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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十五 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など) [洛東遺芳館]

(その十五) 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など

広重.jpg
歌川広重画「富士三十六景・甲斐大月の原」(大判)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』の中の一枚で、このシリーズの中で最も人気のある作品です。富士の裾を隠している山脈が、甲斐の風景らしくしていますが、この山脈がなければ、武蔵野図によく似ています。浮世絵版画の富士山図に大きな影響を与えた河村岷雪の『百富士』にも、この図とよく似た武蔵野図がありますが、広重のこの作品は秋草を大きく描いて、遠近感を強調しているのが特徴です。」

 歌川広重が生まれたのは、寛政九年(一七九しち)、この年に、喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして、北尾政演(山東京伝)などの名プロデューサーとして知られている、版元(出版人)の蔦屋重三郎(初代)が、その四十六年の生涯を閉じた年である。
 「版元」というのは、「浮世絵界の采配者」でもあり、「版元が企画を立て、その企画に沿い、絵師が描き、彫師が彫り、摺師が摺り」、そして、その完成品(浮世絵版画)を「宣伝し、販売する」という、まさに、「采配者」で、その全てに対する責任と自負が、その「版元印」に込められている(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。
 この蔦屋重三郎(初代)が、寛政三年(一七九一)、山東京伝(北尾政演)の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(きぬぶるい)』が、寛政の改革により摘発され、過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖五十日という処罰を受けたことについては、先に触れた(その九「酒井抱一・その四)。
また、前回の「葛飾北斎画『潮来絶句』」に関連して、その初版(初代蔦屋重三郎=版元)の北斎画は、「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということと、その初版のものは、やはり、寛政の改革の検閲で発禁処分になり、享和二年(一八〇二)版」のものは、二代目蔦屋重三郎が関わっているということは、先に触れた(「その十四・葛飾北斎筆『潮来絶句』の追記一)。
 これらに、下記の「葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝」(補記一)と「北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る-」を加味すると、その全体像が浮き彫りになって来る。

 さて、上記の冒頭の作品解説中の、「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』」については、下記(補記三)で全画(三十六景)が閲覧できる。その最初に、次のような記載がある。

「広重が9月に亡くなる直前の安政5年(1858)4月に版下の検閲が済んでいるが、刊行は広重の没後、翌年の6月である。蔦屋吉蔵より出版。竪大判、全36枚揃、別に目録あり。」

 この文中の「版下の検閲」というのは、上記に触れた「寛政の改革」に伴う「出版統制」のことである。その「出版統制」の内容は、時代の変遷はあれ、凡そ次のようなことである(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。

一 幕府の体制維持に反する思想等についての出版を禁止する。
二 武家についての記述を制限する。
三 幕府政治への批判を禁止する。
四 贅沢を取り締まる意味から豪華な出版物の禁止。
五 風紀を乱す出版物の禁止。

 上記の第五が、蔦屋重三郎等が処分された違反内容の主なものなのであるが、これは出版物に限らず、徐々に、一枚絵(肉筆画など)まで拡充されて行くこととなる。

 さらに、この文中の、「蔦屋吉蔵より出版」の、その「蔦屋吉蔵」(蔦吉・紅英堂)と、「蔦屋重三郎」(蔦重・耕書堂)とは、それぞれ別家で、共に、大手の地本問屋(版元)ということになる。両者の関係は、「蔦重=老舗の版元」、「蔦吉=新興の版元」ということになろう(補記四)。

 続く、「竪大判、全36枚揃」の、「竪大判」というのは、通常の「浮世絵判型(横型)」の「美濃紙(約四六×三三cm)」を「竪(立て)」にしてのということで、次の「全36枚揃」というのは、それが、「一揃い=三十六枚もの」ということになる。

 そして、何よりも、その文中の、「刊行は広重の没後、翌年の6月である」と、広重は、自己の揃いものの総決算というべき、この「冨士三十六景」の、その刊行の全貌を見ずに亡くなっているということなのである。広重が亡くなったのは、安政五年(一八五八)、六十一歳であった。

 もとより、広重の、この「冨士三十六景」は、北斎の「富嶽三十六景」を念頭に置いてのものであろうが、北斎は、広重が瞑目した六十一歳の、その同じ年齢の時(文政六年・一八二〇=六十一歳)、「為一」(還暦で振り出しに戻るとの決意を秘めてのもの)と名乗り、その新ジャンルの「名所絵」たる「富嶽三十六景」を刊行したのは(版元は「永寿堂西村屋与八」)、文政十三年(一八三〇)、七十一歳の時である。
 すなわち、広重の「冨士三十六景」が、広重の六十一歳のゴール地点とすると、北斎の「富嶽三十六景」は、その六十一歳の新たなるスタート地点を意味するものであって、同じ、「冨士・富嶽の三十六景」でも、広重と北斎のそれとでは、その年輪の重みが違うのである。
 
 事実、北斎の「富嶽三十六景」は、その「三十六景」に止まらず、さらに、十枚が追加され、その追加された十枚は「裏冨士」として、その総体は「四十六景」ということになる。その「四十六景」の最後は、次の「諸人登山(もろびととざん)」で、そこには、「冨士山の『遠景・中景・近景』の姿影」は無い(補記五)。

緒人登山.jpg
葛飾北斎「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)
(補記五)

 この北斎の「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)を、北斎よりも三十七歳年下の広重が、目にしていないとしたら、それは眉唾ものということになろう。
 ずばり、この北斎の描く「諸人登山」の、その中央の「同行二人」の、その前を行く笠を背にして無帽の、その人は、「北斎」その人であり、その後を行く笠を被った人は、「広重」と解すると、ここで、始めて、広重が生前に見ることが出来なかった「冨士三十六景」と、そして、その一つの、冒頭の、「富士三十六景・甲斐大月の原」の、その何たるかが見えて来る。

補記一 葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝

http://www.ten-f.com/hokusai-to-tutaya.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略(小林  聡稿)

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 歌川広重 冨士三十六景 (山梨県立美術館)

www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_fujisan_03fuji.htm

補記四 改元前の版元 (老舗の版元と新興の版元など) (たばこと塩の博物館)

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2001/0109seip/hanmoto.html

補記五 葛飾北斎「諸人登山(もろびととざん)」 (山梨県立美術館)

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_46.htm



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