SSブログ

芦雪あれこれ(方寸五百羅漢図) [芦雪]

(その十四)方寸五百羅漢図

芦雪・羅漢図2.jpg
方寸五百羅漢図(芦雪筆)一幅 紙本着色 (絵の部分)三・一×三・一cm
寛政十年(一七九八)作か 鉄斎堂蔵 (上記は「拡大」図)

 芦雪の師・応挙は、享保十八年(一七三三)の生まれ、芦雪の良き理解者であった皆川淇園は、享保十九年(一七三四)の生まれで、この二人はほぼ同じ年恰好である。また、応挙の門人は「門に遊ぶの徒、殆んど千を以て数う」と称されるほど多く、一方 儒学者の淇園も学問所「弘道館」を開き「門人三千人」といわれており、応挙門、そして、淇園門とも大きな集団を形成している。
 この淇園はまた、応挙門の一員で、特に山水画に長じている。淇園と芦雪との交流というのは、応挙を介してのものであろう。そして、応挙没後(寛政七年=一七九五)は、まさに、芦雪の最大の理解者で、且つ、支援者であったのであろう。
 淇園はまた、日本最初の展覧会とも言われている「東山新書画展観」を主催し、京都の画人・書家の新書画を展覧すると共に、同時に販売もするという試みも実践している。冒頭に掲げた、「方寸五百羅漢図」(一寸=三・一センチ四方)は、その「東山新書画展観」に出品された「小幅五百羅漢図」と同一作品の可能性が高いとされている(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)。
 この「小幅五百羅漢図」について、淇園は次のように記している(「書安喜生得小幅五百羅漢事(『淇園文集』巻十一)、原文は漢文、以下は翻訳文)。

[ 展観も回を重ね、京都の画家たちは新奇を競って出品している。芦雪はもともと筆が縦横に走る画家だが、毎回その奇を増し、昨夏は一寸四方に五百羅漢を描いたものを出品した。羅漢は全身像で、獅子や象、竜虎などの眷属も描かれている。微細な中にも姿はきちんと描かれ、筆はその気を表している。実に奇観である。 ]
(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)。

 ここで、前回(その十三)の「補記五」で記した、次の事項と繋がって来る。

[ 皆川淇園が記した「書安喜生得小幅五百羅漢事(『淇園文集』巻十一)には、浪華に客遊中に没し、芦雪が描いた小幅「五百羅漢」を彼の地(大阪)の墓のある寺に納めた、とある。つまり、芦雪の墓は大阪と京都にあったわけだが、大阪のそれは、東高津(天王寺区)の直指庵だったといわれる。交流のあった斯経慧梁(しきょうえりょう)の庵だが、今はなく、芦雪の養子、芦洲が天保九年(一八三八)四十周忌にあたる年に再建した墓石も、明治三十四年(一九〇一)以前に近くの天龍院に移されている。]

 さて、この芦雪の理解者にして支援者の皆川淇園と、もう一人の、淇園と同様に芦雪と深い関わりのある白隠禅師門下の「斯経慧梁(しきょうえりょう)」が、芦雪に与えた影響ということも、避けて通れないであろう。
 斯経慧梁は、享保七年(一七二二)播州姫路生まれ。姓は管氏。十二歳の時に妙心寺海福院東明和尚の室に入り剃髪授戒する。後に、駿河の白隠禅師に参じ、二十八歳の時、白隠禅師の依頼により「遠羅天釜(おらてがま)」の跋を書上(その他、白隠禅師の「槐安国語(かいあんこくご)」の原稿を整理閲読)など、白隠門下の俊才として知られる。
 宝暦八年(一七五八)、三十六歳の頃、帰京し、妙心寺第一座に上がり妙心寺海福院に住する。天明二年(一七八二)、六十歳の頃、浪速の直指庵が再興され開祖として請ぜられる。亡くなったのは、天明八年(一七八八)正月二十三日、六十六歳で、この正月三十日に、天明大火があった。時に、応挙、五十六歳、芦雪、三十五歳、呉春、三十七歳であった。
 ここで、天明三年(一七八三)の「芦雪年譜」は次のとおり記されている(『日本の美術№39 応挙と呉春』)。

「天明三年(一七八三・三〇歳)この頃、妙心寺海福院斯経の庵の粉壁上に墨龍を描く。既に妙心寺との関係あり。後に南紀の万福寺・妙法寺で襖絵を描いたといわれ、松江市の西光寺、豊橋市の正宗寺でも制作するが、いずれも妙心寺末の寺であった。」

 芦雪が、三十歳の頃、斯経慧梁は六十歳前後、応挙は五十歳前後で、芦雪が応挙門から巣立ちをする、この天明三年(一七八三)の頃の芦雪の背後には、京都の妙心寺、そして、浪華の直指庵を再興し、臨済宗最初の専門道場の江湖道場円福寺の建立を目指していた、斯経慧梁が大きく関与していたのであろう。
 その芦雪が、寛政十一年(一七九九)に、浪華(大阪)で客死した時、いみじくも、その芦雪の応挙門から独り立ちした頃の、精神的且つ全面的な支援者であった斯経慧梁が再興した「直指庵」に葬られたということは、やはり、「芦雪の死を巡っての一つの示唆」があるように思えて来るのである。
 さらに、このことに関連して、この芦雪の、淇園をして、「昨夏は一寸四方に五百羅漢を描いたものを出品した。羅漢は全身像で、獅子や象、竜虎などの眷属も描かれている。微細な中にも姿はきちんと描かれ、筆はその気を表している。実に奇観である」と、今に、その記録を留めている、それらの根底となる、この、「方寸五百羅漢図」というのは、やはり、当時の芦雪を語る、唯一にして、且つ、微細(形式上)、且つ、巨大(実質上)な作品の一つということになろう
 
 とにもかくにも、芦雪の、直接の師である「円山応挙」、そして、その応挙に次ぐべき、儒学者「皆川淇園」、そして、その「応挙・淇園」に深く連なる、禅僧「斯経慧梁」の、この三人は、芦雪の画業を理解する上で指針となる最重要人物ということになろう。

 この芦雪の最晩年の、その「死を巡っての一つの示唆」を投げ掛けている、この「方寸五百羅漢図」は、芦雪が客死し、葬られた浪華の地の、芦雪と深い関わりのある斯経慧梁の「直指庵」に奉納されたのである。
その後、紆余曲折を経て、この「方寸五百羅漢」は、平成二十三年(二〇一一)三月十二日から六月五日、滋賀県甲賀市・「MIHO MUSEUM」の、「春季特別展 長沢芦雪 奇は新なり」で、芦雪没後二世紀以上の時を経て、公開されたということになる(なお、この作品については、「直指庵」に奉納されたものと、その稿本との二種類があり、公開されたものが、このうちのどちらに当たるかは不明のようである)。

補記

一 「隻履達磨図」(芦雪筆、斯経慧梁賛)豊橋市美術館蔵

 天明六年(一七八六)の斯経慧梁の賛がある「隻履達磨図」(芦雪筆)は、斯経慧梁の師・白隠禅師の禅画にも連なる、芦雪の禅画として名高い。この「隻履達磨図」についての豊橋美術館の解説文は次のとおりである。

【長澤蘆雪は、丹波篠山の藩士上杉和左衛門の子として生まれ、少年期を淀で過ごしたといわれます。のち京都に出て円山応挙に師事し、名は魚・政勝、字は氷計・引裾、于洲・于緝などとも号しました。応挙が穏やかで平明な写実的作風をみせたのに対し、蘆雪は人間的感情を表出した独自の画境を展開しました。 [隻履達磨図]は片方の履物をもった達磨のことで、禅宗祖師の達磨伝説の一つです。衣に朱をさして達磨の朱衣とし、達磨の肉身にも朱をさしています。即興的に描いたものかとも思われますが形態把握はしっかりしています。図上には『手携履一隻/怱々何處帰/祖師真面目/雲影向西飛 天明丙午初冬 斯経拝題印』と妙心寺直指庵住職であった斯経の題があり、天明6年初冬頃の作品であることがわかります。 この[隻履達磨図]はもともと豊橋市嵩山町の正宗寺に伝わった什物で大正年間に[仁王図][羅漢図]など他の蘆雪画とともに寺を離れました。正宗寺は妙心寺派に属する臨済宗の古刹で、[波涛図][楠に鶴図]など蘆雪の画45点(重要文化財)のほか、円山応挙の[竜虎図]など数多くの書画を有することで知られています。これらは妙心寺で斯経や指津とともに修行を積んだ万年和尚が天明期に正宗寺を再興した際、襖や屏風などを交流のあった斯経や指津を通して応挙や蘆雪に依頼したものです。】

隻履達磨図.jpg
「隻履達磨図」(芦雪筆、斯経慧梁賛)豊橋市美術館蔵
紙本墨画淡彩 一三四・八×五六・〇cm

二 この「隻履達磨図」に関する達磨伝説は、「達磨が没して三年後、魏の宋雲は片方の靴だけをぶら下げて歩く達磨と遭遇した。報告を受けた帝が達磨の墓を調べると、遺体はなく、片方の靴だけがあった」というものである。すなわち、「隻履達磨図」は、「達磨の死後の復活と超人的な能力を伝えるもので、白隠禅師などが画題としている禅画の基本的なものである。
 この天明六年(一七八六)、芦雪、三十三歳の時の、この禅画と、芦雪が亡くなる一年前の寛政十年(一七九八)、四十五歳の時の、冒頭に掲げた「方寸五百羅漢図」とを、同時に鑑賞すると、そして、芦雪没後二世紀以上の時を経ての、平成二十三年(二〇一一)に、「MIHO MUSEUM」で、再び、陽の目の見た時に、この「隻履達磨図」は、どことなく、「隻履芦雪図」の面影を宿して来るのである。

コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。