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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十六ー二) [光琳・乾山・蕪村]

その二十六の二 乾山の「四季花鳥図屏風」(その二)(その一の続き=「長文」の関係で表示出来ないので、分割アップ) → 画像かフォントの違いなどによって、「全体が反映されない」ようである。以下のアドレスで、まだ、全体は反映していないが、画像(艶隠者)とその後半は見られる。



https://nangouan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-05

(下記で、後半部分が「全部反映」しているかも知れない。原因は(二)と[二]の不揃いによるのかも?)



㈡ 「椎本」に、
 河ぞひの柳のおきふしなびく水のかげなど、おろかならずををかしきをといい、あるひは「浮舟」に、
   いとをかしく……なびきたるを、いと限りなうらうたしとみ給り……、心ぼそくおぼえて、つと附きて抱かれたるを4、いとらうたしとおぼす
ということばがそこに自ら想いおこされる。(p190) 

㈢ 乾山はつねに柳を女とみたので、(前に述べたように)好んで濃艶な柳の絵を描き、そ
れにたとえば左のような歌を賛している。
   露けさもありぬ柳の朝ねがみ
       人にもがなや春の面かげ
また左方の楓の紅葉の梢は気高くろうろうしいのに対して、腰は萩すすきをまつわせて愛嬌づいた姿は、おのづから大君と中君との対照をあらわし、「総角」にこの姉妹を詠んだ薫中納言の歌を想わせる。
  秋のけしきもしらづがほに あおき枝の
  かたえはいとこく紅葉したるを
  おなじえをわきてそめける山ひめに
      いづれかふかき色ととはゞや
 すなわちこの絵の楓の紅葉はその梢と腰とに、気高く勝気な姉君と、花やかになまめかしい妹君との二人の姿をほうふつとして示している。(p190-191) 

㈣ それはいずれにしても、『源氏』にあやしくこまやかに展開されたような王朝の情痴の世界を、ただの男女の姿で描くと平凡になり弱くなる。乾山はそれを木草の花にうつしてあらわすことにより、人の男女の情痴を山河の草木に、ひいては全自然に瀰漫(びまん)させて夢幻化し、一種はなやかに幽玄な想観を美しく展開している。すなわち優婉を壮麗にし、柔弱と剛健とをあわせ、婦女の私語のうちに山水の説法を聴こうとする彼の生涯の課題を、その死の直前にいたって、芸術の創作のうちについに燦然と実現したのである。(p192)

㈤ さて柳の根もとにひとり淋しく立ってつれをもとめる白鷺、それは浮舟の心霊のすがたにちがいない。とすれば左の空からそれを誘いにくる三羽の白鷺は、薫のそれまた父宮や大君のそれであろうか。まえの二羽には父宮と大君と心の霊の姿があり、あとの一羽は薫の心であるとしてもよい。とすれば、おもだかの花の中に立って己れも救いを求めるような一羽は、あるいは乾山じしんのやがて解脱する心霊かもしれぬ。六月に花咲くおもだかの中に立ってひとり空を眺めるこの鷺は、あたかも六月三日にこの世を去った乾山のすがたとして実にふさわしい。とすれば左隻の右端(注・左端?)、美しく咲きみだれた萩や菊の中にたのしく休らう四・五匹の鷺は、すでに清浄の楽土に安住した宇治君や大君であり、また乾山の父母や愛人たちであるかも知れぬ。(p193)

㈥ 文章に巧みな者が己れの感慨を文字に書くように、画家はそれを絵に描く。されば絶筆とも遺言ともいうべきこの絵において、乾山が宇治十帖を描くとともに、それに託して、そこに彼じしんの姿とまた忘れえぬ人々のそれを描きあらわしたことは決してふしぎではない。かえってもう死ぬまぎわになって、ただ単に、なんの感動も追想もない花鳥画をいとも冷静に描いていたということのほうがよほどおかしい。よく見ると、この絵はたしかにこの世にたいする彼のわかれの絵であることがわかる。かれの解脱をこまやかに象徴することがわかる。(p193-194)

十三 これらの「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)の鑑賞視点というのは、その「解説(「小林太市郎先生における光琳・乾山と私」・山根有三稿)」のとおり、「小林教授は、つねに作品の内面を読む人であり、もっぱら芸術の本質を説く芸術学者」的な面が濃厚で、「『欲望の造形』『魂魄』の理論による絵の読みこみが目立ち」過ぎるという「不如意」な面を内包しているのかも知れない。それらを踏まえながら、「その絶筆とも遺言ともいうべき」、この作品(「四季花鳥図屏風」)の鑑賞視点などを記して置きたい。

㈠ 「右隻」の「第一扇(面)~第四扇(面)」に描かれた「(異様に)臥しなびく柳」の風情は、『源氏物語(宇治十帖)』の「浮舟」を抱きかかえる「匂宮」などの風情ではなく、没落して行く、光琳・乾山の生家の「雁金屋」を象徴するものとの見方も出来よう。そして、その柳のたもとの二羽の白鷺は、光琳・乾山の父(宗権)と母(乾山が十四歳の時に死別)ということになる。

㈡ とすると、この「右隻」の「第五扇(面)と第六扇(面)」の三匹の空飛ぶ白鷺は、「雁金屋」の「長男(藤三郎)・次男(市之亟=光琳)・三男(権平=乾山)」ということになる。
この長男(藤三郎)は、放蕩者で勘当されていたが、一度は家業を引き継ぎ、最期は江戸で亡くなっている。次男(市之亟=光琳)もまた、派手好きで、さながら西鶴の『好色一代男』の世之助の如き一面があり、この長男と次男とで、「雁金屋」の身代を潰したといっても良いのかも知れない。光琳(次男・市之亟)もまた、一時、江戸に出たが、京に再帰して、画家としては大成したが、「光琳と乾山」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などの光琳像というのは、「日本にまったく珍しい超東洋的な、欲望と執念と行動欲とのおそろしく強く激しい性格であった」と、凡そ天才肌の非常識人の典型的な指摘もなされている。

㈢ そして、乾山については、「習静堂の艶(やさ)縁者」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』所収)との指摘もなされている。


艶隠者.jpg

『扶桑近代艶(やさ)隠者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

㈣ しかし、これは、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での、一つの問題提示的な見方であって、冒頭の「四季花鳥図屏風」は、その「霊海」(乾山の禅号)などからして、「艶(やさ)隠者」という世界のものではなく、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の世界のものということについては、下記のアドレスなどで触れて来た。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

㈤ さらに、乾山の最期についての、今に、「乾山一世・尾形乾山」、そして、「光琳二世・尾形乾山」の名をとどめているのに比して、全くの、下記のアドレスで紹介した、「乾山の縁故者は皆無であった」ということは、壮絶な、「黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山」の最期であったことは、特記をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)
 乾山の最期については、いずれの年譜関係も、「寛保三年(一七四三)六月二日、乾山没(享年八十一)」程度で、詳しいことは分からない。これらの年譜の基になっているのは、次の寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」(寛保三年六月二日の項)に因っている。
【 乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて 取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く 深省まかり在候 地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共 軽きものにつき難儀いたし候由 就而者何卒取仕廻まかりなり候程の 御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由 周防守より左衛門へ申聞候に付 坊官中迄申入候処 何れも相談これあり 御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間 仕廻ひ入用金一両下され然るべく候無縁の者の儀に候間 幸ひ周防守世話これあり候につき 周防守より次郎兵衛へ右之段申聞く 尤も吃度御上より下され候とこれ無く、役人中了簡をもつて下され候間 相応に取仕廻ひ遣はし候様に申聞様 周防守へ坊官中申聞られ 金子相渡し 深省事当地に寺もこれ無く候につき 坂本善養寺へ相頼み葬り候由 無縁の者の儀不便の事に候間 右の趣き善養寺へ申談じ 過去帳に記置 同忘年忌回向致し遣はし候様申聞 金一両相渡し是にて右回向これ有る様に取計ひ遺し候様申達し、然るべく旨何れも申談じ 当善養寺は左衛門懇意につきも同人方より申遣し然べく旨申入置候  】
(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』・『尾形乾山第三巻研究研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)
(注など)
1 進藤周防守は、輪王寺宮の側近で、乾山とは知己の間柄のように解せられる。しかし、
乾山がお相手役を仰せつかっていた、輪王寺宮・公寛親王は、元文三年(一七三八)に四十三歳亡くなっており、乾山が没した寛保三年(一七四三)の頃には、輪王寺との関係は疎遠になっていたのであろう。
2 光琳・乾山の江戸での支援者であった深川の材木商・冬木家の当主・冬木都高も、公寛親王と同じ年(元文三年)に亡くなっており、冬木家との関係も、これまた疎遠になっていたのであろう。
3 上記の「深省懇意の医師」というのは、光琳三世を継ぐ「立林何帛」(前加賀藩医官・白井宗謙)のようにも思われるが、その医師が「何帛」としても、乾山の葬儀を取り仕切るような関係でなかったようにも思われる(何帛が乾山より「光琳模写宗達の扇面図」を贈られたのも元文三年で、乾山が没する頃は、やはり交誼は希薄になっていたのかも知れない)。
4 冬木家の関係で交遊関係が出来た、筑島屋(坂本米舟)や俳人・長谷川馬光との関係も、元文二年(一七三七)二月から翌年の三月までの一年有余の、佐野の長逗留などで、やはり、乾山が没する頃は、その交遊関係の密度は以前よりは希薄になっていたのかも知れない。
5 その上で、上記の晩年の乾山を看取った「地主次郎兵衛」というのは、寛永寺近くの、乾山の入谷窯のあった、その「地主・次郎兵衛」で、乾山亡き後、江戸の「二代・乾山」を襲名することとなる、その人と解したい。そして、この「次郎兵衛」は、乾山の佐野逗留時代の鋳物奉行・大川顕道(号・川声)などと交誼のある、天明鋳物型造り師の「次郎兵衛」その人なのかも知れない(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』)。
6 いずれにしろ、乾山が、寛保三年(一七四三)、六月二日(光琳の命日)に、その八十一年の生涯を閉じた時には、その六十九年の生涯を送った「京都時代」、そして、それ以降の、「光琳二世・絵師且つ乾山一世・陶工、尾形深省(乾山)」十二年の「江戸・佐野時代」を通して、その最期を看取ったものは、上記の、寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」の通り、乾山の縁故者は皆無で、乾山が開窯した「入谷窯」(「地主次郎兵衛」他)関係者などのみの寂しいものであったのであろう。

㈥ さらに、この、冒頭の「四季花鳥図屏風」の題名は、『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』での「楓柳芦屏風」の方が、より主題がはっきりしている。その理由は、ここに出て来る「鳥」は、「白鷺」のみで、その「草花」も、「春」から「秋」にかけての、「夏」の草花が主題という趣きで、「四季花鳥図」という題名はそぐわない面もある。
 まず「右隻」の「柳」(春)の下には、「菖蒲」(五月)、そして、「沢瀉・芙蓉」(六・七月)、「末摘花」(六月)、そして、「左隻」に行き、「花桔梗・うきぐさ・真菰・萩・すすき」(七月)、紅葉(八・九月)で、いわゆる「琳派」が画題とする「四季(「春・夏・秋・冬」または「一月~十二月」)花鳥図」とは趣を異にしているのである。

㈦ その上で、「右隻」の「柳」(春)に対する「左隻」の紅葉する「楓」周辺の白鷺は、もう既に鬼籍に入っている、乾山の「父・母」、そして、「二人の兄(長男と次男・光琳)」と「四人の妹」たちと解することも可能であろう。そして、この紅葉する楓は、死期を悟った乾山その人ということになろう。そして、この六曲一双の「十二画面(扇)」の「絵巻物」と解すると、この「紅葉する楓」の、最終章(「左隻」の「第六扇(面)」)の「芦」は、雪を被った枯れ芦の光景のようで、それは、下記のアドレスに出て来る「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原」(三条西実隆)の、その「宮城野ゝ原」ということになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-16

(再掲)

この「花におくある」というのは、咲き始める「春の花」でなく、咲き終わる「秋の花(秋の花野)」の、その「花のおく(奥)ある)」、「花野の、その先に」、それが、上記の、生まれ故郷の京の都から遠く離れた東国の「宮きのゝ原」(宮城野原)、そして、その「奥」は、すなわち、「黄泉(よみ)の国」という暗示なのであろう。

㈧ このように解してくると、この「左隻」の「第一扇(面)~第三扇(面)」の「蛇籠」 周辺の光景は、下記のアドレスで紹介した、「武蔵野隅田川図乱箱」の、その「武蔵野」と「隅田川」の光景となって来る。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

(再掲)

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

㈨ そして、この「武蔵野隅田川図乱箱」の「蛇籠」に続く、「左隻」の「紅葉する楓」(乾山)は、乾山の最期の地の、「乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて」(「上野奥御用人中寛保度御日記」)の、その上野寛永寺付近の入谷窯周辺の光景と解したいのである。その「無縁の者」のままに亡くなった乾山のもとに、京都の一代の栄光を浴した「雁金屋」の、皆、黄泉の国にいる同胞が、その黄泉の国へと誘うように解したいのである。

㈩ 最後に、光琳の百回忌を営み、光琳展図録ともいうべき『光琳百図』を刊行し、続いて、『乾山遺墨』をも刊行した、「江戸琳派」の創設者の酒井抱一の、その『乾山遺墨』の「跋文」を掲載して置きたい。

 余緒方流の画を学ふ事久しと雖更其
 意を得す光琳乾山一双の名家にして
 世に知る處なりある年洛の妙顕寺 
 中本行院に光琳の墓有るを聞其跡
 を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし
 て題字をなし其しるし迄に建其
 頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知
 ものなし年を重京師の人に問と雖
 さらにしらす此年十月不計して古筆
 了伴か茶席に招れて其話を聞く
 深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓
 の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見
 にそのことの如し塵を拂水をそゝき香
 花をなし禮拝して草菴に帰その
 遺墨を写しし置るを文庫のうちより
 撰出して一小冊となし緒方流の餘光
 をあらはし追福の心をなさんとす干時
 文政六年発未十月乾山歳八十一没
 てより此年又八十有一年なるも
 又奇なり
    於叡麓雨華葊抱一採筆
(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「乾山と琳派―抱一が『乾山遺墨』に込めるもの―(岡野智子稿)」)

江戸博本『乾山遺墨』跋文翻刻

翻刻は『酒井抱一 江戸情緒の精華』(大和文華館 二〇一四)所収の宮崎もも氏翻刻(国立国会図書館本)を参照しつつ行った。

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