SSブログ

「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十六) [光琳・乾山・蕪村]

その二十六 乾山の「四季花鳥図屏風」

乾山花鳥図屏風㈠.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双  右隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵

乾山花鳥図屏風二.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 左隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵
(各隻とも、一四三・九×三二六・二㎝)

https://core.ac.uk/download/pdf/146899461.pdf

(メモ)

一 上記のアドレスは、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)のものである。当時(1957=昭和32)は、ノーベル文学賞作家となる川端康成氏蔵のものであった。現在は、五島美術館(大東急記念文庫)蔵となっているが、昭和三十四年(一九五九)、五島美術館の前身の「大東急記念文庫」の創設者、五島慶太氏が亡くなる三カ月前に、川端康成氏より購入したとされている、尾形乾山作(絵画・陶器・書など)の中でも、その最右翼を飾る乾山の遺作にして大作の一作である。

二 上記に因ると、その「左隻」の第六扇(面)に「泉州逸民紫翠深省八十一写」の落款が施されており、そして、両隻共に「傳陸」の朱文円印と「霊海」の朱文方印が押印されているとのことである。

三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。

四 さて両隻に押印されている「傳陸」については、上記(山根有三稿)の末尾に、「因みに印の『傳陸』は自筆書状に用いた署名の『扶陸』に通ずるものである」との記載があり、この「扶陸」とは、乾山の号の一つで、例えば、「扶陸泉州(日本国近畿(京都)」の「日本国」というような意味合いのものであろう。その上で、その「扶陸」に対する「傳陸」は、「中国大陸」、主として、その中国(明)の渡来僧・隠元の「禅宗」(黄檗宗)に関わり合いのあるものと解して置きたい。そして、もう一つの印章の「霊海」は、乾山の独照禅師(独照性円)から授かった禅号なのである。

五 乾山年譜(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』所収)の「元禄三(一六九〇)、二十八歳」の項に、「九月直指庵の独照性円と月潭道澄を習静堂に招き、詩偈を与えられる。独照より霊海の号を贈らる」とあり、爾来、乾山は、この「霊海」の禅号を終生用いて、亡くなるその没年の最期の、この大作にも、その禅号「霊海」の印章を用いているということになる。

六 ここで、あらためて、冒頭の「右隻」の第一扇(面)から第四扇(面)に描かれた「春柳」は、「京兆紫翠深省七十七歳写」の落款のある、次のものの延長線上にあるものなのであろう。

春柳図.jpg

乾山筆「春柳図」(大和文華館蔵) 紙本墨画 二四・三×四五・三㎝

http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/112/1995_112_3.pdf

ここに書かれている歌賛は、「露けさもありぬ 柳の朝ねがみ 人にもがなや 春のおもかげ」というもので、上記のアドレスの解説文によると、乾山の愛唱歌集の三条西実隆の『雪玉集』の「朝柳」の一首というのである。
 そして、これらのことから、冒頭の右隻の柳の「優美な枝葉とのびあがった太い幹」は、『源氏物語』(「宇治十帖」第七帖「浮舟」)の、「なよなよとしてしなだれかかる『浮舟の君』と、両手をひろげて抱きかかえようとする『匂宮』を思わせる」との鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

七 それに続けて、この左隻の「蛇籠と秋の草花」は、下記のアドレスなどで紹介した乾山の「花籠図」を念頭に置いたものとする鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

 そして、それは、その「花籠図」の歌賛の、「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(三条西実隆)から、『源氏物語』(第十帖「賢木(さかき)第二段(野の宮訪問と暁の別れ)」が、その背景にあるとする鑑賞(小林太市郎)なのである。そして、その鑑賞視点は、『源氏物語』(第十帖第二段第二節)の次のような光景のものなのであろう。
【 遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、 浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、 松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬ ほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと 艶(えん)なり。】

乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

八 この乾山の「花籠図」について、上記のアドレスで、次のような鑑賞(山根有三)を紹介した。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 上記の文中の(『源氏物語』の「野分」の段より取材した)の「野分」は、『源氏物語』第五十四帖の「野分」と混同されやすいので、これは、「賢木」(第十帖)の「野宮」(第二段)とすべきなのであろう。

九 さて、冒頭の「四季花鳥図屏風」左隻の、第四・五扇(面)に描かれている「楓」は、下記のアドレスで紹介した、「楓図」が、これまた念頭にあるものと解したい。


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-08

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」

【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

十 しかし、冒頭に掲げたアドレスの「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)では、この「楓図」は、『源氏物語』(第五十四帖「総角(あげまき)」)の「大君と中君の姉妹を詠んだ薫中納言の次の歌が背景にある」(「小林太市郎」解)を紹介しているのである。

 秋のけしきもしらづがほに あおき枝の
 かたえはいとこく紅葉したるを
  おなじえをわきてそめける山ひめに
      いづれかふかき色ととはゞや

十一 これらの、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)で紹介されている「小林太市郎」の『源氏物語』が背景にあるという鑑賞は、すべからく、「乾山の象徴論―花籠図」「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などに収載されている。

十二 ここで、冒頭の「四季花鳥図屏風」(乾山筆)について、「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)の要点を原文のままに引用して置きたい。

㈠ 宇治の姫君たちの哀愁、夏秋の木のほとりの木草の姿を描いたもので、右方にやさしく臥しなびく柳のなよなよとしてしなだれかかる弱さは、さながら浮舟の君をおもわせる。その下に両手をひろげてそれを抱きかかえるようとする太い幹は、すなわち匂宮でなくてなんであろうか。(p180-190)



nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。