞が、相見香雨『蘆雪物語』に記されている。同年の八月に皆川淇園が記した「書安喜生得小幅五百羅漢事(『淇園文集』巻十一)には、浪華に客遊中に没し、芦雪が描いた小幅「五百羅漢」を彼の地(大阪)の墓のある寺に納めた、とある。つまり、芦雪の墓は大阪と京都にあったわけだが、大阪のそれは、東高津(天王寺区)の直指庵だったといわれる。交流のあった斯経慧梁(しきょうえりょう)の庵だが、今はなく、芦雪の養子、芦洲が天保九年(一八三八)四十周忌にあたる年に再建した墓石も、明治三十四年(一九〇一)以前に近くの天龍院に移されている。また、それとは別に、芦洲らがやはり天保九年に建てた碑が、長楽寺(京都市東山区)にある。 ]

六 応挙の絶筆「保津川図屏風」

保津川図屏風.jpg

【期間】2017年9月22日(金)~9月26日(火)
【会場】千總ギャラリー(京都市中京区三条通烏丸西入御倉町80 千總本社ビル2階)
【開館】10:00-18:00 / 水曜休館
【入場料】 無料
【アクセス】 地下鉄「烏丸御池」駅から徒歩約3分 / 阪急「烏丸」駅から徒歩約7分
「伊右衛門サロン京都」内の階段より2階へお上りください

応挙が没したのは、寛政七年(一七九五)七月十七日、その六月に、絶筆「保津川図屏風」を描く。
この「保津川図屏風」が、上記のとおり緊急公開されていた。この応挙の「保津川屏風」と、芦雪の
晩年の傑作「海浜奇勝図屏風」とは、そのダイナミックな点など、どことなく、通底しているような
印象を持った。

この「保津川図屏風」は、2012/1/28 BS JAPANの「美の巨人たち」で放映されていた。その記事は
次のとおり。

今日の作品は、江戸時代の天才絵師・円山応挙の絶筆となった八曲一双の屏風絵『保津川図屏風』。高さおよそ1.5m、幅は各隻5mに迫る特大版の屏風絵です。右隻に描かれているのは、水しぶきを浴びそうな迫真の激流。第一扇から始まるのは、怒涛の落差で流れ落ちる大きな滝です。圧倒的な水量は巨大な岩を呑み込み、轟音を立てながら下流へと流れを加速させていきます。対する左隻は、ゆったりとした渓谷の風情。悠然と流れる渓流は、多彩な表情を見せていきます。穏やかな流れの中で泳ぐ鮎、渓流にせり出す青々とした松。この屏風の前に佇むと、身も心も洗われるような爽快感が全身を吹き抜けていきます。この大作を、応挙は亡くなる1カ月前に描き上げました。

保津川は、応挙の故郷の川です。保津川上流にある丹波国の穴太村に農家の次男坊として生まれた応挙は、10代前半で京の都へとやって来ました。そこで生涯を決定するあるものと出会います。南蛮渡来の眼鏡絵です。眼鏡絵というのは、西洋の透視図法で描かれた絵をレンズで見ると、風景が立体となって浮かびあがるというものです。奉公先の玩具商でこの眼鏡絵を描く仕事に就いた応挙にとって、絵画とはまさに視覚表現でした。

やがて応挙は絵師として、京都を舞台に活躍し始めます。応挙が登場する以前、日本の画壇は御用絵師である狩野派の天下でしたが、応挙の登場によって狩野派の絵は一気に古めかしいものとなってしまいました。
応挙は、写生を基に絵を描いた最初の絵師だったのです。対象をつぶさに観察し、ありのままの姿をまさにそこにあるように描く。それは当時においては革新的なことでした。そして、その眼差しがやがて絵画に革命を起こしていきます。

さらに応挙は、対象の立体感までもをそのまま描き出そうとしていったのです。例えば松を描く際、狩野派は幹や枝を左右に大きく伸ばし平面的に描き上げます。それに対して応挙の松は、枝が左右だけではなく画面の手前や奥にも広がっています。応挙は絵画という二次元の世界に、三次元の空間を作り上げようとしたのです。それは、江戸時代の3Dとも言うべき革新的な描き方でした。
やがて応挙の立体へのこだわりは、絵を見る空間にまでスケールを広げていきます。例えば、滝を描いた巨大掛け軸は池のほとりに立て掛けて鑑賞し、絵画という仮想世界を現実の世界に繋げて一大スペクタクルを作り上げようとしました。そんな応挙の企みは今日の作品にも。この屏風、ある特別な置き方があるのです。果たして、特別な置き方とは?
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