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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十) [光琳・乾山・蕪村]

その十 乾山の「乱箱一」(「武蔵野隅田川図乱箱」)

乱箱㈠.jpg

乾山筆「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」) 大和文華館蔵
上図=箱の内側=「蛇籠図」 下図=箱の裏面=「薄図」
桐材 縦 二七・四cm  横 二七・四cm  高 五・八cm


http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/119/1997_119_3.pdf


箱の裏面=「薄図」

乾山絵・薄図.jpg

落款=華洛紫翠深省八十一歳画 逃禅印

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

(メモ)

一 上記のアドレスの大和文華館の「美のたより」(1997夏№119)では、「薄の原に囲まれた水鳥の遊ぶ河」の風景(意匠)で、『伊勢物語』第九段、在原業平の「東下りの隅田川」場面が背景にあるとしている。すなわち、「名にし負はばいざこと問はむ都鳥/わが思ふ人はありやなしやと」の、乾山の望郷への思いが込められているというのである。それが故に、「武蔵野隅田川図乱箱」というネーミングを呈しているのであろう。

二 さらに、続けて、この裏面の「薄の原」と「落款」の関係について、「乾山は、薄の原を描きながら、途中で、『華洛紫翠深省八十一歳画』の落款を署名し、その後で、また、薄の原を描き足して、その落款の上に、緑青の薄の茎と葉、金泥や墨・朱で薄の葉を被せ、丁度、『落款を薄の原に埋め込んだ』というのである。その上で、最後に、「逃禅」(朱文小長方印)を押印したというのであろう。

三 続けて、「ここにおいて、絵と書とが渾然一体となって融合し、乾山特有の画面空間が表われ、そして、この落款は、「京を遠く離れ、武蔵野に一人立つ乾山自身の姿のようである」と記述している。「まことに、宜(むべ)なるかな」という思いがする。

四 これが、乾山の「八十一歳画」の、その最期の絶筆と、そんな雰囲気を漂わせている。それは、その生涯をかけた「陶磁器」などの世界でもなく、また、日本絵画史上一大の「琳派」の立役者の、実兄たる「尾形光琳」その人の「絵画」の世界でもなく、何と意表を突く、「桐の上箱のない乱れ箱」、そして、それはまことに小さい、縦横、三十センチ(高さ六センチ足らず)の、この木製(桐)に託した小宇宙こそ、「華洛紫翠深省」こと、「輝ける紫翠豊かなる京都の町衆の一人・尾形深省こと乾山」の、その異郷(江戸)に居ての最期の姿と解したい。

(追記)

次のアドレスの、「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」は、最もスタンダードのものであるが、只一つ、この「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」)が、陶器ではなく、木製の桐の箱に絵付けがされていることなど、その周辺のことを、是非とも追加して、その「京焼色絵再考―乾山」の、その「乾山の全体像」を鮮明にして欲しい。

www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html
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