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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十二 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十二) 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など

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月岡芳年 「官女ステーション着車之図」 (洛東遺芳館蔵)

 『芳年(岩切友里子編著)』に、題名は同じなのだが、図柄は異なるものが掲載されている。その「作品解説」は次のとおりである。

【 大判三枚続 明治十年(一八七七)頃 御届六月十三日 津田源七版 彫工山室春吉 個人蔵
駅舎に到着した華やかな官女の一行。明治十年の天皇の奈良への行幸に際し、皇后は一足早く東京を発たれた。この行啓は、明治九年十二月御届の「明治小史年間記事 皇后宮西京行啓鉄道館発車之図」に扱われている。 】(『岩切友里子・同著』所収「図版解説276」)

 芳年には、明治四年(一七八一)作の「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)がある。新橋・横浜間に鉄道が開通したのは、明治五年九月で、その一年前の作である。芳年は、実際には、蒸気機関車を見ていないで、想像で描いたものであろう。
 錦絵では、明治三年(一七八〇)に、歌川国輝(二代)の「東京高輪鉄道蒸気車走行之図」などが出版されており、それらを参考にしているのであろう。しかし、芳年作のものは、機関車の乗客や傍らの見物人が、みな西洋人で、「東京名所高輪」の風景というよりも、何処か、エキゾチックな風景だが、その蒸気機関車を上の橋の方から見ている見物人は、日本人で、メルヘン的な雰囲気を醸し出している。

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「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)月岡芳年(港区立郷土資料館蔵)

 この種の錦絵(浮世絵版画)は、「横浜絵・開化絵」(補記一)といわれる。それは、江戸から東京の様代わり、すなわち、文明開化で変遷する世相の様代わりを象徴するものであった。そして、それは、「洋装・洋髪の日本人、お雇い外国人の設計・指導による洋風建築物、石橋や鉄橋に架け替えられた橋、汽車・鉄道馬車・蒸気船などの開化乗物」などが、その主たるテーマとして取り上げられた。
 また、上記の赤色を基調とする「官女ステーション着車之図」は、別称「赤絵」とも称せられた。それは、江戸末期の頃から、ベロ藍やアニリン(赤)、ムラコ(紫)といった人口顔料が輸入され、この輸入顔料により浮世絵の色合いはより鮮明になり、特に明治に入ると毒々しいまでの赤のアニリン染料が多用されことに由来する。
 「無残絵・血みどろ絵」が、その代名詞にもなっている「芳年」の「赤」は、染料に膠を入れて光らせるなど、様々な工夫が施されているようだが、この冒頭の「開化絵」では、
アニリン染料の「赤」が効果的なのであろう。
 しかし、これらの「浮世絵版画・錦絵・赤絵・横浜絵・開化絵」などは、明治四十年(一九〇七)代になると、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」(十月四日「朝日新聞」朝刊)と、その姿を消してしまうのである(補記一)。
 翻って、上記の「官女ステーション着車之図」が制作された頃の、明治十年(一八七七)には「西南戦争」があった年で、その西南戦争の錦絵が多数制作された、錦絵の華やかな時代であった。
 それは、次第に、木版印刷から、石版・活版による大量印刷の時代と変遷し、明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争の頃には、平版による大量のカラー印刷が可能となり、完全に放逐されて行くということになる。
 暁斎が亡くなった明治二十二年(一八八九)の頃は石版の全盛時代、芳年が亡くなった明治二十五年(一八九二)の頃には、写真亜鉛版の製版法が実用化され、写真の印刷が前面に出て来るという時代史的な背景がある。
 すなわち、「浮世絵師」(版元・浮世絵師・彫師・塗師)時代は終焉を迎え、それと共に、
幕末期と明治の動乱期に名を馳せた「浮世絵師・月岡芳年」は、「最後の浮世絵師」の名を冠せられ、「狩野派絵師・浮世絵師、河鍋暁斎」は、「狩野派と浮世絵の最終地点にいる暁斎」と、狩野派すら、その終焉を迎えたと言っても過言ではなかろう。
 「近代化=西欧化=文明開化=鹿鳴館時代=西欧のものなら何でもよい」という時代の流れは、絵画の世界でも、「西洋画」が次第に力を増して、それに比して、それまでの「大和絵・漢画・文人画・水墨画・浮世絵」等々は、「西洋画」に対する「日本画」の中に埋没して、上記のとおり、その終焉を遂げたと解して差し支えなかろう。

鹿鳴館.jpg

河鍋暁斎「鹿鳴館之図」(『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』の「パリス劇場表掛かり場」)
絹本着色 一面 六二・九×九〇・八cm 明治十ニ年(一八七九)作 
GAS MUSEUM がす資料館蔵

 暁斎が、「新富座妖怪引幕」を公衆の面前で揮毫したのは、明治十三年(一八八〇)で、その一年前に、新富座の夜芝居『漂流奇譚西洋劇』(河竹黙阿弥作)のための行燈絵の十六面(月岡芳年等との競作)制作され、上図は、その内の一面のものである。
長らく「鹿鳴館之図」と呼ばれ、作者が特定出来なかった作品なのだが、つい最近の、平成二年(一九九〇)に、河鍋暁斎記念博物館の下絵から、この作品は、暁斎の「『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』パリス劇場表掛かり場」のものということが判明した、いわくつきの作品なのである。
それらの下絵には、「守田勘彌座夜芝居行燈絵五枚之内」「明治十ニ年卯」との記述があり、暁斎は、他に四面の行燈絵を手掛けているのだが、その一つの『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』米国砂漠原野之図」(補記二)は、遠く、ドイツのビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館に所蔵されている。
 このビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館は、東京医学校(現・東京大学医学部)の教師として招聘されて、明治天皇の侍医(暁斎の主治医)でもあったベルツ博士の生地の博物館で、ベルツ博士が最後まで手元に置いていた暁斎の作品などが所蔵されているようである(補記三)。
 このベルツ博士(エルヴィン・フォン・ベルツ)が、当時の江戸から東京への大動乱期について、「日本国民は、十年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した五百年あまりの期間を飛び越えて、十九世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている」(『ベルツの日記』)のとおり記している。
 続けて、「もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである」と、当時の西洋文化崇拝・輸入に血眼となり、あまつさえ、「廃仏毀釈」の寺院の廃合、仏像・仏具の破壊などの風潮に対して警鐘をならしている。
 この「廃仏毀釈」の風潮の、その延長線上に、上述の、浮世絵を始め、日本固有の「公家もの・武家もの・町もの」の絵画等々を価値なきものとして排斥し、それらが結果的に、ベルツ博士らの西洋人によって、蒐集され、それぞれの母国で再生・復活を遂げているということなのであろう。
 暁斎が亡くなったのは、明治二十二年(一八八九・五十九歳)のことだが、その最期について、暁斎の主治医でもあったベルツ博士は、その「ベルツ日記」で、「現在の日本最大の画家である暁斎は、もう今日はもつまい、胃癌にかかっているのだ。かれの絵は戯画に近いが、構想が雄大で、構成の重厚な点では、他に匹敵するものがない」と、当時の日本人の誰よりも、暁斎を高く評価しているのである。
 このベルツ博士以上に、暁斎に親炙し、暁斎の門人となり、暁斎より「暁英」の画号を授かった、イギリス・ロンドン出身の建築家(「工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)」教授)、ジョサイア・コンドルが居る。
 コンドルは、暁斎没後、『河鍋暁斎―本画と画稿』(“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”)を出版し、暁斎の名を北斎や広重の名に匹敵する画人として、その名を高からしめた。
 その他に、フランス人の、エミール・ギメ(ギメ東洋美術館の創始者)と画家のフェリックス・レガメ、イタリー人の、エドアルド・キヨソーネ(印刷技術者)、イギリス人の、モティマー・メンピス(画家)、ウイリアム・アンダソン(医師)、フランシス・ブリンクリー(軍人・ジャーナリスト)等々、暁斎の『絵日記』に登場する西洋人は枚挙にいとまがないほどである(これらについては、「芸術新潮(2015/7)」所収「暁斎タイフーン世界を席巻中(及川茂稿)」「全貌を掴ませない絵師は、いかにして葬られ、復活を遂げたか(安村敏信稿)」に詳しい)。
 
さて、暁斎画塾の門人でもあるコンドルが設計した「鹿鳴館」(華族会館)は、戦前に取り壊され、現在は存在しない。しかし、その威容は、コンドルの絵画の師・暁斎によって、上記の「鹿鳴館之図」(「パリス劇場表掛かり場」)のとおり、暁斎画として蘇っている。
また、三菱の顧問となったコンドルが、教官時代の教え子の建築家・曾禰達蔵と共に手掛けた、丸の内の赤煉瓦街・三菱館の、その一角の「三菱美術館」(旧三菱一号館美術館)で、平成二十七年(二〇一五)に、「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展で、その再生・復活を遂げている。

 翻って、平成五年(一九九三)の大英博物館での「暁斎展」(Demon of Painting;The Art of Kawanabe Kyosai」、そして、平成二十年(二〇〇八)の、京都国立博物館での、「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋-」と、爾来、「暁斎タイフーン世界を席巻中」のネーミングさながらに、着実に、その再生・復活の途を歩み始めている(補記六)。

 ここで、冒頭の「洛東遺芳館」所蔵の芳年作「「官女ステーション着車之図」に戻って、この種の開化ものが、関西の、京都の、老舗中の老舗の一角の「洛東遺芳館」に、秘かに眠っていたということは、上記のとおり、暁斎が、着実に、その再生・復活の途を歩み始めていることと軌を一にして、芳年の、その再生・復活の途も、これまた、着実に、その歩を進めて行くことであろう。

補記一 明治の錦絵

www.ndl.go.jp/landmarks/column/5.html

補記二 【河鍋暁斎】・・・・・超絶技巧の魔術師

http://blog.livedoor.jp/tama173/archives/2008-11-08.html

補記三 江戸と明治の華──皇室侍医ベルツ博士の眼

http://artscape.jp/exhibition/pickup/1199313_1997.html

補記四 三菱の人ゆかりの人 ジョサイア・コンドル(上・下)

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man12.html

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man13.html

補記四 「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展

http://mimt.jp/exhibition/pdf/outline_kyosai.pdf

補記五 河鍋暁斎展 at 京都国立博物館☆ -KYOSAI Show!-

https://blogs.yahoo.co.jp/stream_blueearth/38623899.html

補記六 他館での展覧会 - 公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館

http://kyosai-museum.jp/hp/tennrannkai.html


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middrinn

岩切友里子の岩波新書は未読ですが、
生誕200年記念のサントリー美術館の
国芳展の図録では、「相馬の古内裏」
の骸骨の写実的描写の原拠は、未解明
としつつも「当時行われていた見世物
や幻戯(妖怪人形手品)の類の影響の
可能性も鈴木重三氏によって提示され
ている」と彼女は解説してましたけど、
実際、どうなんでしょうね(@_@;)

by middrinn (2018-03-09 10:58) 

yahantei

(・ω・)ノコンニチハ 「暁斎タイフーン」などの情報サンクス(・ω・`)
「幻戯(妖怪人形手品」説もさることながら、鵬斎子の「国芳(?)
はトロイの木馬を知っていた(!!!)」の「輸入もの」説の方が、断然、見出し向きかも(。・ω・)σネ

by yahantei (2018-03-09 17:11) 

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