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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その三) [光琳・乾山・蕪村]

その三 乾山の「御室から鳴滝へ」

乾山遺物.jpg

「鳴滝窯跡出土遺物」(法蔵寺蔵)
隠棲生活に浸っていた乾山は、三十七歳になって洛西鳴滝泉谷の山中で、やきものつくりの道を開いた。鳴滝山は、刀剣の研磨に用いる砥石の産地であったという。光悦の孫・空中斎光甫や楽一入、押小路焼の孫兵衛、仁清などに学んだ乾山の作陶は、嵯峨本や染織意匠、歌意図や物語絵、山水図、また外国陶磁器の文様など時代の好みを大胆に採り入れて、幅広い作品を生み出していた。(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)

(メモ)

一 空中斎光甫=本阿弥光甫(ほんあみこうほ)

「没年:天和2.7.24(1682.8.26)  生年:慶長6(1601)
江戸前期の芸術家。本阿弥光悦の養子光瑳の子。光伝の父。空中斎と号した。家業である刀の磨礪,浄拭,鑑定の三業を行うかたわら、祖父光悦にならって茶の湯、作陶、絵画など多才な芸術活動を行った。作陶では手捏ね内窯の楽焼を行い、空中信楽とも呼ばれる信楽風の作品も多く、楽茶碗には「寒月」「侘人」、信楽写しの茶碗には「不二」「武蔵野」などがあり、また信楽写しの桐文水指などが代表作。尾形光琳・乾山(深省)の生家、雁金屋とは姻戚関係にあり、光悦より伝わった楽焼の陶法伝書を尾形権平(深省)に授けたとの伝えもある(佐原鞠塢『梅屋日記』)。光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』3巻本の内,光悦について記した上巻は光甫の作とされる。法橋となり,寛永18(1641)年には法眼に叙せられた。生年を慶長7(1602)年とする説もある。 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典

二 楽一入(らくいちにゅう)

「没年:元禄9.1.22(1696.2.24) 生年:寛永17(1640)
江戸中期の陶工。楽家4代。幼名を左兵衛,明暦2(1656)年吉左衛門を襲名。元禄4(1691)年養子宗入に家督を譲り一入と改める。茶碗の器形には3代道入(のんこう)の影響はあまりみられず、むしろ長次郎の作を倣っており、高台などに一入らしさがあるが古格がある。釉技は道入の技を受け継ぎ、赤楽は道入の砂釉に近いものを用いながら、黒楽では道入に稀にみられる黒釉のなかに赤い斑文の現れる朱釉を完成させ、赤楽、黒楽ともに古格の造形にあった落ち着きのある釉調に仕上げている。印は道入の自楽印に似るが「自」の部分が「白」となり、やや小振りで高台内や胴裾から高台脇に捺している。玉水焼初代一元は一入の庶子である。(伊藤嘉章) 」 出典 朝日日本歴史人物事典

三 仁清=野々村仁清=ののむらにんせい 

「生没年未詳。江戸初期(17世紀後半)の京焼の名工。丹波(たんば)国(京都府)野々村の出身と伝えられ、本名は清右衛門(せいえもん)。早くから京都粟田口(あわたぐち)で修業し、ついで瀬戸に赴き茶陶を学んだ。帰洛(きらく)後、茶人金森宗和(かなもりそうわ)の推挙で洛西の御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)門前に開窯。門跡から仁和寺の仁と清右衛門の清をとった仁清の号を賜り、以後これを銘印とした。
 仁清の名は慶安(けいあん)2年(1649)の文献に初出する。作品のほとんどが茶器や懐石道具で、当時すでに時流は、従来の「わびさび」から「きれいさび」にかなう華美な茶風に移行し始めていたため、みごとにこの傾向をとらえ、すでに京で試みられていた色絵上絵付(うわえつけ)法を習得し、新様式の頂点にたつ陶工として絶大な声価を得た。その指導者として宗和の存在は大きく、もっぱら宗和好みの「きれいさび」の美意識に基づく茶陶が焼かれた。1656年(明暦2)宗和が没するまでには色絵法を大成し、以後1660年代~70年代が全盛期と推測される。仁清の作陶を代表する色絵陶磁の多くはこの時期の焼造とみられ、梅月・藤(ふじ)・吉野山・若松・芥子(けし)などの茶壺(つぼ)、梅・牡丹(ぼたん)・菊水などの水指(みずさし)、雉子(きじ)や法螺貝(ほらがい)の香炉などが著名で、国宝、重要文化財の指定も多い。茶人や宮方の需要にちなんで形や文様に堂上趣味の意匠の著しいのも仁清作品の特色といえる。
 1694年(元禄7)までには2代清右衛門が家督を継いでいるが、その力量は初代にはるか及ばず、御室焼とも称された仁清窯も一挙に凋落(ちょうらく)したと考えられる。したがって遺品には2代目の作品もあるはずであるが、その弁別は不詳。作品は量産品と一品制作とを区別したものと思われ、現存する「仁清」の捺印(なついん)のある遺品のほとんどは一品制作であり、類型的なものの大半が消失していることが、窯址(ようし)出土の陶片と伝世品との比較から判じられる。[矢部良明]」出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
『河原正彦編『日本陶磁全集 27 仁清』(1976・中央公論社) ▽満岡忠成編『世界陶磁全集 6 江戸(1)』(1975・小学館)』  

四 押小路焼の孫兵衛(まごべえ)

「?-? 江戸時代前期の陶工。京都の人。寛永12年(1635)伝蔵らとともに伊勢津藩主藤堂高次にまねかれ,伊賀(三重県)阿拝郡(あえぐん)丸柱で伊賀焼の茶器などをつくった。」出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

「【尾形乾山】より
…近くにあった御室焼の陶工野々村仁清から本格的な陶法を学び,99年仁清の嫡男清右衛門から仁清の陶法伝書を受け、旧二条家山屋敷を拝領して鳴滝泉谷に乾山窯を興して陶工としての生活をはじめた。開窯当初より兄光琳が絵付けや意匠面で協力し、成形,施釉などは押小路(おしこうじ)焼の陶工孫兵衛が担当した。乾山は仁清窯の陶法に押小路焼の交趾(こうち)釉法などを加え〈乾山一流の法〉を案出した。… 」出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

五 尾形乾山(おがたけんざん)

「没年:寛保3.6.2(1743.7.22) 生年:寛文3(1663)
野々村仁清と並ぶ江戸中期の京焼の代表的名工、画家。江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の3男。次兄には尾形光琳がいる。曾祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉で,祖父宗柏が鷹ケ峯の光悦村に居を構えていたように、光悦との繋がりも強い。初名は権平、のちに深省と改名、諱は惟允、扶陸とも称し、習静堂、尚古斎、陶隠、霊海、逃禅、紫翠、伝陸などと号した。乾山はもと京都鳴滝泉谷に開いた窯名であるがのちに号としても用いた。本阿弥光甫から光悦以来の楽焼の陶技を伝授されたとの伝えもあるが(佐原鞠塢『梅屋日記』)、元禄2(1689)年、洛北御室仁和寺の門前双ケ岡の麓に居を構え習静堂と号し、このころから御室窯にいた野々村仁清のもとで陶技を学んだ。元禄12年8月に2代仁清から正式に陶法を伝授され、二条家から拝領した鳴滝泉谷に居を移し尚古斎と号し、仁和寺からの許可を得て窯を開き、この地が京都の西北、乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記した。 乾山窯には押小路焼の陶工孫兵衛が細工人として参加しており、押小路焼の交趾釉法と仁清伝授の釉法とを合わせながら、白化粧と釉下色絵などに代表される乾山窯独特の釉法が確立されていった。作品は「最初之絵ハ皆々光琳自筆」(『陶磁製方』)とあるように兄光琳が絵付し、乾山が作陶と画賛をする合作が主体で、この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれる。正徳2(1712)年洛中の二条丁字屋町に移り、窯は共同窯を使い、独自の意匠による食器類を作り出し、乾山焼の名は広く知られるようになった。享保年間(1716~36)のなかごろには江戸へ下向し、輪王寺宮公寛法親王の知遇を得て入谷に住み作陶を行い、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれる。元文2(1737)年には下野国(栃木県)佐野に招かれて作陶を行い、この時期の作品は佐野乾山と呼ばれる。関東時代には絵画制作にも力を注ぎ,また,元文2年,江戸で『陶工必用』,佐野で『陶磁製方』というふたつの陶法伝書を著している。<参考文献>小林太市郎『乾山』,五島美術館『乾山の陶芸 図録編』 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

六 陶磁器のかけらは情報の宝庫

www.pref.tottori.lg.jp/195730.htm

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