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琳派とその周辺(その五) [琳派とその周辺]

(その五)中村芳中『光琳画譜』所収「梅」「竜胆と蒲公英」「立葵」「芙蓉(又は「牡丹」)」
「鶏頭と朝顔」「菊」

梅・竜胆・葵・牡丹・朝顔・菊.jpg

中村芳中画『光琳画譜』所収「梅」「竜胆と蒲公英」「立葵」「芙蓉(又は「牡丹」)」「鶏頭と朝顔」「菊」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

 先に、下記のアドレスのもので、光琳の「白地秋草模様小袖」などついて触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-11

 また、下記のアドレスなどで、光琳と乾山との合作の「銹絵観鴎図角皿」などについて触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-30

 それらの「小袖」や「角皿」に描かれている「草花」や「花鳥」などは、いわゆる、応挙風の実在に迫る一元的な「写生」を基本に据えたものではなく、その素材や空間にマッチした「意匠化」と「写生」との二元化を基本に据えていると、応挙風の「写生」との関連性では言えるのかも知れない。
 そして、それらは、上記の「草花」を例にとると、「光琳梅(文・紋)」「光琳竜胆(文・紋)」「光琳菊(文・紋)」等々の「光琳」の二字が付されて、単に、装飾画の世界だけではなく、「書・漆器・焼物・染織・扇子・団扇」など様々な世界で応用化されて行く。
 そして、これらの世界の基本にあるのは、当時の絵画の主流の「狩野派」などの血縁や縁故関係で継承されていく世界のものではなく、それらの「光琳」(光悦・宗達・光琳と続く「琳派」)の「草花文(紋)」「花鳥文(紋)」に共鳴した者が、自分の創意工夫で、独自に作り上げていく世界でもある。
 その典型が、この中村芳中の、この『光琳画譜』収載の多色摺り木版画などが挙げられよう。芳中は光琳と何らの関係もない。ただ、光琳に魅せられて、光琳が好んで用いる主題・図様・技法を芳中流に掴み取って、それを繰り返し、繰り返し、色紙・短冊・扇子・団扇などに、求めに応じて制作し続けたということなのであろう。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の六図(算用数字は登載番号)

4「梅」→ 「光琳梅」は、光琳模様の代表的なものである。

梅.jpg

5芙蓉(又は「牡丹」)→ 「芙蓉」と題するものと「牡丹」と題するものがある。「花卉図画帖」(細見美術館蔵)の「八月 芙蓉」に近い。

芙蓉.jpg 

7竜胆と蒲公英 → 「花卉図画帖」(細見美術館蔵)では、「三月 蒲公英」「十一月 竜胆」である。

竜胆と蒲公英.jpg

10立葵 → 「扇面画帖」(細見美術館蔵)の「立葵」に近い。

立葵.jpg

15鶏頭と朝顔 → 「扇面画帖」(細見美術館蔵)では、「鶏頭」は単独.

鶏頭と朝顔.jpg

21菊 → 「菊」の別名は「百々世草」(神坂雪佳の木版画集がある)。

菊.jpg

(参考二)光琳模様(こうりんもよう)
狭義に解釈すれば尾形(おがた)光琳(1658―1716)が描いた模様をさすが、一般にはその作風を踏襲した琳派およびその亜流の模様をも含めていう。写生風でありながらこれを超脱し、流麗な線と瀟洒(しょうしゃ)な色彩で独特の装飾美を生み出した光琳の模様は、彼の生前からすでに世に喧伝(けんでん)されていた。しかも1727年(享保12)刊の『美女ひなかた』の序に「珍らかな模様を光琳の筆に染め……」とあるから、彼の死後もその流行は衰えることなく、かえってますます世人の渇望するところとなったことがわかる。光琳模様という概念も、このころから確立したものと思われる。ちなみに、18世紀前半期に刊行された小袖雛形(こそでひながた)から、光琳模様の名称を取り上げてみると次のようなものがある。光琳きく「天の橋立」1727年(享保12)。光琳杜若(かきつばた)、光琳梅、光琳菊「染色の山」1732年(享保17)。光琳渦水「音羽の滝」1737年(元文2)。光琳桔梗(ききょう)「三千風」1745年(延享2)。光琳水「都の春」1747年(延享4)。光琳松「滝の流」1755年(宝暦5)。[村元雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
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