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「風神雷神図」幻想(その三) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(三)

風神図.jpg

暁斎「鷹に追われる風神図」一幅 紙本墨画淡彩 明治十九年(一八八六)
一三四・五×四一・四cm イスラエル・ゴールドマンコレクション蔵
【日本絵画の傑作、俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝、建仁寺)は、尾形光琳以降も酒井抱一、鈴木其一らによって模写されたし、あるいは、その「こころ」を受け継いだ作品にもなった。其一の娘を嫁にしたこともある暁斎である。「風神雷神」の作は結構描いているが、そのなかでも本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!? コンドル旧蔵。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が、昨年(2017)、次の四会場で開催された。

2017年/2月/23日(木)~4月/16日(日) → Bunkamura ザ・ミュージアム
  2017年4月22日(土)~6月4日(日)  → 高知県立美術館
  2017年6月10日(土)~7月23日(日) →  美術館「えき」KYOTO
  2017年7月29日(土)~8月27日(日) →  石川県立美術館

 そこで、「イスラエル・ゴールドマンコレクション」について、次のとおり紹介している。

【ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。「象とたぬき」の小品はもともと画帖であったものを、ニューヨークの画商がバラバラに市場に出したうちの一枚でした。ゴールドマン氏はそのうちの数点を入手し、ある顧客に転売してしまいました。しかし「象とたぬき」のことが忘れられず、後日その顧客に頼み込んで返してもらいます。今日では世界有数の質と量を誇るゴールドマン氏の暁斎コレクションは、ここから始まったのです。】

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/introduction.html

 また、この展覧会に携わった方が「学芸員のコラム」を寄せている。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/column.html

【その一 伝統を探究し、伝統で遊ぶ絵師、河鍋暁斎(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士)

狩野派と浮世絵のあいだで (略)

伝統を転回させた世界   (略)

国内そして海外での評判  (抜粋)
「狩野派の絵師でありながら戯画も描き、浮世絵師としても活躍した暁斎を当時の世間はどう見ていたのであろうか。本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった。しかし浮世絵を描き始めたのちの安政6(1859)年にも、暁斎は芝増上寺の黒本尊院殿の修復に駿河台狩野派の一員として参加している。また明治3(1870)年には書画会で酔中に描いた絵が、居合わせた官吏の目に留まり投獄される羽目にもなっているが、明治9(1876)年にはフィラデルフィア万国博覧会に博物館事務局から出品を依頼されている。世間は暁斎の振る舞いに戸惑いつつも、その画力を認めざるを得なかったのである。そして明治14 (1881)年の第二回内国勧業博覧会では、出品作のうち枯木に佇む鴉を一気呵成に描き上げた《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう。」

絵画的探究と遊び    

「晩年に出版された『暁斎画談』には、暁斎が絵画研究のために探し求めた先人たちの絵画の写しが多数掲載されている。そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており、さながら美術史全集のようである。暁斎は伝統を研究して我がものとすることを求め、時代や文化の担い手を問わずあらゆる図様に精通した。ただし『暁斎画談』に示される絵師としての熱意は、戯画に表われるユーモアとも必ずしも矛盾しない。暁斎は類まれなる優れた仏画や動物画を描く一方で、自らが得た画力と知識を使って最大限に遊んだ。そしてまた、今日の我々にもその世界で遊ぶことを許してくれるのである。

その二 生き生きとした骸骨と伝説の遊女(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略)

その三 河鍋暁斎の席画と本画(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略) 】

 上記の「学芸員のコラム」で、興味深いことは、「本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった」「《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう」という点である。
 これらのことは、「狩野派の絵師は、戯画や浮世絵には手を染めない」ということと、暁斎が《枯木寒鴉図》(前回に紹介)で最高賞を得たのは、『「平生の戯画の風習を取り払った作品の妙技」にあり、すなわち、「戯画」ではなく、狩野派流の「本画」(この作品では「水墨寒鴉図」)として評価する』ということに他ならない。
 これらのことを、「狩野派=歌人」「浮世絵=俳人」「戯画=川柳人」ということで例えると、「歌人は、俳句や川柳には手を染めない」ということと、「《枯木寒鴉図》は、和歌の世界であり、俳句や川柳の臭さがない点を評価する」ということに換言することが出来よう。
 ここで、「戯画」の簡単な定義は、「たわむれに描いた絵。また、風刺や滑稽をねらって描いた絵。ざれ絵。風刺画。カリカチュア」、そして、「カリカチュア」とは、「事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画」(『大辞林』)とでもして置きたい。
 そして、暁斎の「戯画」は、この定義の他に、上記の「学芸員のコラム」の「絵画的探究と遊び」の、この「遊び」の比重が大きく、そして、それらが、暁斎の飽くなき「絵画的探究」(「そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており」)とが絶妙に調和・結合している点に、暁斎の「戯画」の特色がある。
 このような観点から、冒頭の「鷹に追われる風神図」は、暁斎の「戯画」の世界のもので、その「作品解説」にあるとおり、「すこぶる愉しい」風神図ということになる。しかし、それだけではなく、この「鷹」に、もう一つの趣向を、暁斎は隠しているようなのである。

花鳥図.jpg

暁斎「花鳥図」一幅 絹本着色 明治十四年(一八八一)
一〇ニ・四×七一・二cm 東京国立博物館蔵
【第二回内国勧業博覧会に例の「枯木寒鴉図」とともに「蛇雉子ヲ巻ク図」の題で出品された。実は雉子はこのあと羽根をいきなり開いて蛇を裂き、喰い殺すことは皆が知っている。だが、その雉子を鷹が狙っているのだ。その瞬間を子鷹が静かに待っているというのが、この絵の眼目である。花々の鮮やかな色彩の乱舞に眼を奪われては、画家の術中に陥るばかりであろう。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 この若冲の「動植綵絵」を連想させるような、暁斎の「花鳥図」の、この父子の「鷹」に注目していただきたい。この父の「鷹」は、この「蛇」を食い殺す「雉子」を喰い殺すのである。そして、その喰い殺す様を、子の「鷹」に伝授するのである。
 とすると、冒頭の「作品解説」の、「本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!?」はの、その「すこぶる愉しい」図であることか、「瀧」の流れよりも速い、獰猛な「鷹」が襲い掛かるのを、「真っ青」になって、「逃げ惑う風神ならず獲物」の「必死の様」の図で、「生き物たちの過酷な闘い」と解すると、「冷酷無比」の図ということになる。
 ここにも、先に(「その一」で)見てきた、暁斎の「二重性の世界」の、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」
等々に加え、「喜劇と悲劇」との、その「二重性の世界」を垣間見る思いを深くするのである。
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