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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その三) [金と銀と墨の空間]

(その三)尾形乾山の「四季花鳥図屏風」

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尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双  右隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵

乾山花鳥図屏風二.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 左隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵
(各隻とも、一四三・九×三二六・二㎝)

 この乾山の「四季花鳥図屏風」は、いわゆる、金屏風でも銀屏風でもない。また、墨一色の墨画に因るものではない。若干の着色を施した彩色画の屏風ということになろう。
 そして、金屏風・銀屏風を「ハレ」(晴れ・非日常)の空間、墨画屏風を「ケ」(褻・日常)の空間とすると、彩色画屏風は、その中間でというようなことになろう。
さらに、「金・銀」は、薄く伸ばした「箔」(金箔・銀箔)と、その「箔」を粉状にしたものの「泥」(金泥・銀泥)とがある。この乾山の「四季花鳥図屏風」には、例えば、「右隻」の「第五・六扇(面)」の三匹の白鷺の下に、「金泥」で山影のようなものが描かれ、「右隻」「左隻」とも、その背景に、胡粉(白)の霞・靄のようなものと相俟って、流れるような大気を金泥で表現している。
 この「金泥・銀泥」を駆使して「文字や書物を飾る『金銀泥絵の下絵』」の世界を切り拓いたのが、俵屋宗達で、その宗達下絵(金銀泥)に、本阿弥光悦が「書」(墨)で応え、その「書と絵との絶妙なハーモニー」(光悦と宗達の共同作業)が、いわゆる、「琳派」の源流ということになろう。

鶴下絵一.jpg

俵屋宗達画 本阿弥光悦書 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(部分図) 紙本金銀泥
三四×一四六〇㎝ 京都国立博物館蔵 重要文化財
【光悦・宗達合作による最高傑作。全長一四・六mにわたって、岸辺を飛び立ち、海を越え、対岸にたどり着くまでの鶴の群れの旅が描かれている。ゆったりとした筆さばきで描かれた鶴の飛翔は、まるで映画を見るようで、ここに全図を紹介できないのが残念だ。ふつう銀泥(ぎんでい)は歳月を経ると黒く変色してしまうのだが、第二次大戦後に発見されたこの和歌巻の場合は、描かれた当時の輝きを奇跡的に保っている。抑揚に富み、緩急自在な光悦の書は、下絵のリズムの強弱にあわせて絶妙に配されている。しかも構図と少しずらすことで、画面の奥行きを増す効果も果たす。下図は巻頭の岸辺にたたずむ鶴の群れ、上図は巻半ば過ぎの、海上を飛翔する姿。二人の天才がこの競演を心から楽しんでいたことが伝わってくる。 】『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』
(↓ 下図は「巻頭の岸辺にたたずむ鶴の群れ」)

鶴下絵二.jpg

 この宗達・光悦合作の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」が、「全長一四・六mにわたって、岸辺を飛び立ち、海を越え、対岸にたどり着くまでの鶴の群れの旅が描かれている」とするならば、冒頭の乾山の「四季花鳥図屏風」は、「六曲一双(各隻とも横=三二六・二㎝)の、光悦の本阿弥家とも縁戚関係にある京都有数の名家、雁金屋を屋号とする尾形家の三男として生を享けた乾山の、その八十一年の生涯を描いた」ものとして鑑賞することも可能であろう。
 そのような鑑賞視点から、下記のアドレスで、次のように記したことを、ここに再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

【(再掲)
 「右隻」の「第一扇(面)~第四扇(面)」に描かれた「(異様に)臥しなびく柳」の風情は、『源氏物語(宇治十帖)』の「浮舟」を抱きかかえる「匂宮」などの風情ではなく、没落して行く、光琳・乾山の生家の「雁金屋」を象徴するものとの見方も出来よう。そして、その柳のたもとの二羽の白鷺は、光琳・乾山の父(宗権)と母(乾山が十四歳の時に死別)ということになる。
とすると、この「右隻」の「第五扇(面)と第六扇(面)」の三匹の空飛ぶ白鷺は、「雁金屋」の「長男(藤三郎)・次男(市之亟=光琳)・三男(権平=乾山)」ということになる。
この長男(藤三郎)は、放蕩者で勘当されていたが、一度は家業を引き継ぎ、最期は江戸で亡くなっている。次男(市之亟=光琳)もまた、派手好きで、さながら西鶴の『好色一代男』の世之助の如き一面があり、この長男と次男とで、「雁金屋」の身代を潰したといっても良いのかも知れない。
光琳(次男・市之亟)もまた、一時、江戸に出たが、京に再帰して、画家としては大成したが、「光琳と乾山」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などの光琳像というのは、「日本にまったく珍しい超東洋的な、欲望と執念と行動欲とのおそろしく強く激しい性格であった」と、凡そ天才肌の非常識人の典型的な指摘もなされている。
 (中略)
「右隻」の「柳」(春)に対する「左隻」の紅葉する「楓」周辺の白鷺は、もう既に鬼籍に入っている、乾山の「父・母」、そして、「二人の兄(長男と次男・光琳)」と「四人の妹」たちと解することも可能であろう。そして、この紅葉する楓は、死期を悟った乾山その人ということになろう。
そして、この六曲一双の「十二画面(扇)」の「絵巻物」と解すると、この「紅葉する楓」の、最終章(「左隻」の「第六扇(面)」)の「芦」は、雪を被った枯れ芦の光景のようで、それは、下記のアドレスに出て来る「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原」(三条西実隆)の、その「宮城野ゝ原」ということになろう。】

 また、そのアドレスの最後に、「江戸琳派」の創始者・酒井抱一の、次の『乾山遺墨』の「跋文」を掲載したが、その冒頭の「緒方(尾形)流」の「緒方流」の名称こそ、今に轟く「琳派」名称の源流ということになろう。

(再掲)『乾山遺墨(酒井抱一「跋文」)』

 余緒方流の画を学ふ事久しと雖更其
 意を得す光琳乾山一双の名家にして
 世に知る處なりある年洛の妙顕寺 
 中本行院に光琳の墓有るを聞其跡
 を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし
 て題字をなし其しるし迄に建其
 頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知
 ものなし年を重京師の人に問と雖
 さらにしらす此年十月不計して古筆
 了伴か茶席に招れて其話を聞く
 深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓
 の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見
 にそのことの如し塵を拂水をそゝき香
 花をなし禮拝して草菴に帰その
 遺墨を写しし置るを文庫のうちより
 撰出して一小冊となし緒方流の餘光
 をあらはし追福の心をなさんとす干時
 文政六年発未十月乾山歳八十一没
 てより此年又八十有一年なるも
 又奇なり
    於叡麓雨華葊抱一採筆

【 尾形乾山(おがたけんざん) 没年:寛保3.6.2(1743.7.22) 生年:寛文3(1663)
野々村仁清と並ぶ江戸中期の京焼の代表的名工,画家。江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の3男。次兄には尾形光琳がいる。曾祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉で、祖父宗柏が鷹ケ峯の光悦村に居を構えていたように、光悦との繋がりも強い。初名は権平、のちに深省と改名,諱は惟允,扶陸とも称し、習静堂、尚古斎、陶隠、霊海、逃禅、紫翠、伝陸などと号した。乾山はもと京都鳴滝泉谷に開いた窯名であるが、のちに号としても用いた。本阿弥光甫から光悦以来の楽焼の陶技を伝授されたとの伝えもあるが(佐原鞠塢『梅屋日記』)、元禄2(1689)年、洛北御室仁和寺の門前双ケ岡の麓に居を構え習静堂と号し、このころから御室窯にいた野々村仁清のもとで陶技を学んだ。元禄12年8月に2代仁清から正式に陶法を伝授され、二条家から拝領した鳴滝泉谷に居を移し尚古斎と号し、仁和寺からの許可を得て窯を開き、この地が京都の西北,乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記した。 乾山窯には押小路焼の陶工孫兵衛が細工人として参加しており、押小路焼の交趾釉法と仁清伝授の釉法とを合わせながら、白化粧と釉下色絵などに代表される乾山窯独特の釉法が確立されていった。作品は「最初之絵ハ皆々光琳自筆」(『陶磁製方』)とあるように兄光琳が絵付し、乾山が作陶と画賛をする合作が主体で、この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれる。正徳2(1712)年洛中の二条丁字屋町に移り,窯は共同窯を使い、独自の意匠による食器類を作り出し、乾山焼の名は広く知られるようになった。享保年間(1716~36)のなかごろには江戸へ下向し、輪王寺宮公寛法親王の知遇を得て入谷に住み作陶を行い、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれる。元文2(1737)年には下野国(栃木県)佐野に招かれて作陶を行い、この時期の作品は佐野乾山と呼ばれる。関東時代には絵画制作にも力を注ぎ、また、元文2年、江戸で『陶工必用、佐野で『陶磁製方』というふたつの陶法伝書を著している。<参考文献>小林太市郎『乾山』、五島美術館『乾山の陶芸 図録編』 (伊藤嘉章) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について  】

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