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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その六) [金と銀と墨の空間]

(その六)俵屋宗達派「月に秋草図屏風」(「伊年」印)

月に秋草・出光一.jpg

俵屋宗達派「月に秋草図屏風」(右隻) 六曲一双 紙本金地着色 十七世紀前半
各一五五・一×三六〇・六㎝ 出光美術館蔵

月に秋草・出光二.jpg

俵屋宗達派「月に秋草図屏風」(左隻) 六曲一双 紙本金地着色 十七世紀前半
各一五五・一×三六〇・六㎝ 出光美術館蔵

【 昔から楚々(そそ)とした風情のある秋草は人々の美意識をいたく刺激したように、月明かりのなかを、はかなげな秋草が浮遊しているかのような情景は超現実的な感覚を与えるが、個々の草花の描写は写実的だ。芒(すすき)、白萩(しらはぎ)、桔梗(ききょう)など代表的な秋草が並ぶ。月は歳月を経て酸化して黒くなってしまっているが、もとは銀色に輝いていた。ところで宗達派はこのように上弦(じょうげん)の月が好みのようにみえる。満月では形におもしろみがないし、三日月ではとがりすぎていて、宗達流のおおらかな美意識はあわないのかもしれない。「宗達法橋」の署名と「伊年」印章があるが、宗達の自筆ではない工房作品に見なされている。 】
(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)


 上記の『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』では、「右隻」だけの掲載で、「左隻」は掲載されていない。上記の「左隻」は、『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』に因っている。その解説文(作品58-60「月に秋草図(山根有三稿)」)は次のとおりである。

【 六曲一双の金箔地に一面の秋草と銀泥の半月を描いたもの。いま昇ったばかりの月の光に濡れた秋草が、そここにいくつかの群れとなって、ひっそりと静まっている。露けき夜気が屏風の外までしっとりと流れでてくるかのようである。ことに尾花の描法は秀逸で、のびのびと引かれた線には快いリズムが感じられる。
宗達には確証のある、あるいは万人の認める大画面の草花図がいまだみいだされていない。しかし、金銀泥絵においては、前述のような多くの秀れた草花図を描いた宗達が、金屏風には草花図を描かなかったとは、とうてい考えられない。とくに慶長年間や元和年間の宗達なら描きそうである。この「月に秋草図」屏風こそそれだという説の強いのも当然であろう。たしかに、ここにみる的確で情趣に富んだ草花の表現や、金箔地をこれほどしっとりと感じさせる手腕はすばらしく、宗達の後継者宗雪の及ぶところではない。ただあまりにも控え目で豊かさや大らかさにやや欠けるのがすこし気になる。最近、宗達の周辺に宗雪よりはるかにすぐれた画人のいたことが明らかになりつつあるので、いましばらく断定差し控えたい。ともあれ、これは「蔦の細道図」などとともに、宗雪風より宗達風に近い大画面草花図として貴重な作品といえよう。
この屏風は月が中央になるように配置するのがよいと思われるが、そうすると各隻に捺された「伊年」印も画面の中央に集まる。そこで、室の両側に向かいあわせて置いたものと考えたい。あまり大きくない部屋に六曲一双の屏風を飾るには、当然そのような方法も必要である。この図の情趣も近くで眺めるのに適している。 】

 この作品には、「『宗達法橋』の署名と『伊年』の印章がある」にもかかわらず、「俵屋宗達派(伝)」というのは紛らわしい。「俵屋宗達画(「伊年」印)」と割り切りたい。
 また、上記の解説文の「この屏風は月が中央になるように配置するのがよいと思われるが、そうすると各隻に捺された『伊年』印も画面の中央に集まる」ということに関連して、酒井抱一の「月に秋草図屏風」(六曲一隻)では、その第三扇(面)の中央に、月を持ってきているものがある。しかし、こちらの月は満月で、宗達(宗達派)流の上弦の月ではない。 
 また、宗達(宗達派)の秋草が、「楚々として、はかなげな秋草が浮遊しているかのような超現実的な情景」に比して、抱一のそれは、その「秋草の中を大きな蔦の蔓葉が、天の満月に届くかのように、また、もう一方の蔦の蔓葉が地を這うように、右から左へと造形的・デザイン的な情景」として描かれている。

抱一・月に秋草・ペンタックス.jpg

酒井抱一画「月に秋草図屏風」六曲一隻 紙本金地着色 
一三九・五×三〇七・二㎝ ペンタックス株式会社蔵

 ここで、改めて、宗達(宗達派)流の「天地未分化」(天上と地上の境目をなくした未分化の空間)に対して、抱一(抱一派)は、「天に月、地に秋草」の二極対比の方向に転換させている。また、「近景に秋草、遠景に月」を意識化し、さらに、それらの二極対比を、金泥の大気のような「余白処理」(空間処理)は、宗達(宗達派)流をそのままに踏襲しているということになろう。
 「宗達(宗達派)の時代」のエポック(画期的な時期)を、寛永二年(一六三〇)の「宗達の法橋の叙任時期(これ以前に法橋に叙せられている)」とすると、「抱一(抱一派)の時代」のエポックは、文化十二年(一八一五)の「光琳百回忌を挙行し『光琳百図』を刊行する」ということになろう。すなわち、この両者の間には、実に、二世紀に近い年月(百八十五年)の隔たりが横たわっている。

抱一・月に秋草・岡田.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」 紙本着色 二曲一隻(もと襖二面)
一六五・七×二五一・六㎝ 文政八年(一八二五)五月作 岡田美術館蔵


 この右側上部の月は、上記の満月ではなく、冒頭の宗達(宗達派)流の上弦の月である。そして、秋草は、「薄・女郎花・桔梗・山帰来(実がついいている)」などで、上記の二作品とは、情趣を異にしている。もともとは、京都の五摂家の一つの二条家の襖絵として描かれたもので、引き手金具の裏側に隠された二条家の家紋が記されているという。

http://www.okada-useum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting06.html

 この二条家は、抱一が、その顕彰に尽力した「尾形光琳・乾山」と深い関係のあった公家で、恐らく、抱一が、文政二年(一八一九)の秋に、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進したこと、さらに、文政六年(一八二三)に、乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てたことなどと、何かしらの関係があるように思われる。
 大雑把に、江戸三百年を、前期(「1603年=家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く」以降)、中期(「1703年=中村内蔵助像/尾形光琳/大和文華館」以降)、後期(「1802年=中村芳中『光琳画譜』版行」以降)とすると、「琳派の流れ」というのは、安土桃山時代から江戸前期時代は、「本阿弥光悦・俵屋宗達」の時代、江戸中期時代は、「尾形光琳・乾山」の時代、そして、江戸後期時代は、「酒井抱一・鈴木其一」の時代と、エポック的に区分することも出来よう。
 そして、「尾形光琳・乾山」は、「光悦・宗達」から多くのものを学び、「抱一・其一」は、「光琳・乾山」から多くのものを学んだということはいえるが、上記の、抱一の「月に秋草図屏風」の二例を目にすると、いかに、抱一らが、「光悦・宗達」らも眼中に置いていたかということが明瞭になってくる。
 と同時に、「光悦・宗達・光琳・乾山・抱一・其一」らは、多かれ少なかれ、「鷹ケ峰工房(光悦工房)」「宗達工房(「伊年」工房)」「光琳・乾山工房(「鳴滝・二条丁字屋・入谷」工房)」、そして、「抱一・其一工房(「雨華菴」工房)など、絵師や工匠のグループを率いての、単なる、一介の「絵師・書家・工芸作家」のエキスパートではなく、総合芸術家的な、いわゆる、アートディレクター的な役割を演じていたということは、改めて、ここに特記をして置く必要があろう。

(追記)
 
 冒頭の「月に秋草図屏風」(宗達「宗達派」)の、上弦の月も、抱一(「抱一派」)の「月に秋草図屏風」の、その満月も、銀泥が酸化して黒色に変じているのも、これまた一興である。あまつさえ、抱一(抱一派)の、もともと襖絵であった「月に秋草図屏風」の、上弦の月も、
銀泥が酸化して黒色を帯びたとは思われないけれども、黒色じみているのも、これまた、一興である。
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