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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十) [光琳・乾山・蕪村]

その二十 乾山の「乙御前図」

乾山・乙御前図.jpg

Uzume (Okame) and flowers → 乙御前図  (フリーア美術館蔵)
Type Hanging scroll (mounted on panel) → 掛幅
Maker(s) Artist: Signature of Ogata Kenzan (1663-1743)
Historical period(s) Edo period, 18th-19th century
Medium Color, ink, and gold on paper  → 金地紙本着色
Dimension(s) H x W: 29.3 x 53.6 cm (11 9/16 x 21 1/8 in)

(メモ)

一 乾山の、この「乙御前(おとごぜん)図」は、光琳の次の「乙御前図」を念頭に置いたものであろう。

光琳・乙御前図.jpg

尾形光琳筆「乙御前図」(国華百九十七号=明治三十九年十月)

https://www.kosho-zou-zou.net/bookshelf/art/1939-2013-11-21-05-57-44

二 乾山の落款は、「京兆逸士七十七翁 紫翠深省」で、元文四年(一七三九)作ということになる。この前年(元文三年)には、京都の若冲(二十三歳)は、「父没に伴い四代目源左衛門となり家督相続」の頃、蕪村は江戸の夜半亭(日本橋本石町)にあって絵俳書『卯月庭訓(露月ら編)』に蕪村の最初の作品「鎌倉誂物」と題する「自画賛」が収載された頃である。

三 光琳の落款は、「法橋光琳」で、光琳が法橋に叙せられたのは、元禄十四年(一七〇一・四十四歳)で、それ以降の作品ということになる。この落款の署名の前に「以利休居士」云々とあり、この「乙御前」(お多福・ウズメ・オカメ)は、利休居士愛用のものと何か関係があるのかも知れない。

四 因みに、「茶の湯釜の形状のひとつで、丈が低く、口造りは姥口で、全体にふっくらとした形の釜」が「乙御前釜」で、「朝夕になれしなじみの姥口を、人に吸せんことおしぞ思ふ」などの狂歌もあるようである。

http://verdure.tyanoyu.net/kama_otogoze.html


乙御前釜.jpg

五 光琳・乾山とは尾形家(京都有数の呉服商「雁金屋」)とは姻戚関係にある本阿弥光悦作の「赤楽茶碗」の一つに、銘が「乙御前」のものがある。

光悦・乙御前.jpg

本阿弥光悦 赤樂茶碗 「乙御前」 重要文化財 江戸時代(十七世紀) 個人蔵
八・八×十一・五×三・一㎝ (高さ×口径×高台径)

https://otogoze.exblog.jp/10981496/

上記のアドレスでは、「『乙御前』とは『お多福・おかめ』のことで、茶碗を上から見た姿がいかにも「お多福・おかめ」の下膨れの福々しい顔の輪郭とよく似ているところから、表千家不審庵初代の江岑宗左(こうしん そうさ)によって命銘された」と紹介されている。
 この「赤楽茶碗(銘=乙御前)」については、『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』では、次のとおり解説されている。

【 まるみ豊かな、しかもあたかもお多福の面相のように歪んだ口部の作振にちなんで「乙御前」と名付けられたらしく、箱の蓋表に千宗旦らしい筆跡で「ヲトコセ」と書されている。口作りは一方を内に抱えこませ、一方は端反りにつくり、胴から腰にかけてふっくらとまるく、高台はあたかもまるく平らな土片を押し付けたかのように造られている。赤土の上にかかった釉はよく溶けている。口部と高台際に山割れが生じている。大阪の平瀬家、名古屋の森川家に伝来した。】
(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説266」)

六 上記の解説中にある「名古屋の森川家に伝来した」の「名古屋の森川家」が、次のアドレスに出て来る「森川勘一郎(如春庵)」家のことで、いわゆる「新佐野乾山真贋論争」にも、その名が見られる方なのである。下記のアドレスもので、関係するところを「参考」として抜粋して置きたい。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

「参考」
・昭和34年(1959年)、古美術商の斎藤素輝氏と「米政」こと米田政勝氏が、栃木県文化財保護委員の飯塚伊平氏から紹介された太田清平氏のところで佐野乾山といわれる陶器を見せられ、本物と確信しました。
・「米政」は東京国立博物館陶磁室長の林屋晴三氏に佐野乾山の話をし、林屋氏は京都の森川勇氏(森川勘一郎(如春庵)の三男)を「米政」に案内して佐野乾山といわれる陶器を見せました。
・斎藤氏は「米政」から森川氏を紹介され、森川氏が用意した大量の現金を持って佐野に赴き、太田氏所有の約40点の作品を買いました。その後森川氏は精力的に乾山の作品を探し求め、その数は約200 点にのぼりました。また、同時に乾山の自筆による手控帳も多数(現在のところ15冊)発見されました。
・また森川氏が佐野乾山の蒐集を始める前の昭和33年(1958年)暮れ、仏文学者で美術評論家、骨董品収集家でもある青柳瑞穂氏も斎藤氏を通じて数点の作品を買い集めました。(ただし、後述の「桔梗図長角皿」、「朝顔図小角皿」、「秋海棠図小角皿」は青柳氏が京都の骨董屋で発見したものであり、斎藤氏のルートから入手したものではありません)
・昭和36年(1961年)12月、来日中のバーナード・リーチ氏は、助手の水尾比呂志氏から多数の佐野乾山が新発見されたことを聞き、師匠である六代乾山の娘尾形奈美氏と共に京都嵐山の森川氏のもとを訪れました。バーナード・リーチ氏は森川氏の蒐集した約70点の陶器を見て、素晴らしいと絶賛しました。陶器は全て楽焼で、その内6個の陶器には明るいトマト色の赤の釉が使ってあり、明らかに3度目の火に入れたもの(錦窯による上絵付けの手法による)だったそうです。
(出典:http://homepage2.nifty.com/hokusai/sano/kenzan.htm)

七 『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』では、光琳三世・立林何帛の、次の「乙御前図」も紹介されている。

何帛・乙御前.jpg

立林何帛筆「乙御前図」 一幅 紙本着色 個人蔵 一一五・〇×五〇・二㎝
「宝暦辛末臘月日 逸幽於洞房写之」 「方祝」朱方円 「太青之印」白文方
【 画中に横向きの扇面を描き、その中に乙御前(お多福)を描く。画面いっぱいのこの構図法は琳派の特色を示す。さらに衣服の千鳥・流水文を散らし、色少ない画面にもかかわらず、豪華さが感じられる。款記の「宝暦辛末臘月日 逸幽於洞房写之」は宝暦元年(一七五一)の十二月で、制作年が知られるところにいっそう価値が高い。 】
(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説198」)

八 光琳の「乙御前」、そして、乾山の「乙御前」、さらに、何帛の「乙御前」の、いわゆる、「初代光琳→二代・光琳(乾山)→三代光琳(何帛)」の、その見事なる継承を証しする、その「乙御前」のオンパレードの、いわゆる、「点」が、一本の「線」に結びついたような、そんな思いが去来するのである。
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