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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十二) [光琳・乾山・蕪村]

その十二 乾山の「絵画五」(「八ツ橋図」)

八橋一.jpg

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/127144

尾形乾山筆「八ツ橋図」 一幅 紙本着色 国(文化庁) 重要文化財(美術品)
縦二八・六cm 横三六・六cm 紫翠深省写之 習静堂・深省印 

本作品は、『伊勢物語』という歌物語(全125段)の第九段を典拠とするものである。『伊勢物語』は、ある貴族の一生を和歌と短い文章によって表したもので、遅くとも11世紀初めには成立していたと考えられている。第九段は、都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという内容である。画面には、土地を暗示する橋と場面の重要なモチーフとなる杜若が描かれ、その余白に、第九段の和歌と文章の一部が書きつけられる。
 作者は、我が国陶芸史上に偉大な足跡を残した尾形乾山(1663~1743)である。乾山は、江戸時代を代表する画家の一人尾形光琳の弟で、絵画性と意匠性に富んだ、従来にない陶器を制作したことで知られる。その才能は陶器制作に留まらず、兄光琳の画風を慕いながら、陶器の絵付けを思わせる独特の趣を持つ絵画作品も残した。本作はその乾山の資質がいかんなく発揮された作例で、杜若と橋を描く筆致はのびのびとして律動感があり、線描の単純さは絵でありながら書のような味わいを持つ。書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している。乾山の絵画の中でも定評があり、詩歌を愛した乾山らしさの横溢する極めて貴重な作例である。
 なお、款記には「紫翠深省寫之」とあり、白文「習静堂」印と白文「深省」印を伴う。

(メモ)

一 この図の上段には、『伊勢物語』(第九段・東下り)の「かきつばた」の五文字を句の上に据えた一首が記載されている。

  から衣 (唐衣)
  き (着) つつなれ (慣れ) にし
  つま (妻) しあれば
  はるばる来ぬる
  たび (旅) をしぞ思ふ

二 その下段には、その一首の前の、次の文章が記載されている。

  その沢にかきつばた
  いとおもしろく咲きたる
  それを見てある人のいはく
  かきつばたと
  いふ五文字を
  句の上にすへて
  旅の心をよめと
  いひければ
  よめる

三 上記の解説文にあるとおり、「書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している」と、書画一体の乾山の世界の代表的な作品に数えられている。

四 白文方印の「習静堂」は、三十歳前の、乾山が京都御室の仁和寺前に建てた別荘の名で、それに因んで乾山の若書きとする説もあるが、「書風や落款の『深省』の『深』字が古字で書かれている(享保五年・一七二〇、五十八歳ごろから用いた)ことから、この図は六十歳以後の晩年作と考えられる」】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説113」)。

五 『伊勢物語』(第九段・東下り)は、上記の解説文の、「都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという」というもので、そして、その主人公の在原業平と同じく、都落ちし、江戸下向を享受した、尾形光琳・乾山兄弟にとっては、それぞれの節目を物語るような、忘れ得ざる画題ということになろう。光琳には、その名を不動のものにした、次のような作品群を遺している。

(A図 「燕子花図屏風」・国宝・根津美術館蔵)

八橋二.jpg

(B図 「八橋図屏風」・メトロポリタン美術館蔵)

八ツ橋図三.jpg


(C図 「八橋蒔絵螺鈿硯箱」・国宝・東京国立博物館蔵)

八橋三.jpg

(D図 「伊勢物語八橋図」・東京国立博物館蔵・掛幅)

八橋図四.jpg

(E図 「燕子花図」・大阪市立博物館蔵・掛幅)

八橋五.jpg

六 これらの「八橋図」などの原型は、「伊勢物語図色紙」にあり、その全体については、下記アドレスで見ることが出来る。

file:///C:/Windows/SystemApps/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/Assets/WebNotes/WebNotesContent.htm

その「八橋図」は、「第9段-1 八橋」で、大きさは色紙大「縦30.8×横24.4(図縦23.4×横17.0)」、そして、その全体は、「五十葉」(紙本着色)から成る。

七 これらには、何種類かのものがあり、中でも、「伝宗達」の「出光美術館蔵」や「泉屋博古館所蔵」のものは、冒頭の乾山の「八ツ橋図」のように、書画が一体となっており、それらは、「画=俵屋宗達、書=本阿弥光悦」の、その伝統を踏まえてのものなのであろう。

www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=38368

八 これらのことを踏まえて、冒頭の乾山の、この「八ツ橋図」を隈なく見ていくと、次のようなことが、思い浮かんで来る。

1 乾山の、この「八ツ橋図」は、「縦二八・六cm 横三六・六cm」の、まことに色紙大の、片々たる小品の世界のものであるが、しかし、それは、見事に、家兄たる光琳の広大無辺な多種多様な世界(A図~E図)と対峙して、決して一歩も退けを取るものではない。

2 そして、その根底には、家兄たる光琳が樹立した「琳派」の世界の、その祖に当たる、
「宗達=画、光悦=書」の根元一体となった「書画」の世界の、光琳が、ともすると、「画=宗達」に傾け過ぎたとするならば、それを補完するように、「書=光悦」の世界を、見事に再現したということに他ならない。

3 すなわち、この「八ツ橋図」は、すべからく、乾山その人の「画」であり、その「書」
であるが、ここには、すべからく、「宗達=画、光悦=書」の伝統を引く、「光琳=画、乾山=書」の、次のステップの、すなわち、最晩年の、「乾山=画、乾山=書」の世界であることに、思い知るのである。
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