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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その七) [金と銀と墨の空間]

(その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

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俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

【 六曲一双の金地屏風に、緑青一色の濃淡だけで蔦の葉と土坡を描いたもの。上部に書かれた烏丸光広の賛から『伊勢物語』第八段に出てくる蔦かずらの生い茂った宇津の山の細道であることがわかる。話の筋は、東に行けばなにかよいことがあるだろうと、都をあとにした男が途中三河の八ツ橋を渡り、駿河の宇津の山の細道を抜け、富士の山を眺めつつ、やっとの思いで東についたが、隅田川に遊ぶ鳥が都(みやこ)鳥であると聞き、有名な「名にし負はば……」を歌を詠み、都に思いをはせる、という一種の旅日記である。この蔦の細道は、原文では、「いと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく……」とあって、暗く心細いことが都への郷愁をいっそうかきたてる心理的に重要なくだりであるが、この屏風ではそんなことは頓着なく、すっきりと明るく仕上げている。『伊勢物語』のくだりは、発想のための一起点にすぎず、画家の心は金と緑青のあやなす夢幻の世界を快げに飛びかっている。
それにつけても大胆、かつ斬新な構図である。屏風の大画面を左から右へゆるやかに流れる三本の線、おそらく中央の蔦を描いた細い帯は、山あいを走る蔦の細道の象徴的な表現であろう。この蔦を除いて、あとは三本の線で区切られた抽象的な面の響き合いによる構成である。
では、この屏風は宗達の作であろうか。結論からいえば宗達ではないと私は考えている。理由の第一は、空間処理の感覚が宗達とは異質のものである。宗達の画面に描かれたものは、必ず二次元の平面的な位置だけではなく、三次元の前後関係における位置もしっかりと定められている。つまり広がりと奥行が綿密な計算のうえに、きわめて整然と画面のなかに組み立てられているのである。しかるにこの屏風では、三次元的な前後関係はいっさい無視して、平面におけるパターンの効果とおもしろ味をねらっている。もちろん蔦の葉の重なりには、おのずから前後ん゛描かれているが、この蔦全体の属する空間の位どりが゜は、はっきりしておらず、そのため土坡らしき緑青(補彩が多い)の面と、賛の書かれた金地の空間との関係も明確にされていない。しかし、それは技及ばずして描きえなかったのではなく、初めその意図がなかったとみるべきであろう。
古くより、宗達でなければこれほどのものは描けまいとする説があるが、もし宗達に共通点を求めるならば、金銀泥絵巻物の世界であろう。たしかに、上下よりも左右への広がりを見せるこの屏風は、巻物的な構図をしており、技法も金銀泥絵的といえる。また名士烏丸光広の賛があることからみて、宗達が金銀泥絵巻物を媒体にして、直接または間接に影響を与えた可能性は考えられる。
宗達の作でないとする第二の理由は、その金銀泥絵巻物に関連する蔦の葉の描法である。宗達の「四季草花図」和歌巻(注・(その四)俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」=https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-11)の巻末に、一面蔦の葉ばかりを描いた場面があるが、濃淡による葉の重なり、葉の配置による奥行の深さなどにおいて、この屏風より一段まさっている。同一画家の出来・不出来であることに異論はない。なお光広とされる賛は次のとおり。

 行さきもつたのした道しけるより
  花は昨日のあとのやまふみ
 夏山のしつくを見えは青葉もや
  今一入(ひとしお)のつたのしたみち
 宇津の山蔦の青葉のしけりつゝ
  ゆめにもうとき花の面影
 書もあへすみやこに送る玉章(たまずさ)よ
  いてことつてむひとはいつらは
 あとつけていくらの人のかよふらん
  ちよもかはらぬ蔦の細道
 茂りてそむむかしの跡も残りける
  たとらはたとれ蔦のほそ道
 ゆかて見る宇津の山辺はうつしゑの
  まことわすれて夢かとそおもふ     】
(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品57「『蔦の細道図(山根有三稿)』」)

 上記は、長い作品解説文(山根有三稿)の全文であるが、先に紹介した下記アドレスの「(その四)俵屋宗達画・本阿弥光悦書『四季草花下絵和歌巻』」とに比して、その「空間処理」と「蔦の葉の描写」などから、この作品は、「宗達」作ではなく、「宗達派(宗達工房)」作としている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-11

 しかし、「慶長十五年(一六一〇)前後、宗達の画業の脂(あぶら)がのりだした」頃の、「衰退した物語絵巻にかわる近世的な草花図巻の出現」(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品19・20解説」)とまで絶賛している「四季草花下絵和歌巻」と、この「蔦の細道図屏風」とでは、その「料紙」の「下絵」としての狙いと、「下絵」的な「屏風絵」の狙いとでは、似ていて非なるものがあることに注目する必要がある。
 前者のそれは、「竹(正月・冬)・梅(春)・躑躅(夏)・秋(秋)」の、いわゆる四季の景物を主題としたもので、それは「近世的な草花図巻」の下絵というものを狙っている。それに対して、後者は、「草花図巻」ではなく、『伊勢物語』の第九段「蔦の細道」の、上記の解説(「作品19・20解説」)の、その「衰退した物語絵巻」への、新しい息吹ともいえる「新物語絵巻」の「新下絵」ともいうべきものを狙っており、それは、実に斬新な発想を、その背後に潜ませている。
 その斬新な発想というのは、この「蔦の細道図屏風」の「右隻」の画面と、「左隻」との画面は、「左右を入れ替えてもつながる画面」になっており、それは「どこまで行っても終わることのない、果てしない『蔦の細道』」を示唆しているような、大胆にして奇抜、奇抜にして緻密な計算の上に成り立っている画面構成なのである。

蔦の細道三.jpg

←左隻(六面)→←右隻(六面)→  ←左隻(六面)→←右隻(六面)→

【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】
(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

 こういう新機軸の発想による「六曲一双」(十二扇=十ニ面)という、大画面の屏風もの(各隻=一五八・〇×三五八・四㎝)に、光悦・宗達のコラボレーション(共同制作・合作・響き合い)の、「和歌巻」の、料紙もの(その代表的な「四季草花下絵和歌巻」=三三・五×九一八・七㎝)を応用する、その総元締めは、「伊年」印(工房)の、総元締めの「宗達」その人を除外しては、この作品そのものが、そぐわないであろう。
 そして、これは、「料紙」もののコラボレーション(共同制作・合作・響き合い)の、「和歌巻」ものが、「光悦と宗達」ということならば、この「屏風」もののコラボレーション(共同制作・合作・響き合い)は、これは、まさしく「光広と宗達」の、この二人の、それであるということが、その原動力にあるという思いが去来するのである。
 すなわち、この「蔦の細道図屏風」は、「烏丸光広と宗達(「伊年印」)との、両者の最期のコラボレーションの、その総決算的なものと解したいのである。
 すなわち、「宗達と光悦」との一時代を画した本阿弥光悦は、寛永十四年(一六三七)、その七十九年の生涯を閉じた。そして、その翌年の寛永十五年(一六三八)、烏丸光広が、その六十年の生涯を閉じるのである。
 そして、宗達は、その生没年が未詳だが、寛永十九年(一六㈣二)時に、「宗達の後継者宗雪は法橋位にあり、この年までに宗達死去」(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)とされており、「光悦・光広・宗達」の、この三人は、同時代の、同一サークル圏内の、同一時期に逝去している、極めて、相互に交響し合って切磋琢磨する間柄であったということになろう。
 これらのことを念頭に置くと、ことさらに、「この屏風は宗達の作であろうか。結論からいえば宗達ではない」(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品57「『蔦の細道図(山根有三稿)』」)という立場ではなく、「四季草花下絵和歌巻」(光悦書、宗達画)と同じく、この「蔦の細道図屏風」も、「烏丸光広書、宗達画(「伊年」印)」と「『伊年』印
」の条件を付しながら、「宗達画」と解したい。

(追記)「蔦の細道図」(「烏丸光広書、宗達画(「伊年」印)」)の「光広」の賛(署名)

 『伊勢物語』の第八段(業平東下りの宇津山の「蔦の細道」)の和歌の賛は、烏丸光広の筆に因るが(その全文は上記に紹介)、その「光広」の二字の署名は、下記のとおりである。
「右隻」の第二扇(面)中央の土坡の上に「小さく」そして「旅人」のように書かれている。その第三扇(面)の和歌賛の「行さきもつたのした道」の「道」の字と比較すると、これが署名かと疑うほどに小さく書かれている。
 「蔦の細道」の「左右入れ替えてもつながる画面」の仕掛けが、宗達と宗達工房の、光広へのコラージュの呼び掛けならば、この何ともけし粒ほどの光広の二字の署名は、それに応えたものなのであろう。

蔦の細道四.jpg

「蔦の細道図」(「烏丸光広書、宗達画(「伊年」印)」)の「光広」の賛(署名)=部分・拡大図

(参考)

烏丸光広(からすやまみつひろ) 
没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)
 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

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middrinn

引用されている見解、刺激的ですね(^_^;)
by middrinn (2018-07-22 16:15) 

yahantei

連日、暑さが酷くて、PCに向かう時間どころではないですね。「宗達」など、じっくり腰を据えて見て行くと、今更ながらに、「宗達???」という感じですね。(そのうちにお邪魔します。)
by yahantei (2018-07-22 19:14) 

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