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江戸の「金」と「銀」の空間(その二) [金と銀の空間]

(その二) 蕪村の「銀地(蛮州)山水図屏風」の謎

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与謝蕪村「山水図屏風」(右隻) 六曲一双 紙本銀地墨画淡彩 
各一六六・九×三六三・七cm MIHO MUSEUM蔵

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与謝蕪村「山水図屏風」(左隻) 六曲一双 紙本銀地墨画淡彩 
天明二年(一七八二)作 各一六六・九×三六三・七cm MIHO MUSEUM蔵

【 蕪村晩年の傑作である。右隻の水面にはうっすらと藍が刷かれており、下地の銀の柔らかい輝きと相俟って、何とも涼やかな情調を溢れさせている。薄明の空間に櫓声が冴え渡るかのような、静粛な月夜が想起されてくる。各隻には、我国でも広く愛読された『聯珠詩格』(元時代、于済撰)という名詩集から、張籍の「蛮州」と周南峯の「閩浙の分水界」と題される七絶を書いている。】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)。

 『与謝蕪村 翔けめぐる創意(おもい)(MIHO MUSEUM 編)』所収「作品解説144山水図屏風(河野元昭稿)」により、「右隻」と「左隻」の漢詩の全文と意訳などを次に記して置きたい。

(右隻) 署名「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」
印章「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)
章水蛮中入洞流  蛮州どこでも水悪く
人家住多竹棚頭  辺鄙な所(とこ)でも人が住む
青山海上無城郭  どこにも城壁なんかなく
只見松牌下象州  松の立て札立つばかり

(左隻) 署名「壬寅秋八月望前二日/東成謝寅製」
     印章「長庚」「春星」(朱白文連印) 
古駅頽垣不記春  古びた駅のくずれた土塀
隔籬鷄犬舊此郷  犬と鶏(とり)には垣根が邪魔だ
東家纔過西家去  東から西ちょっと歩けば
便是閩人訪浙人  浙江・福建お隣(となり)どうし

 この蕪村の晩年の傑作「山水図屏風」にも大きな謎が隠されているようなのである。

 その謎は、上記の、『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」と『与謝蕪村 翔けめぐる創意(おもい)(MIHO MUSEUM 編)』所収「作品解説144山水図屏風(河野元昭稿)」で紹介されている「山水図屏風」と、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』で紹介されている「蛮州山水図屏風」とが、同じ主題を扱いながら、その元になる作品が微妙に相違していることに大きく起因している。
 そして、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』で紹介されている「蛮州山水図屏風」は、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』では、「作品解説518山水図」で紹介されており、その要点は次のとおりである。

『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』・『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』所収「作品解説518山水図」

518 山水図 紙本銀地淡彩 六曲屏風一双 各一五一・五×三三七・四cm
款 「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」(右隻)
印 「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)(右隻)
賛  章水蛮中入洞流  
人家住多竹棚頭  
青山海上無城郭  
只見松牌下象州 (張籍「蛮州」聯珠詩格巻一四)
天明二年(一七八二) 個人蔵

 どこが違うかというと、「作品解説518山水図」は、その大きさが「各一五一・五×三三七・四cm」で、こちらの方がやや小ぶりなのである。さらに、「右隻」の「漢詩」(賛)・「署名」・「印章」は同じなのだが、「左隻」には「漢詩」(賛)・「署名」・「印章」が存在しないのである。
 これらのことについて、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』では、「一方の隻(注・左隻)もまたこのような詩句が記されていたと見られるのだが、残念なことに切り取られてしまっている」と記している。

銀地山水図.jpg

『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』所収「作品解説518山水図」(上段=右隻の「賛」等はあるが、下段=左隻には「賛」等が切り取られている。)

 上記の蕪村の銀地の「(蛮州)山水図屏風」を「銀地山水図屏風」とすると、二つの「銀地山水図屏風」が存在するということになる。
 しかし、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』を丹念に見て行くと、この「作品解説518山水図」に続いて、「作品解説519人家山水図」(二曲一双)・「作品解説520山水図」(一幅)・「作品解説521山水図」(六曲一双)にも、上記の「右隻」の漢詩(賛)と、その図柄が同じようなものが紹介されている。
 さらに、続く「作品解説523秋景山水図」(六曲一双)になると、何と、その「右隻」に、冒頭の「左隻」の、他の作品では消滅していた漢詩(「古駅頽垣不記春」以下)の「賛」がなされており、冒頭の「右隻」の漢詩(「章水蛮中入洞流」以下)の「賛」が、その「左隻」の「賛」に記されている。しかし、この「523秋景山水図」(六曲一双)は、「紙本墨画」で「銀地淡彩画」ではない。

 これらのことを整理すると、蕪村は、亡くなる一年前の天明二年(一七八二、六十七歳)に、「山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵・銀地墨画淡彩・六曲一双)、「(蛮州)山水図屏風」(個人蔵・銀地墨画淡彩・六曲一双)、そして、「秋景山水図屏風」(紙本墨画・六曲一双・『日本の文人画』)」と、同じ画題の大作ものを三本も完成させているということになる。
 さらに、年次不詳だが、「人家山水図屏風」(二曲一隻・淡彩・入札記録)、「山水図」(一幅・淡彩・入札記録)、「山水図屏風」(六曲一双・淡彩・入札記録)などで、同じ画題のものを制作しているということになる。

 ここで、その落款から制作時期が判明できるものを整理すると、次のとおりとなる。

天明壬寅夏(天明二年夏=六月?)→ 「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)右隻と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)右隻

壬寅秋八月望前二日(天明二年八月十三日?)→「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)左隻

 上記の制作時期の落款からすると、「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)とは、「本絵」と「下絵(草稿画)」との関係にあり、その落款からすると、「本絵」が、「銀地山水図屏風(右隻・左隻)」(MIHO MUSEUM蔵)、「下絵」が「銀地(蛮州)山水図屏風(右隻・左隻)」(個人蔵)と解したい。
そして、「「銀地(蛮州)山水図屏風(左隻)」の制作時期は、天明壬寅夏(天明二年夏=六月?)で、その後、その「賛」などの修正があったものと解したい。
 また、年次不詳の「二曲一双屏風」・「六曲一双屏風」・「掛福」ものは、「天明二年(一七八二)」以前に制作されたもので、それらの作品を通して、上記の「銀地山水図」の需要があったものと解したい。
 同様にして、「壬寅秋」の落款のある「秋景山水図」(『日本の文人画』)は、「壬寅秋八月望前二日」に制作されたものとの関連で、その前後に制作されたものと解して置きたい。

 いずれにしろ、これらの蕪村の作品は、亡くなる一年前の「天明二年(一七八二、六十七歳)」前後の作品で、しかも、「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)とは、「金(ゴールド)」に対する「銀(シルバー)」の世界であって、いかにも、「銀(シルバー)」の、その「月光」・「落日」・「斜日」・「デラシネ(故郷喪失)」の「蕪村」生涯の、その晩年を飾るものとして、その「本絵」・「下絵」にかかわらわず、まぎれもなく、両者とも、蕪村の最高傑作の部類に入るものなのであろう。

 ここで、これらの「賛」の漢詩などを再掲して置きたい。

(右隻) 署名「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」
印章「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)
章水蛮中入洞流  蛮州どこでも水悪く
人家住多竹棚頭  辺鄙な所(とこ)でも人が住む
青山海上無城郭  どこにも城壁なんかなく
只見松牌下象州  松の立て札立つばかり

(左隻) 署名「壬寅秋八月望前二日/東成謝寅製」
     印章「長庚」「春星」(朱白文連印) 
古駅頽垣不記春  古びた駅のくずれた土塀
隔籬鷄犬舊此郷  犬と鶏(とり)には垣根が邪魔だ
東家纔過西家去  東から西ちょっと歩けば
便是閩人訪浙人  浙江・福建お隣(となり)どうし

 上記の漢詩の「蛮州・象州」とは、蕪村の生涯からすると、若き日の放浪の旅を続けた、「武蔵(関東・東京)」「常陸・下野・上野の北関東」そして「奥の細道の『奥州各地』」ということになろう。
 そして、「閩人(福建)・浙人(浙江)」とは、生まれ故郷の「浪速(大阪)」と、その後半生を過ごした「山城(京都)」ということになろう。
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