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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十六) [光琳・乾山・蕪村]

その十六 光琳の「白地秋草模様小袖」

光琳・小袖.jpg

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199303

「白地秋草模様小袖」 尾形光琳 東京都 江戸 1領 東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9 重文指定年月日:19740608 国宝指定年月日: 登録年月日: 独立行政法人国立文化財機構 重要文化財(美術品)

白綾地、袷仕立の小袖に、桔梗・菊・薄・萩などの秋草模様が墨・藍・代赭【たいしや】などの色で描かれている。これは光琳が江戸深川の豪商冬木家に逗留した折、その妻女のために麗筆をふるったものと伝えている。白地に軽妙な筆遣いで描かれた淡雅な秋草文様は光琳の個性ある筆致を示している。元禄初頭に流行をみた描絵小袖の数少ない遺品の一つとしても価値が高い。

(メモ)

一 「琳派展開関係略年表」(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収)の、宝永元年(一七〇四)の項に、次のような記載がある。

【光琳(四十七歳)「中村内蔵助像」(大和文華館)を描く。中村元伸に道崇の文字考を頼む(文書)。「大公望図」「禊図」このころ描くか。一説には秋ごろ江戸に下向、材木商冬木家に寄寓か。「冬木小袖」(本館蔵)あり。】

 この「材木商冬木家に寄寓」し、その妻女のために麗筆をふるった「冬木小袖」が、冒頭の「白地秋草模様小袖」である。この種の、光琳が絵を描いた小袖は、当時の浮世草子『好色文伝授』(一六九九年刊)の中にも取り上げられているほど、評判の高いものであった(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)。

 また、光琳の肖像画として名高い「中村内蔵助像」(大和文華館)は、次のアドレス(文化遺産オンライン)で紹介されている。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190706

そして、「大公望図」(京都国立博物館蔵・重要文化財)は、光琳の中国明代の版本『神仏奇踪』の仙人を応用したものとして、これまた名高いもので、これまた、次のアドレス(文化遺産オンライン)で紹介されている。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/150621

さらに、「禊図」(畠山記念館蔵)については、『伊勢物語』第六十五段を絵画化したものとして、これまた、光琳の傑作画として夙に知られているものである。

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/f5314ad2173ee035efc87bd919572928

二 光琳が、江戸深川宿弁天木場の材木商の冬木家を知り合ったのは、光琳、そして、乾山の支援者であった、五摂家のひとつの名門二条家(当主綱平)に因るものとされている(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。そして、光琳の江戸在住時代は、宝永元年(一七〇四・四十七歳)から、その間に一時帰京はしているが、宝永七年(一七一〇・五十三歳)の頃までとされている(『前掲年表』)。

三 乾山の江戸下向は、享保十六年(一七三一・六十九斎)の時で、『前掲年表』では、「京都から江戸入谷へ移る。輪王寺の庇護を窯を開く」とある。この「輪王寺の庇護」というのは、「輪王寺宮」(宮門跡の一つの上野東叡山寛永寺貫主が兼務)となった「公寛法親王」(二條綱平の甥)の知遇を得て、乾山の江戸下向も、この公寛法親王に随行してのものとされている。そして、その庇護を受けて、上野寛永寺に近い、当時の入谷村で開窯をしたということなのであろう。

四 乾山が、輪王寺宮となった公寛法親王の、絵や陶芸のお伽衆(側近の役)として、江戸下向したというのは、紛れもないことであるが、実際に江戸在住時代の乾山を支えたのは、光琳が嘗てお世話にになった、深川の材木商の冬木家で、また、入谷窯を開いたのも冬木家の支援によるものであろう(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。

五 この冬木家(四代・郡高、光琳が世話になったのは三代・政卿)を介して、乾山は、六軒堀の材木商「筑島屋」(坂本米舟=江戸本所の材木商で、屋号は筑島屋。絵をよくして雪花斎と号し,英一蝶とまじわる。尾形乾山の晩年の世話をした)を知り、その坂本米舟の御内室の絵の指導や、また、その米舟の湯島の長屋に住んでいた俳人・長谷川馬光との交遊関係も生じたようである(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。

六 また、江戸の乾山を佐野へと招聘した、大川顕道(鋳物奉行)、松村広休(佐野奉行代官家)、正田道明(天明鋳物師の宗家)そして、須藤杜川(「越名河岸」の廻船問屋)らも、全て、冬木家と取引関係などの何らかの関係があったのであろう。その冬木家の斡旋や依頼などにより、元文二年(一七三七・七十五歳)から翌三年(一七三八・七十六歳)にかけて、乾山は、下野(栃木県)の佐野に赴き(壬生や黒羽などの滞在も含む)、その須藤杜川の「仙庵」(茶室名)に越名(こえな)窯、さらに、大川邸・松村邸にも築窯して、作陶の指導などに当たったようである(『佐野乾山の実像(住友慎一著)』など)。

七 ここで、いわゆる「佐野乾山」ものなどの蒐集家(「住友ミュウジアム」創設者)で、光琳・乾山研究家である住友慎一関係著書を掲載して置きたい。

一 光琳・乾山関係文書集成(上・下)→ 上巻(解説・資料編) 下巻(資料編)
二 尾形乾山手控集成(下野佐野滞留記期記録)→ 「尾形乾山手控」(手控原文と翻刻文)
三 二條家御庭焼と光琳 乾山  → 「二城家御庭焼」関連の資料と解説など(限定千部)
四 佐野乾山の実像 → 「佐野乾山の作品と箱書」など
五 乾山 都わすれの記 → 「京下向道中記・江戸在住記・佐野道中記」などの翻刻文
六 六十九歳の旅立ち →「江戸への旅路・江戸での不本意な日々」など「五」の解説文
七 光琳・乾山の真髄をよむ →「『杜若素と光琳・乾山』など三十章にわたる鑑賞文等」

八 乾山が佐野から江戸に帰ってきた「元文三年(一七三八・七十六歳)」の「前掲年表」に「何帛 乾山より光琳模写宗達の扇面図を贈られる」とあり、当時の、二代目光琳こと乾山の後継者となる、光琳三代目・「立林何帛(かげい)」(乾山の「京兆逸民」に倣い「鶴岡逸民」の号を有している)の名が記載されている。

何帛一.jpg

立林何帛筆「松竹梅図屏風」二曲一隻 紙本金地着色 東京国立博物館蔵(A-11154)

九 乾山は、法橋画家たる光琳のような、冒頭の描絵小袖などは手に負えない代物と、この種のものは見受けないが、蕪村もまた、「小糸かたより申し候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候」と、決して、手を染めようとはしなかった。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%B0%A1

 しかし、蕪村の愛弟子の呉春は、「白絖地雪中藪柑子図描絵小袖」などを今に遺しており、絵画のゼネラリストの「光琳・応挙・呉春」などは、どのような注文でもこなすだけの技量と経験を有しているのに対し、より、自己の心象風景を大事にする、すなわち、文人気質のスペシャリスト的狭い世界での「乾山・蕪村」の両者は、共通土俵上を歩んでいたとゆう思いを深くする。

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html
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