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芦雪あれこれ(「降雪狗児図」と「捕鯨図」) [芦雪]

(その十五) 「降雪狗児図」と「捕鯨図」

 水墨画の世界というのは、「黒」(墨)と「白」(余白)との対比の世界、そして、それは、「墨」と「紙」(絹など)・「筆」とによって生まれる世界と解して差し支えなかろう。
 この水墨画で、「黒地」を背景なり基調にしているものがある。蕪村ですると、「夜色楼台図」、若冲ですると「乗興舟」、そして、芦雪ですると「降雪狗児図」などである。
 この若冲の「乗興舟」は、「紙本拓版画」といわれるもので、技法的には「紙本墨画(淡彩)」の純粋な水墨画とは異なるが、「黒地」を背景とするものとしては、その典型的なものということになろう。
 この「拓版画」という技法は、「拓本を取るときのように、版木の上に濡れた紙を押し付け、凹面に合わせてその紙を凹ませ、表から墨(タンポなどで)を塗ることで図様を写しとる手法」(この手法で「ぼかし」の手法=「タンポ」ではなく「丸刷毛」などにより各自工夫)と、「水墨画」と「木版画」の応用のような技法のようである。
 この「紙本拓版画」の「乗興舟」(若冲筆)と「紙本墨画淡彩」の「夜色楼台図」(蕪村筆)をミックスしたような、芦雪の「降雪狗児図」を、次に紹介したい。

古雪狗児図.jpg

「降雪狗児図」(芦雪筆)一幅 紙本墨画着色
一一四・八×五〇・五cm 逸翁美術館蔵

 これは、まさしく、若冲の「乗興舟」の世界であって、おそらく、芦雪は、若冲の「拓版画」ではなく、応挙門の一人として、応挙風の「写生・写実」をもって、「墨(淡彩)」「紙」「筆」のみで、若冲が案出した「乗興舟」の「黒」と「白」との世界を演出したのであろう。
 さらに、それだけでなく、この「降雪狗児図」の、この「降雪」は、これは、やはり、蕪村の「夜色楼台図」の、その偶発的な「夜の雪」に対して、「空間マジック」の芦雪ならではの、師の応挙その人が目指した、緻密な「計算し尽くした配合の妙」のような「降雪」を現出したという印象を深くする。
 すなわち、「夜色楼台図」(蕪村筆)の「雪」は、胡粉(白)を吹き散らして、たえまなく静かに降る雪なのに対して、「降雪狗児図」(芦雪筆)の「雪」は、胡粉(白)を垂らして、ぽつり・ぽつりと降る、この違いに着目したい。
この「吹き散らす」と「垂らす」とでは、それは、前者が「偶発性」を厭わないのに比して、後者は、それを極力排除するという、その創作姿勢と大きく関わっていて、ここに、両者の相違が歴然として来る。

 さて、もう一点、ここで、この「降雪狗児図」の、背景としての「黒」ではなく、「黒」(墨)そのものをして「動き物」(鯨)を演出している「捕鯨図」(芦雪筆)がある。

捕鯨図.jpg

「捕鯨図」(芦雪筆)「絵替り図屏風」(六曲一双)「右隻」の内(一面)
紙本墨画 一三二・〇×五五・〇 個人蔵(南紀・串本)

 この下部(半分)の「黒」(墨)が「鯨」の背中なのである。目も鼻も口も尾も何も描かれていない。「黒」一色で、微妙に、その「濃淡」が細部まで行き渡っている。これだけを見ては、「鯨」には見えないが、上部(半分)に、点々と「鯨捕りの船団」が、遠近法で描かれている。
 この単純化、省筆化(減筆体)、飄逸化、そして、融通無碍の「自由・自在・遊びこころ」(大雅筆「江天暮雪図」収載の「東山清音帖」に寄せた高芙蓉の題字=「衣服を脱いで足を投げ出して坐り、体裁にかまわないこと」=「真にその道を得たものは、一切外見を粧はない(荘子)」に通ずる)の世界は、大雅が究極的に行き着いた「江天暮雪図」に匹敵するものと解したい。

 ここに、芦雪は、その師の応挙から、さらに、応挙と肩を並べていた、若冲・蕪村・大雅にも、深く関わっていることを実感するのである。

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