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「風神雷神図」幻想(その十二) [風神雷神]

(その十二)国芳の「流光雷づくし」

流光雷づくし.jpg

歌川国芳「流光雷づくし」大判 天保十三年(一八四二)

 北斎は、宝暦十年(一七六〇)生まれ、国芳は、寛政九年(一七九八)生まれ、北斎を江戸中期とすると、国芳は江戸後期の画人ということになる。
 宗達は、生没年は未詳であるが、「風神雷神図屏風」は、寛永年間(十七世紀前半)の作とされ、織豊時代から江戸初期にかけての画人ということになろう。
 北斎と国芳とは、共に、江戸(東京)を本拠地としての浮世絵師として、年代差はあるが、両者は、知己の間柄と解しても差し支えなかろう。それに比して、宗達となると、京都を本拠地とし、尾形光琳共々「琳派」の祖として、北斎や国芳との世界とは異質の世界の画人ということになろう。
 そういうことを前提として、この三者の「風神雷神」図関係を、大雑把に見てみると次のようなことが指摘できる。

一 宗達「風神雷神図屏風」→ 「屏風絵」「装飾画」「金地着色画」
二 北斎「風神図」「雷神図」→ 「掛幅絵」「肉筆画」「紙本着色画」
三 国芳「流光雷づくし」→  「(大判)錦絵」「浮世絵(版画)」「多色摺木版画」

 宗達の「風神雷神図屏風」というのは、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の夜明けを告げるような絵で、戦国時代の怒り狂う「風神雷神」図が、戦乱の無い太平の世を謳歌する「風神雷神」図に様変わりしている。その象徴が、この宗達の「風神」・「雷神」で、共に「口を開けて笑っている」という図柄のように思えるのである。

 それに比して、北斎の「風神」は、北斎と国芳の継承者のような暁斎が描く「貧乏神」のように、悩める「マントヒヒ」のような風姿で口を堅く閉ざしている。「雷神」もまた、「阿吽」の呼吸で、口を開けていたものを閉じ、力強く太鼓を連打している一瞬の図柄なのである。北斎の時代は、「寛政の改革」の時代で、北斎の知己の、版元・蔦屋重三郎や戯作者・浮世絵師の山東京伝(画号・北尾政演)等が処刑された時代で、その重苦しい世相の一端が滲み出ているように思われる。

 そして、国芳になると、「天保の改革」の時代で、国芳自身、何度も奉行所に呼び出されたり、尋問を受けたり、罰金を取られたりしながら、禁令の網をかいくぐり、時の幕藩体制への鋭い風刺を、その浮世絵版画に託し続けたのである。この「流光雷づくし」も、その「流光」は「雷の光の『流光』」で、当時の「流行」とを掛けている用例で、ここに出て来る「雷神」は、ここまで来ると、「諷刺」というよりも「悪乗りの駄洒落・ギャグの親分」という印象が強くなって来る。
 ちなみに、上記の図柄は、次のとおりである。
上段(右から)
○稲妻研ぎ→  稲妻の手入れ。
○大夕立の準備 → 夕立の諸道具の手入れ。
中段(右から)
○豊年おどり→ 稲が良く育つように豊年踊り。
○神鳴り干し → 干瓢を日に干している。
○きょくうち →太鼓のバチを放り上げる曲打ち。
下段(右から)
○雲のさいしき(彩色)→雲に色を染めている。
○うす引き雷 → 石臼を回し、鉢でこねり、雷鳴の手入れ。
○雷きらい→ 擂り粉木の雷鳴に、耳を塞いでいる。

 この「流光雷づくし」では、「風神」は出て来ないが。中段(中央)の「曲打ちの緑の鬼」を、宗達の「風神」とし、その中段(右)の「豊年踊りの赤鬼・白鬼」を、宗達の「雷神」と見立てても面白いであろう。

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