SSブログ

琳派とその周辺(その三) [琳派とその周辺]

(その三)中村芳中『光琳画譜』所収「亀」「仔犬」「鼠」「鹿」

亀・仔犬・鼠・鹿.jpg

中村芳中画『光琳画譜』所収「亀」「仔犬」「鼠」「鹿」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm
『光琳画譜』(版元「近江屋与兵衛」=一部に『有印』、上記アドレスの「メトロポリタン美術館(MM)」蔵のもの、各二七・一×一九・四㎝)と(版元「金華堂守黒」=無印本、二十五図の標準的な構成、上記アドレスの「国文学研究資料館(NIJL)、立命館大学アート・リサーチセンター(ARC)」蔵のもの、各二五・五×一八・四㎝)などがある。上記は「「金華堂守黒」版に因る。

【(『光琳画譜』は)中村芳中が江戸滞在中に江戸で刊行された。『光琳画譜』と名乗るが、尾形光琳作品の模写ではない。芳中が光琳風と受けとめたらしい「たらし込み」を多用する芳中自身の絵を版画としている。「たらし込み」を版で再現しようと試みる。『光琳画譜』によって芳中は光琳風の絵師として位置づけられたのか、光琳風の絵師として位置づけられたのか、光琳風の絵師芳中を打ち出すために『光琳画譜』を出版したのか定めがたいが、この後芳中は求めに応じて光琳風の作品を多く描いていくことになる。  
加藤千蔭の序文、川上不白の跋文を伴う。版元を近江屋与兵衛とするものと金華堂守黒とするもの(近江屋与兵衛と金華堂守黒は同一で表記の問題)、摺師が擔板漢(芳中自身)か松田新助か、画中の印の有無など、どれが初版か意見が一致していない。刊年の享和二年、江戸ではすでに酒井抱一が光琳風の作画を始めていた。後摺を含めて多くの本が残り、一部は明治以降海外に輸出され、ジャポニズムにおける「光琳」イメージを形成した。(後略) 】
(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』)

『光琳画譜』というのは、一言ですると、「高嶺の花で庶民には手の届かなかった尾形光琳の作品を、中村芳中が、芳中自身が受容した、その『光琳風芳中画』を『木版多色摺(一部手彩色か)絵本』として出版して、光琳作品の大衆化に大きく寄与した画譜(木版画絵本)」というようなことになろう。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の四図(算用数字は登載番号)

1「亀」 → 応挙などの「亀」に近い。

亀.jpg

8「仔犬」 → これまた、宗達・応挙・芦雪などの「仔犬」に近い。

仔犬.jpg

11「鼠」 → 鼠も応挙とその周辺の絵師などが多く手掛けている。

鼠.jpg

19「鹿」 → 蕪村にも「鹿」の傑作ものが多い。

鹿.jpg

(参考二)加藤千蔭(かとうちかげ)
没年:文化5.9.2(1808.10.21)
生年:享保20.2.9(1735.3.3)
江戸中・後期の歌人、国学者。本姓橘、初名佐芳。通称常太郎、又左衛門。朮園、芳宜園、耳梨山人等と号した。狂号橘八衢。幕府の与力で歌人の加藤枝直の子。幼時より才能を発揮し、父枝直の手ほどきを受ける。当時枝直の地所の一角に家を構えていた賀茂真淵に入門する。町奉行組与力勤方見習、奉行所吟味役与力などの公務につき、田沼意次の側用人まで務めたのち、天明8(1788)年に致仕している。官職としては下級幕臣に終始した。 千蔭の文人生活は致仕後に大きく結実した。在職中も歌人としての生活は順調であったが,晩年に至って江戸歌壇における名声はいよいよ高まった。真淵を師としたが、その万葉調にはなじまず、伝統的な歌風に江戸の繁華な風俗を織り込んだ独自の作風を樹立、折しも江戸文芸界空前の活況を呈した安永・天明期(1772~89)の雰囲気に似つかわしい都会派の和歌は大いにもてはやされた。親交を結んだ村田春海と並び称され、彼らおよびその門下を「江戸派」と呼ぶほどの勢力を持つ。幕臣仲間で天明狂歌の立役者だった四方赤良こと大田南畝の初の狂歌選集『万載狂歌集』に橘八衢の名で跋を寄せた点に、天明期の雅俗文芸の融合の様をみることができる。 晩年はまた国学者として『万葉集略解』を完成させた。これは今に至るまで万葉集の主要注釈のひとつとされている。また歌人としては、江戸のみならず京坂の文人とも交渉を持った。富小路貞直や賀茂季鷹との関係は特筆に価する。また、香川景樹の和歌に対しては強烈な対抗心を燃やしていた。『筆のさが』に千蔭の見解が率直に語られ興味深い。ほかに著作として歌文集『うけらが花』、歌論『答小野勝義書』などがあるが、歌壇の大家のわりにまとまった著作は乏しい。<参考文献>森銑三「加藤千蔭遺事」(『森銑三著作集』7巻),内野吾郎『江戸派国学論考』 (久保田啓一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)川上不白(かわかみふはく) (1716―1807)
江戸千家流の祖。紀州(和歌山県)新宮(しんぐう)藩(水野家)の藩士川上五郎作の次男。茶道に志し、1734年(享保19)如心斎千宗左(じょしんさいせんのそうさ)に入門、高弟となる。大徳寺の大竜和尚(おしょう)に参禅し、宗雪と号す。不白は隠居後の号。41年(寛保1)、如心斎が弟又玄斎(ゆうげんさい)一灯宗室や大徳寺の大竜・無学和尚らとともに七事式(しちじしき)を制定した際、25歳でこれに参画している。茶湯正派を嗣(つ)ぐべき人物とされていたが、水野家の茶頭となり、50年(寛延3)江戸に下向、いわゆる江戸千家の祖となり、「天然(如心斎口授(くじゅ))」にあたった。73年(安永2)家督を宗引に譲り、号を不白と改める。文化(ぶんか)4年10月10日、91歳で没した。墓は東京・谷中(やなか)安立寺にある。[村井康彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
nice!(2)  コメント(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。