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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その八) [金と銀と墨の空間]

(その八)深江芦舟筆「蔦の細道図屏風」

芦舟・蔦の細道一.jpg

深江芦舟筆「蔦の細道図屏風」 六曲一隻 紙本金地着色
一三二・四×二六四・四㎝ 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 重要文化財 A-12097
芦舟・蔦の細道二.jpg

深江芦舟筆「蔦の細道図屏風」 六曲一隻 紙本金地着色
一五二・四×二六七・八㎝ 江戸時代・18世紀 クリーブランド美術館蔵 

【 『伊勢物語』の第八段(注・「第九段」とした方が適切であろう)、業平東下りのうち、宇津の山の蔦の細道のところは、「宗達・光琳派」がしばしば描いた題材だが、芦舟はことに愛好したらしく、屏風だけでも三点遺っている。なにか特別な感慨があったのであろう。この図(注・上記の「国立博物館蔵」のもの)はそのうちのもっとも秀れた作である。業平とその従者、馬、前を歩く僧の姿、これらはいずれもすでに宗達風の「伊勢物語図」や光琳の団扇画中にみられるもの。また、重なりあう山裾をこのように横の直線にすることも、かつて宗達が「関屋図」で試みていた。しかしこの図は宗達画のような明確な画面構成を少しも感じさせない。それは「たらしこみ」を多用した山の姿や彩色が、ぼってりした印象を与えるためである。とはいえ、重なる山の配色には手前に暗褐色の山を置くなど、かなり心を用いている。芦舟として意外と思われるほど明るい赤の蔦紅葉が点々と配されているにもかかわらず、全体は重々しい土の香りにみちている。
蔦の細道は昼なお暗い道というが、ここには銀座人処罰によって父は遠島、母は自殺という悲運にあった少年深江芦舟の暗い内面が色濃く投影されているのかもしれない。 】
(『原色日本の美術14宗達と光琳(小学館)』所収「作品122「『蔦の細道図(山根有三稿)』」)

上記の解説文は、上記二図のうち上の「国立博物館蔵」のものであるが、下の「クリーブランド美術館蔵」のものも、「2014年1月15日(水) ~ 2014年2月23日(日)東京国立博物館」の「「クリーブランド美術館展─名画でたどる日本の美」で里帰りしていた。 

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1624

 この両者の大きく違う点は、後者では、図の右側(第一・第二扇)の下部に、前者では描かれていない「水流」を配して、馬上から降りて都への手紙を託する業平(第三扇)の、その時の心情を暗示しているかのような仕掛けを講じているような点であろうか。また、都へ帰る修業僧(第四扇の上部)が、前者では「背に負う行李」のみの表現を、後者では「行李を背負う修業僧」とより具象性を持たせている点であろう。また、従者と馬(第五扇)でも、前者の馬は、東国(江戸)の方へ顔を向けているのに対して、後者では、馬全体が前途の東国への向いており、全体として、後者の方が、『伊勢物語』の第九段(東下り)の「都へ帰る修行僧を見送る」業平の心境を具象的に表現しようと作者の姿勢が窺えるというようなことであろうか。
 しかし、上記の解説文の「業平とその従者、馬、前を歩く僧の姿、これらはいずれもすでに宗達風の『伊勢物語図』」にもあるとおり、宗達の「伊勢物語図色紙」を、そのまま踏襲していると解して差し支えなかろう。
 また、その「重なりあう山裾をこのように横の直線にすることも、かつて宗達が『関屋図』で試みていた」との指摘のとおり、それらも、宗達の世界をそのまま再現しているといって、これまた過言ではなかろう。
 作者の深江芦舟(下記「参考」)は、尾形光琳に師事したとされているが、これらの芦舟の代表作とされている「蔦の細道図屏風」からしても、より多く、宗達(そして「宗達派」)の影響が多いことが容易に窺えるのである。

色紙蔦の細道.jpg

伝・俵屋宗達筆「伊勢物語図色紙」のうち「宇津山図」(MIHO MUSEUM蔵)
色紙 紙本着色 二㈣・七×二一・一㎝

(追記)
 上記の解説文の「芦舟はことに(注・「蔦の細道図」を題材とすることを)愛好したらしく、屏風だけでも三点遺っている」との、もう一点の「蔦の細道図屏風」(二曲一双)は、下記のもので、米国(グリーンパーク夫人蔵)に早い時期に渡っているようである(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「作品解説193」)。

芦舟・蔦の細道三.jpg

深江芦舟筆「蔦の細道図屏風」 二曲一隻 紙本金地着色
七二・四×一八八・〇㎝ 江戸時代・18世紀 個人蔵(米国?)
『琳派 第四巻・人物 (紫紅社)』
https://www.artbooks-shikosha.com/shop/1106/SKS1000000011.html

 これを見ると、「蔦の細道図屏風」の主題が、「手紙を託した業平と手紙を託されて都に帰る修行僧」の二人で、『伊勢物語』第九段(「東下り」の「宇津山道」)の場面であることが、より明瞭になって来る。

(参考) 深江芦舟(ふかえろしゅう)
1699‐1757(元禄12‐宝暦7)
江戸中期の琳派画家。名は庄六、別号は青白堂。京都銀座の年寄筆頭役深江庄左衛門の長男に生まれる。1714年(正徳4)の銀座手入れにより父は流罪となり、蘆舟も処罰を受けた。銀座年寄中村内蔵助を通じて尾形光琳を知り師事したと推定されるが、より強く宗達派の影響を受け、素朴な装飾性に溢れた物語絵や草花図を遺した。代表作に《蔦の細道図屛風》(梅沢記念館、クリーブランド美術館),《四季草花図屛風》などがある。【河野 元昭】→世界大百科事典 第2版(上記の「梅沢記念館」蔵とあるのは、現在「東京国立博物館」蔵となっている)。
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