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琳派とその周辺(その二) [琳派とその周辺]

(その二)中村芳中「山水図(大江丸「賛」)」

山水図.jpg

中村芳中「山水図」 紙本著色 一幅 一二・一×二㈦・一 個人蔵
署名 芳中写 印章「琴書」(朱文長方印)
【早い筆致で懸崖と滝、松樹を描く、山を積み重ねるように配置し、藍で遠山をシルエットのように表現する作風は、芳中の知己である青木木米(一七六七~一八八三)の作風に通じる。文人画の技法を確かに習得していたことを示す作品で、江戸下向以前の寛政年間(一七八九~一八〇一)の作と考えたい。賛者の大江丸(一七二二~一八〇五)は大阪うまれの俳諧師で、芳中が寛政十一年(一七九九)に江戸へ出発した際に作られた「画家芳中子の東行を送る」と題した摺物に句を載せている。本図賛は「花ふちのおもひに揺るかくれ松」。 】
(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「作品解説121(福井麻純稿)」)

 画家・芳中の名が登場するのは、寛政二年(一七九〇)版『難華郷友録』の中である。この時の、芳中の年齢は定かではないが、この山水図に賛をしている、三都随一の飛脚問屋にして俳諧師・大伴大江丸は、六十八歳の頃である。
 この頃、大江丸は、大江丸の代表的な句文集『俳懺悔』(寛政二庚戌十月)を刊行する年代に当たる。その『俳懺悔』の末尾を飾っている軸句は、次の前書きのあるものである。

  四季のほ句千あまり、すみつ
  きの事ぐさ百三十かさねのも
  の、みづから筆とりかき納て
 ふたおやにみせたし今年六十九

 この前書きから分かるように、『俳懺悔』は四季別の編纂で、上(春・夏)、下(秋・冬)の二冊から成っている。
 句数は「千あまり」(実句数=九百余句)、頁数は「上=七十二丁」「下=六十八丁」、出版者は「江戸・西村源六 大阪・藤谷彌兵衛 京都・橘屋治兵衛」、その「序」は、「葆光斎天府(注・上総国大多喜藩主松平備前守)」と、まさに、三都随一の飛脚問屋にして遊俳の棟梁に相応しい句文撰集(句と俳論などから成る「句文撰集」)と言えるであろう。
 登場する俳人も、「宗因・芭蕉・鬼貫・其角・嵐雪(雪中庵一世)・吏登(同二世)・蓼太(同三世)・完来(四世)・巴人(夜半亭一世)・蕪村(同二世)・几董(同三世)・半時庵淡々)・鳥酔・涼袋・暁台・闌更・二柳・巣兆」等々と、大江丸の「一門一派」に偏らない、直接と間接とを問わず、その広範囲な交流、交遊関係というのは、大江丸の真摯な、そして自在な姿勢の一つの具現化なのでもあろう。
 その作風も、上記の軸句が物語るように、平明にして自由闊達な、これまた、その自在な心(そして、それは、他に対する「挨拶」する心)を基本に据えてのものと解することも出来よう。
 
  夜半亭蕪村を悼(ム)
  この叟の潔き性質(みさを)を思ひて
 落(おつ)るときおちし椿の一期(いちご)哉

 夜半亭二世・与謝蕪村が瞑目したのは、天明三年(一七八三)、十二月二十五日、六十八年の生涯であった。大江丸は、享保七年(一七二二)の生まれで、蕪村よりも六歳年下で、上記の蕪村悼句は、大江丸が六十二歳の頃のものであろう。
 この句は、蕪村追悼集『から檜葉(下)』に、大江丸の前号の「旧国(ふるくに・きゅうこく)」で収載されている。その前書きは「夜半翁の潔(いさぎよ)きみさをゝおもふ」で、句形は「落(おつ)る時落(おち)し椿の一期哉」である。
 ここで、大江丸と芳中との年齢関係は定かではないが、おそらく、両者のそれは、四十歳位の親子ほどの開きがあったように思われる。
 とすると、芳中は、蕪村が瞑目した天明三年(一七八三)当時は、二十歳を過ぎた頃で、芳中の方では、文人画・俳人として第一人者であった蕪村を意識していたであろうが、蕪村の方では、大雅門に近い芳中とは、殆ど無関心・没交渉であったというのが自然な見方であろう。
 さらに、芳中と木米との年齢差は、五歳程度、芳中が年上と思われ、蕪村と木米とは、これは、殆ど、両者が交差する関係がなかったというのが、これまた自然な見方であろう。

 とした上で、「大江丸」と「芳中・木米」とは、両者に親子程度の年齢差があったとしても、大江丸は、この二人を、それは、大江丸と同じくする、浪華の文化人ネットワークの傑物・蒹葭堂と均しく目にかけていたということが、大江丸や蒹葭堂関連の資料から浮かびあがって来る。
 大江丸の通称は、大和屋善右衛門でいったが、江戸店(日本橋瀬戸物町)での通称、島屋佐右衛門の方が一般に知られている。寛政十一年(一七九九)の、芳中の江戸下向などは、この大江丸の人脈などが、その背景に見え隠れしている。 
 芳中の江戸滞在(寛政十一年=一七九九~文化二年=一八〇五、享和二年=一八〇二の頃一時帰坂)時は、江戸四大家の一人、夏目成美(浅草蔵前の札差)や鈴木道彦(別号=金令・十時庵、医師で日本橋石町に住む)などを訪ね、「鈴木道彦の裏店に落ち着いた」との記載も見られる(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』)。

芳中・一枚摺.jpg

中村芳中画「金令(鈴木道彦)撰春興月並一枚摺」(早稲田図書館蔵)
(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』)

 芳中は江戸に出て、享和二年(一八〇二)に『光琳画譜』を出版する。たらし込みを版本で再現しようとした、この『光琳画譜』は、光琳風の画人・中村芳中の名を今にとどめることになる。その江戸にあって、芳中は、当時の江戸俳壇の大立者の鈴木道彦などの「一枚摺」や版本などの挿絵などに携わっていたのであろう。
 上記の「一枚摺」は、新春の句(春興句)の摺物で、「芳中は七草囃子を唱えながら七草を刻む男を描いている」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』)。同時に、これは、俳諧宗匠が、文台を前にして、歌仙(連句)や発句を捌いている様子なども背後に潜めているのであろう。この芳中画は、蕪村の俳画(「俳諧物之草画」)なども、芳中は自家薬籠中のものとしているかが見て取れる。

(参考一) 大伴大江丸(おおとものおおえまる)
没年:文化2.3.18(1805.4.17)
生年:享保7(1722)
江戸中期の俳人。安井氏。名は政胤。幼名は利助、隠居後は宗二。通称は大和屋善右衛門。江戸店での屋号は嶋屋佐右衛門。初号は芥室、のち旧州(国)、大江隣と改め、晩年は大伴大江丸を号する。大坂高麗橋1丁目に生まれ、北革屋町に住し、飛脚問屋を営む。寛延3(1750)年家督を継ぎ、三都随一といわれるまでに家勢を盛りたてた。笠家旧室門のち前田良能・大島蓼太門。与謝蕪村、高井几董、加藤暁台、白井鳥酔らとも交わり、蕉風復興運動に寄与した。寛政2(1790)年、古稀を迎えて賀集『俳懺悔』を刊行した。このころから四季折々に摺物を催し各地の詞友に配り、独自の軽妙、洒脱な作風を強く打ち出していく。同12年に、前後5カ月にわたる東奥旅行を敢行し、江戸では大島完来、建部巣兆、夏目成美、鈴木道彦、白猿(5代目市川団十郎)らと風交を共にしている。蕉風転向後の彼は持論通り、一門一党に偏らず、多彩な作風を展開し、小林一茶にも影響を与えた。<参考文献>大谷篤蔵「大伴大江丸」(明治書院『俳句講座』3巻) (加藤定彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考二) 『俳懺悔』(大伴大江丸撰)

上・下(二冊) → 愛知県立大学図書館貴重書コレクション

http://opac1.aichi-pu.ac.jp/kicho/kohaisyo/books/027_439-440_1/027_439-440_1_index.html

下 → 早稲田大学図書館

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0666/

(参考三)夏目成美(なつめせいび)
没年:文化13.11.19(1817.1.6)
生年:寛延2.1.10(1749.2.26)
江戸中期の俳人。名は包嘉。幼名,伊藤泉太郎。通称井筒屋八郎右衛門(5代目)、隠居して儀右衛門と改称。初号八良治。別号、随斎、不随斎など。伯父の祇明(寛延1年10月4日没)は、点取俳諧の弊風を離れて蕉風を志向した四時観連のひとり。成美は,この祇明の生まれ変わりということで、3歳になるまで父の実家伊藤家に預けられた。16歳で、江戸蔵前の札差井筒屋の家督を継ぐ。18歳で痛風を病み、その時以来右足の自由を失う。父(俳号宗成)、母、弟(吟江)、父の弟(福来)らなど、一族挙げて俳諧を能くし、成美も早くから俳諧に親しんだ。自ら「俳諧独行の旅人」と称し、一定の流派に属さないまま、2世(仲)祇徳、大島蓼太、加舎白雄、加藤暁台、高井几董らと交わり、小林一茶に対してはパトロン的立場にあった。家業の余技として俳諧を楽しみつつ、「後の月葡萄に核の曇りかな」、「魚くふて口なまぐさし昼の雪」といった都会的で清雅な句を詠み、与謝蕪村と同じく去俗の俳論を提唱した。同時に、松尾芭蕉の追悼や顕彰に協力、寄与している。売名虚名にも迷わなかった彼は、人格円満で多くの人に慕われ、おびただしい数の序跋を与えている。<参考文献>石川真弘編『夏目成美全集』  (加藤定彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考四)鈴木道彦(すずきみちひこ)
没年:文政2.9.6(1819.10.24)
生年:宝暦7(1757)
江戸後期の俳人。名は由之。別名、三千彦,金令舎ほか。仙台の人。代々医者の家に生まれる。少年時代から俳諧に親しみ、加舎白雄が奥羽を行脚した際、門人となる。白雄没後、江戸に出て医を業とするかたわら、建部巣兆,夏目成美,井上士朗らと親交、化政期江戸俳壇において最大の勢力を誇った。『むくてき』(1798)で与謝蕪村ら天明七名家を酷評する自信を見せたが、晩年はその勢力も衰え、白川芝山著の『高館俳軍記』(1818?)で論難された。主著は『道彦七部集』(1830)に収録。<参考文献>鈴木勝忠「鈴木道彦」(明治書院『俳句講座』3巻)  (加藤定彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について
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