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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十一 谷文晁の水墨画・肖像画) [洛東遺芳館]

(その十一) 谷文晁の町物(水墨画・肖像画)

文晁.jpg
谷文晁筆「人物花鳥押絵貼屏風」一双のうち「墨梅図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

天保元年(1830)、文晁六十八歳の時の作品です。文晁は、五十歳代から江戸画壇の第一人者として活躍していました。最盛期の文晁には、大胆な筆使いのものがあって、時に批判されることもありますが、この墨梅図では、梅の枝振りを表現するのに効果的に使われています。このような表現は、弟子の立原杏所(きょうしょ)の葡萄図にも通うところがあり注目されます。

 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。

 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。
 この時に、谷文晁は、呉春(月渓)が描いた「蕪村肖像」を模写して、その模写絵と己の「八か条の画論」とを一緒に一幅に仕立てているのである。

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」が、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

 呉春(月渓)は、他にも数点の蕪村像は描き、さらに、木彫りにしたものも見受けられるが、この像こそ「蕪村肖像」としては、最も、蕪村を知る最側近の、呉春(月渓)」ならではの会心の作と解して差し支えなかろう。
 そして、あろうことか、「江戸南画・関東南画の大成者」「江戸後期の日本画壇の第一人者」として、その「江戸画壇・関東画壇・日本画壇」の、その頂点に位置した「谷文晁」が、この呉春(月渓)の「蕪村肖像」を実見して、それを模写(臨写)して、それを、さらに、己の「八か条の画論」を付して、一幅に仕立てものが、今に、現存しているのである。

文晁・蕪村模写.jpg
谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

 ここまで来て分かったことは、しからば、これなる「谷文晁」が、今に残している「傑作画」というのは無数にあるし、あり続けるのであろうが、その内でも、その人物像、そして、その肖像画(その有名・無名の一人ひとり)、ここに注目をしたいのである。これは、おそらく、永遠不滅という思いがするのである。

 ということで、これまでにも、このサイトで活用したものなどを、ここに掲示をして置きたい。

補記一 蒹葭堂肖像画について(谷文晁筆) 大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/top_01kensho.html

補記二 近世名家肖像図巻(谷文晁筆) 東京国立博物館

円山応挙
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024598

谷文晁
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

大典和尚
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024595

六如(僧)と皆川淇園
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024599

田中納言
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

岸駒
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

木村蒹葭堂
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024604

大田南畝
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024608

頼春水(弥太郎)と村田春海
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024610

その他(この追記が、今後の課題であろう)


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