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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その四) [光琳・乾山・蕪村]

その四 乾山の「絵画一」(フリーア美術館蔵)

乾山絵一.jpg

Flowers on a hillside   → 「丘野辺花図」屏風
Type Screen (four-panel) → 四曲一隻
Maker(s) Artist: Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) → 尾形乾山筆
Historical period(s) Edo period, dated 1741
Medium Color, ink, gold, gold leaf and silver on paper → 紙本金箔・金銀泥・着色
Dimension(s) H x W: 175.7 x 374.2 cm (69 3/16 x 147 5/16 in)

(メモ) 

一 画人としての尾形乾山は、兄の尾形光琳が没した後、その琳派絵画の継承者として、特に、江戸(入谷)にて、絵画作品を遺している。この大作も、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )の、乾山の晩成期の作品の一つなのかも知れない。

二 上記の第一扇(拡大図) → 落款(詳細不明)

乾山絵一の一.jpg

 上記の第一扇に落款が施されているが、詳細は読み取れない。しかし、その出だしは「七十六」か「七十八」の感じである。乾山の七十六歳は、元文三年(一七三八)に当たり、その前年の九月に、野州(栃木県)佐野に赴き、いわゆる、「佐野乾山」と称せられる、多くの陶芸作品(「新・真」とを問わず)を遺している。

三 乾山の、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )については、例えば、『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』で、「最後に一言だけ断っておきたいのは、近年世を騒がせた新佐野乾山なる陶器群は、筆者(佐藤雅彦)の乾山観と相容れないので、ここでは採らないことである」と、どうにも、この江戸(入谷)・佐野時代の十二年間が空白になっている。

四 しかし、これほどおかしいことはない。いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」(昭和三十年代)という、一種の「佐野乾山タブー」という亡霊が未だに跋扈していて、肝心かなめの「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる十二年間が、全く闇に葬り去られているのである。

五 この「『光琳・乾山そして蕪村』周辺覚書」のスタートは、いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」の、その「真贋」ということを見定めることではなく、そのゴール地点は、その「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる、その十二年間を見定めたいという、ただ、その一点にある。
(追記)

上記の落款を拡大すると次のとおり(七十九翁紫翠深省画)。即ち、寛保元年(一七四一)、七十九歳の時のもので、亡くなる一年前に、この大作を制作しているということは驚きである。

乾山落款.jpg
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