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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その十一) [金と銀と墨の空間]

(その十一)酒井抱一筆「八橋図屏風」

抱一・燕子花一.jpg

酒井抱一筆「八橋図屏風」 六曲一双 絹本金地著色 各一六一・六×三九㈦・八㎝
出光美術館蔵
【 光琳に「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)があり、『光琳百図 後編』にも掲載される同図を模した作品。『伊勢物語』第九段東下りの八橋のくだりに因む図様である。絹本描かれた本屏風は、燕子花の葉を緑青と白翠の二色で表し、光琳画より明るい印章を受ける。また燕子花の根元部分を直線的に整えたり株ごとの間隔を空けるなど、金地の余白を一層効果的に見せる抱一らしい工夫が施されている。江戸の酒問屋、永岡伊三郎の注文による制作で、後に鰻屋大黒屋へ、さらに岩崎家へと伝えられた。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾和子・岡野智子編)))

 上記の解説文中の「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)は、前々回(尾形光琳筆「蔦の細道図団扇」)で紹介したが、下記に再掲をして置きたい。

(再掲)

八橋図屏風二.jpg

尾形光琳筆「八橋図屏風」 六曲一双 紙本金地著色 メトロポリタン美術館蔵
一七九・〇×三七一・五㎝ 右隻=「青々光琳」 左隻=「法橋光琳」

 尾形光琳(一六五八~一七一六)が没してから百年後の文化十二年(一八一五)、光琳を敬慕する酒井抱一(一七六一~一八二八)は、江戸で光琳百回忌の法要を営んだ。この時に、光琳画を集めて展覧会を開き、その展示作品をもとにして刊行されたのが『光琳百図』である。
 この『光琳百図』は、その展示会の出品作品と、その前後に縮図を取ることのできた作品を収録する上下二冊本(上に四十七点、下に二十二点)で、本来は百年紀に上梓したかったものであろうが、実際は一~三年後の文化十三(一八一六)~十五年(一八一八)頃の光琳忌に刊行されたようである。
 この版下絵は、抱一の他に、抱一の付き人の鈴木蠣潭(れいたん)やその養子の鈴木其一などが手助けをしたものなのであろう。特に、蠣潭(れいたん)は、文化十四年(一八一七)に亡くなっており、蠣潭(れいたん)の最晩年の遺作的な意味合いもあるのであろう。
 さらに、抱一は、亡くなる三年前の文政九年(一八二六)に、『光琳百図』後編上下二冊本(九十五点)を上梓している。
 この『光琳百図』後編上に、上記の「八橋図屏風」(光琳筆)の縮図が収載されている。それらは、下記のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

光琳百図・燕子花.jpg

『光琳百図』後編上のうち「燕子花図屏風」(六頁のものを合作)
 
 上記の「燕子花図屏風」(六頁のものを合作)は、『別冊太陽 尾形光琳 「琳派」の立役者』(平凡社)のもので、それによると、光琳の「燕子花図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)は、深川の材木問屋の豪商冬木家旧蔵のもので、光琳が江戸に下向し、冬木家に寄寓した宝暦元年(一七〇四)以降の作品ということになろう。
 また、抱一の「燕子花図屏風」は、『光琳百図』との関連ですると、『光琳百図』後編上下二冊本が上梓された文政九年(一八二六)前後の作と解することも出来よう。

(別記)

抱一・燕子花二.png

酒井抱一筆「燕子花図屏風」 二曲一隻  絹本金地着色  一七㈦・一×一八三・六㎝
享和元(1801)年  出光美術館蔵

 抱一には、別に「燕子花図屏風」(二曲一隻)があり、これも光琳画を念頭に置いたものなのであろうが、冒頭の「燕子花図屏風」(六曲一双)のような、単純に模したものではなく、手前に描かれた燕子花の葉先に、小さなトンボが配されるなど、抱一らしい洒落た遊び心が垣間見える。「辛酉夏月 庭柏子」の署名により、四十一歳のときの作である。

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