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「風神雷神図」幻想(その六) [風神雷神]

『北斎漫画(三編)』の風神雷神図」と肉筆画の「雷神図」(その一)

 『北斎漫画(三編)』の「序」を起草したのは、「蜀山人」こと、当時の「戯作・狂歌・狂画」の中心に居した幕臣の「太田南畝」、その人である。
その「序」は、十一歳年上の、蜀山人の北斎への限りなき絶賛の言葉なのである。

「目にミえぬ鬼神ハゑがきやすく、まちかき人物ハゑがく事難し。たとへば古の燧(ひうち)ふくろ歟(か)ふくろも丸角ゑち川の新製に及ばず。七五三の式正ハ八百膳が食次冊にしかざるがごとし。こゝに葛飾の北斎翁、目に見、心に思ふところ、筆を下してかたちをなさゞる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さゞる事なし。(以下、略)」

 そこに、北斎の「風神雷神図」が収載されている。

北斎漫画一.jpg

『北斎漫画三編』の「風神雷神図」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

国立国会図書館デジタルコレクション - 北斎漫画. 3編

この「風神雷神図」に続けて、「天狗(てんぐ)」「狒々(ひひ)」「幽呉(ゆうれい)」「山姥(やまうば)」「海市(かいし)」「船鬼(ふなゆうれい)」などが続くのである。

 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。

一  1779(安永8)年~94(寛政6)年 20~35歳
勝川春朗を名乗り、細版の役者絵、黄表紙の挿画に着手する。

二  1795(寛政7)年~98(寛政10)年 36~39歳
俵屋と称した琳派の巨匠が用いた画名を取り、百琳宗理、菱川宗理などを名乗る。狂歌絵本の挿画、摺物、肉筆画を手がける。

三  1798(寛政10)年~1810(文化7)年 39~51歳
北斎辰政(ときまさ)を名乗る。初めて北斎という号を使用。北辰とは北極星を指す。
1801(享和元)年~1808(文化5)年 42~49歳(画狂人北斎を名乗り、肉筆画、摺物に精を出す。)

四  1805(文化2)年~18(文政元)年 46~60歳
葛飾北斎、または葛飾戴斗(たいと)を名乗る。1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く。絵を描く人々や職人のための図案の手引書として森羅万象3000種のデッサンを網羅する。

五  1820(文政3)年~35(天保6)年 61~76歳
前北斎為一(いいつ)を名乗る。職人のための図案集である絵手本『今様櫛雛形』、風景画の傑作『冨嶽三十六景』などを描いた。

六  1834(天保5)年~49(嘉永2)年 75~90歳
画狂老人もしくは画狂老人卍を名乗る。絵本『冨嶽百景』などを制作する。

 上記の画号の変遷による「葛飾戴斗」、その「1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く」の、その『北斎漫画』時代が、いわゆる、前半生の「葛飾北斎」の頂点の時であったろう。
 
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。

【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

 この川原源資が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。

北斎 二.jpg


『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 この川原慶賀が模写した「風神雷神図」は、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。それらは、シーボルト(1796~1866)が寄贈したものの一部なのであろう。
シーボルトは、 ドイツの医者・博物学者。1823(文政六)年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28(文政十一)年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59(安政六)年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」などがある。
シーボルトと北斎との出会いは、1826(文政九)年に、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍、徳川家斉に謁見した頃に当たるのであろう。この時、北斎は六十七歳の頃で、為一の画号時代ということになる。
この商館長の江戸参府は、四年毎に参府することが義務付けられていて、この1826(文政九)年の参府の折りなどに、北斎(北斎と門弟による「北斎工房」)に、江戸の風景や人々の日常風景などを題材にした浮世絵などを注文し、次の参府の際に完成した作品を引き取るといった流れで、為されていったようである。
シーボルトの場合は、単に、浮世絵などの蒐集の他に、文学的・民族学的コレクション、当時の日用品や工芸品、植物学、地理学など様々な分野から大量のコレクションを蒐集し、それらが、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されているということなのであろう。
このシーボルトのオランダの「ライデン国立民族学博物館」のルートの他に、「フランス国立図書館」ルートのものもあり、これらが一同に会して、2007年12月4日(火)~2008年1月27日(日)に江戸東京博物館に於いて「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」が公開されたのであった。

https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1659/北斎%E3%80%80ヨーロッパを魅了した江戸の絵師/

 ここで、シーボルトのお抱え絵師の「川原慶賀」の作品と、シーボルトなどが特注した「北斎と北斎工房」の作品とは異質のものであるが、「北斎漫画」やその下絵に準拠している作品と解すると、広い意味での「北斎工房」の作品と解しても差し支えなかろう。
 
 とした上で、冒頭の『北斎漫画三編』の「風神雷神図」と、上記の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)とを、相互に比して行くと、まざまざと、「北斎」作品と「北斎工房(川原慶賀作を含めて)」作品とでは、「形(かたち)」は同じであっても、その「心(こころ・狙っているところのもの)」の、その落差が大きいことを実感する。それは、「北斎(その人)」と「北斎らしさ(北斎らしき人)」との、歴然とした相違点ということなのかも知れない。
 
 すなわち、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)の、その「風神雷神図」は、それは、紛れもなく、北斎を私淑する。「北斎派の一人」の、当時の鎖国下における長崎の「出島出入絵師・川原慶賀」の作品の一つと解すべきなのであろう。
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