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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十七) [光琳・乾山・蕪村]

その十七 乾山の「花籠桔梗図扇面」

(表面)

桔梗図扇面表.jpg

Balloon Flowers in a Basket → 花籠桔梗図扇面 (フーリア美術館蔵)
Type Fan →  扇面
Maker(s) Artist: Ogata Kenzan (1663-1743) → 尾形乾山
Historical period(s) Edo period, early 18th century 江戸・十八世紀
Medium Color and gold on paper  紙本金地着色
Dimension(s) H x W: 18.4 x 15 cm (7 1/4 x 5 7/8 in) → 一八・四×十五・〇㎝

(裏面)

桔梗図扇面裏.jpg


(参考)
http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-26


乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

『乾山遺墨』(酒井抱一刊)によれば、十二枚屏風絵の一つと考えられ、現在その屏風絵は分散して残るものは少ない。この図はとくに優れ、乾山の画才が非凡で、卓越したことを証明する作品である。図上の歌に「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』)

「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」は、「三条西実隆」の歌である。

(メモ)

一 乾山には、「三条西実隆」の歌賛が多い。冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)は、「花籠に盛られた桔梗図」なのだが、その裏面に、何と、先に取り上げた「花籠図」(福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵))の歌賛と同じものの、「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」が記されている。
 この歌は、乾山の愛唱歌と解して差し支えなかろう。この乾山の「花籠図」について、この「三条西実隆」の歌から、次のように鑑賞文を綴っているものもある。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 乾山の、その八十一年の生涯において、女性の影というのは見られない。乾山は、九歳の時に下の妹を亡くし、十四歳の時に、母と二人の妹を亡くしている。父を亡くしたのは、貞享四年(一六八七)、二十五歳の時、その時に、名を「権平」から「深省」に改めている。
この「深省」は、文字通り、「深く省みる。反省する」という意で、内向的・内省的な乾山の一面を端的に物語っている。そして、元禄二年(一六八九)、二十七歳にして、御室仁和寺門前、「双ヶ岡(ならびがおか)」の麓に「習静堂」を建てて、隠棲生活に入るのである。
この「習静堂」の「習静」とは、「習禅、すなわち悟るために禅を学ぶ」ことの意で、黄檗宗の禅僧、独照性円の弟子となり、その独照性円より「霊海」の号を授かっている。すなわち、乾山は、出家僧ではないが、在家で禅の修行をしている「修行者」・「居士」というのが、当時の乾山の実像ということになろう。
それらのことは、乾山の他の号の「陶隠・逃禅・傅(扶)陸・尚古斎」等々が、「隠逸を悦び、禅機との結びつきを考え、往古を尊ぶ諸号」の、それらの由来と関係してくるものなのであろう。
 さらに、乾山は「双岡散人(ならびがおかさんじん)」の署名や印章を用いる場合があるが、これもまた、乾山の「習静堂」が、隠士の先達・吉田兼好の、その「双岡法師」に因んでのものなのであろう。
そもそも、乾山が、御室仁和寺門前、「双ヶ岡」の麓に「習静堂」を建てたのは、その「双岡法師」こと、『徒然草』の吉田兼好を慕ってのものと解することも出来よう。もう一つ、乾山が好んで用いる号の「紫翠」は、杜牧の「千峰ハ紫翠ニ横タウ」などの、御室あたりの風景に因んでのものなのかも知れない。
(これらのことは、(『尾形乾山開窯三〇〇年・京焼の系譜「乾山と京のやきもの」展』所収「文人 乾山その人(武内範男稿)」を参考としている。)
さて、この隠士の禅の修行者のような乾山(陶隠・逃禅・傅(扶)陸・尚古斎等々)の生涯に、三条西実隆の「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」の、この『源氏物語』の「野分」の段の背景にある、「あだ(婀娜=艶冶)ならぬ色香」などの日々があったとするならば、それはそれで、乾山の生涯に、一つの彩りを添えるものであろう。

二 上記は、主として、「花籠図」(参考)に関してのものであるが、冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)と「和歌賛(「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」)」(裏面)に接すると、下記の蕪村の「桔梗」の句に関連させて、別な鑑賞視点というのが浮かび上がってくる。

  修行者(すぎょうしゃ)の径(こみち)にめずる桔梗かな
             (蕪村、安永六年=一七七七、六十二歳)

 句意は、「行脚の僧が、小径の傍らの桔梗を見つけ、しばし見とれている」のようなことであろうが、この「修業者」を、黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山、そして、浄土宗の行脚僧・(釈)蕪村と置き換えてみると、この句のイメージが鮮明になって来る。
 その上で、この句の背景は、『源氏物語』(「野分」の段)ではなく、『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)が、その背景となって来る。

【行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」
といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり  】
(『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)

三 冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)の落款は次のとおりである。

「京兆逸民紫翠深省」 → 「京兆」(首府を意味する)・「逸民」(世俗を離れ隠遁生活に入った者)・「紫翠」(杜牧の「千峰ハ紫翠ニ横タウ」=御室の原風景)・「深省」(杜甫の「人ヲシテ深省ヲ発セ令ム」=内的性向に赴く)などの意が込められているか。「京兆逸民」から、「江戸下向」以降の、乾山、六十九歳以降の作ということになる。

桔梗図扇面落款.jpg

「花籠桔梗図扇面」(表面)の落款(拡大図)

四 三条西実隆については、以下のとおり。

三条西実隆 さんじょうにしさねたか (1455―1537)
室町後期の公卿(くぎょう)、学者。三条西家は正親町(おおぎまち)三条家の庶流。父は公保(きんやす)、母は甘露寺親長(かんろじちかなが)の姉。1460年(寛正1)公保の死没により6歳で三条西家の当主となる。応仁(おうにん)の乱が起こった1467年(応仁1)は13歳のときで、実隆と母は鞍馬寺(くらまでら)の坊に難を避け、母はそこで病没する。後花園(ごはなぞの)、後土御門(ごつちみかど)、後柏原(ごかしわばら)、後奈良(ごなら)の4代にわたる天皇に仕え、とくに後柏原天皇の信任厚く、1506年(永正3)に内大臣に任ぜられる。足利義稙(あしかがよしたね)が将軍職についた1508年から、実隆は義稙政権を支持し、朝廷と幕府のパイプ役を務める。このため1509年から1512年まで、毎年の正月に義稙臣下の大内義興(よしおき)や細川高国(たかくに)の来賀を受けている。1516年廬山寺(ろざんじ)において落飾し、法名堯空(ぎょうくう)、逍遙院(しょうよういん)と号する。1520年に至って、高国が家督をめぐる澄元(すみもと)との抗争に敗れ近江(おうみ)へ敗走すると、それまで親しくしていた高国との関係が薄れ、さらに高国と将軍義稙との不和に遭遇すると、武家社会に対する失望から実隆の現実政治への関心は急速に冷却していき、以前からの学問・文芸の生活に立ち戻っていった。
 実隆は一条兼良(いちじょうかねら)やその子冬良(ふゆら)とともに学才・歌才の誉れ高く、飯尾宗祇(いいおそうぎ)から古今伝授を受けたほか、『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』の権威であった。また当代一流の能書家としても知られ、地方大名などの求めに応じ揮毫(きごう)した。彼の書は富商武野紹鴎(たけのじょうおう)からの援助とともに、貧しい三条西家の経済を支える収入源でもあった。著書に『詠歌大概抄(たいがいしょう)』『源氏物語細流抄』、有職(ゆうそく)に関する『装束抄』、日記に『実隆公記』、歌集に『雪玉集(せつぎょくしゅう)』『聴雪集(ちょうせつしゅう)』、歌日記に『再昌草(さいしょうそう)』などがある。[新井孝重](日本大百科全書(ニッポニカ))



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