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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その十二) [金と銀と墨の空間]

(その十二)酒井抱一筆「宇津山路図」(二幅)

抱一・宇津山図三.jpg

右図 抱一筆「宇津山路図」一幅 個人蔵    絹本着色 一一〇・〇×四一・〇㎝
左図 抱一筆「宇津山路図」一幅 山種美術館蔵 絹本着色 一〇七・〇×三八・〇㎝

 これらの抱一の「宇津山路図」は、下記のアドレスの「光琳百図」(上)に因っている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

光琳百図.jpg

『光琳百図』(上)のうち「宇津山路図」

 この抱一が模写して、『光琳百図』に掲載したものは、現在のところ見当たらないようである。この『光琳百図』の主題は、『伊勢物語』の、次の「駿河の国」の、「文を書く業平」と、その文を京へ届ける「修行僧」の二人である。

(駿河の国)
 行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」
といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり

上記の右図では、編み笠を被った後ろ姿の修業僧が明瞭に描かれているが、左図では、その修行僧が木の陰に隠れている。こういう微妙に異なるところに、抱一の遊び心などが見えてくる。
抱一には、三幅対の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(各九九・一×三五・〇㎝ 個人蔵)のものがあり、その「宇津山図」は次のとおりである。

宇津山図四.jpg

酒井抱一筆 三幅対「宇津山図・桜町中納言・東下り」(絹本着色 各九九・一×三五・〇㎝ 個人蔵)のうち「宇津山図」(一幅)

 この図では、「文を書く業平(?)」が、画面中央の右に描かれ、修行僧の編み笠だけが、その下の左側に描かれている。また、業平(?)の衣装の著色も異なってくる。ここで、この三幅対の「桜町中納言」とは、平安時代後期の公卿・歌人の「藤原成範(しげのり)」の異名で、平安時代初期の貴族・歌人の「在原業平(なりひら)」とは、別人なのである。
 すなわち、抱一は、『伊勢物語』の主人公は、「在原業平」と特定はしないで、この三幅対の「桜町中納言」からすると「藤原成範」とする説をも提示しているようなのである(これらは、次回で触れることにする)。
 とにもかくにも、先に紹介した、宗達の「宇津山図」(「伊勢物語図色紙」のうち)からスタートして、光琳の「蔦の細道図団扇」の図柄となり、『光琳百図』(抱一編著)からすると他にも、光琳の「宇津山路図」関連のものは種々あり、そして、抱一は、それらの、「宗達・光琳・始興・芦舟」の「東下り・宇津山路図」に関連して、それを総決算するような(上記の三種類など)を今に遺している。
そして、それは、『伊勢物語』の主人公は、宗達・光琳以来の「公家社会」に多く関係する「在原業平」だけではなく、「源平盛衰記」などにも関係してくる、すなわち、「武家社会」にも片足を入れている「桜町中納言(藤原成範)」を、この三幅対「宇津山図・桜町中納言・東下り」(絹本着色 各九九・一×三五・〇㎝ 個人蔵)の、その「宇津山路」は示唆しているのであろう。

(今回の抱一筆「宇津山路図(二幅)」は、『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』に因っている。)

(参考その一)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-25

宗達の「宇津山図」(「伊勢物語図色紙」のうち)と光琳の「蔦の細道図団扇」など

(参考その二) 在平業平(ありひらのなりひら)

没年:元慶4.5.28(880.7.9)
生年:天長2(825)
平安時代の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。平城天皇の皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の子。5男だったので在五中将、在五などとも呼ばれた。右馬頭、右近衛権中将などを経て、元慶3(879)年には蔵人頭(天皇に近侍する要職)になったとも伝える。『三代実録』に「体貌閑麗,放縦にして拘わらず,略才学無し,善く倭歌を作る」と評されてその人柄がうかがわれるほかは、実像を伝えるものは少ないが,紀有常の娘を妻とし、文徳天皇の皇子で紀氏を母とする惟喬親王に親しく仕え、一方で、恋愛関係にあったともされる二条后藤原高子の引き立てを受けたことは、事実と考えられる。 『古今集』時代に先駆けて新しい和歌を生み出した優れた歌人のひとりで、紀貫之も深い尊敬の念を抱いていたことがその著書『土佐日記』によって知られる。『古今集』仮名序に「その心余りて言葉足らず」と評されるように、業平の和歌は大胆な発想による過度なまでの詠嘆に特徴があり、桜花への愛惜の情を逆説的に詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の一首をはじめ、その新鮮な表現と抒情性は後代まで常に高く評価され続けた。また斬新な発想や用語には白居易などの漢詩の表現に源泉を持つものが多く、この点でも平安朝和歌の方向を先取りしている。『伊勢物語』の一部は業平の自作かとも考えられ、その後何人もの手により、業平を思わせる主人公の物語として加筆され、成長していった。また、虚構が実録として読まれたことからさまざまな伝説の業平像が生まれ、各時代に応じた変容をみせつつ、日本の文学や文化の大きな源泉であり続けた。『古今集』には30首が入集。以下の勅撰集にも多くの歌が採られているが、『伊勢物語』の主人公の歌を業平の歌と考えて採録したものが多い。現存する『業平集』は後人が『古今集』『伊勢物語』などから歌を集めて編集したもの。<参考文献>目崎徳衛『平安文化史論』,片桐洋一『日本の作家5/在原業平・小野小町』 (山本登朗) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり)
没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み,風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について




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