SSブログ

琳派とその周辺(その六) [琳派とその周辺]

(その六)中村芳中『光琳画譜』所収「六歌仙」「蝦蟇と鉄拐」「渡舟」「貴人渡橋」「竹林七賢」「富士」

六歌仙・蝦蟇・渡舟・渡橋・七賢人・富士.jpg

中村芳中画『光琳画譜』所収「六歌仙」「蝦蟇と鉄拐」「渡舟」「貴人渡橋」「竹林七賢」「富士」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

 中村芳中が江戸に出て、『光琳画譜』を出版したのは、享和二年(一八〇三)のこと、そして、酒井抱一が、「光琳百回忌」を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、抱一、五十五歳の時である。
 芳中の年齢は定かではないが、無二の朋友、青木木米より五歳程度年長と仮定すると、宝暦十ニ年(一七六二)生まれとなり、抱一の宝暦十一年(一七六一)生まれと、ほぼ、同一年齢となって来る。
 しかし、抱一は、姫路藩主酒井雅楽頭忠恭の三男忠仰の第四子(次男)として、江戸(東京)神田小川町の酒井家別邸で誕生している、名門大名家の御曹司なのである。それに比して、芳中の出自は全く不明で、芳中の名が出て来るのは、寛政二年(一七九〇)の『浪華郷友録』に画家として紹介されているのが初出である。
 芳中は、京都の生まれで、二十代の半頃までは、京で絵の修業をしていたと推測されているが(池大雅門?)、寛政二年(一七九〇)以前の芳中については、全く知られていない
(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』)。
 この二人は、早い時期から、俳諧(連句)の世界を知ることになるが、芳中のそれは、これまた、そのネットワークは不明であるが、抱一の方は、安永六年(一七㈦七)、十七歳時の「略年譜」に、「六月一日、抱一元服。この頃、馬場存義に入門し俳諧を始める」と、当時の江戸座の大宗匠、馬場存義門で、存義の門人の一人として、「門人に花裡雨・抱一・月成らがおり、蕪村ら巴人門人との交流が知られる。二世存義は泰里が継いだ」(『俳文学大辞典』)と、俳諧史上にも、その名が刻まれている。
 事実、寛政八年(一七九六)、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を編集発行。四月、鈴木其一生まれる」と、抱一の実質上の後継者の鈴木其一が生まれた年に、江戸座の俳諧宗匠の一人として、その名をとどめている。
 その翌年(寛政九年=一七九七、三十七歳)に、「十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家する。『等覚院文詮暉真』の法名を名乗る。京都へのお礼旅行のため十一月三日に出発、しかし西本願寺御門跡には会わず、十二月十四日、江戸に戻る。年末、千束に転居。この年、『庭拍手』が初出。」とある。
 この抱一の出家は、名門酒井家の御家事情に因るもので、抱一自身としては内心は鬱積したものがあったことであろう。これにより、抱一は武家としての身分から解放され、「権大僧都(ごんだいそうず)」という名誉ある称号と共に、隠士として市中で絵画と俳諧などを主軸とした生活へと方向転換をする。
 この翌年(寛政十年=一七九八、三十八歳)に、「二月頃、『軽挙館句藻』に抱一号初出。」と、『軽挙館句藻』という名の句集を編み、そこで、終世の号となる「抱一」の号を用いることになる。すなわち、「抱一」という号は、不惑の年を間近にして、第二の人生を歩む、その決意表明の意が込められているのであろうが、そもそもは、俳号の一つだったのである。
 さらに、寛政十二年(一八〇〇、四十歳)時に「『住吉太鼓橋夜景図(橘千蔭賛)』を制作。」とあり、次の作品を今に遺している。

抱一・住吉太鼓橋夜景図.jpg

酒井抱一(庭拍手)画「住吉太鼓橋夜景図」一幅 紙本墨画 八〇・七×三二・二㎝
個人蔵 寛政十二年(一八〇〇)作
【 簡略な太鼓橋、シルエットで表される松林、雲間から顔を覗かせた月、いずれもが水墨のモノトーンで描写されるなかで、「冥々居」印の鮮やかな朱色が画面を引き締めている。「寛政庚申林鐘甲子」の落款は、一八〇〇(寛政十二)年六月十三日の制作であることを語る。橘千蔭の賛は、「あきのよのそらゆく月もすみの江の あらゝまつはらさやににみえけり」。古歌には見当たらず、千蔭自身の作か。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一と橘千蔭(仲町啓子稿)」)

 この抱一と関係の深い、先に、下記のアドレスで紹介した「加藤千蔭」こそ、この「橘千蔭」その人であり、その千蔭が、大阪から江戸出て来た芳中の、『光琳画譜』に、その「序」を草している。その「跋」を草した、川上不白もまた、抱一とは深い関係にある一人なのである。
 これらの、加藤(橘)千蔭、そして、川上不白の関係からして、同じ、私淑する尾形光琳を介して、相互に、何らかの啓発し合う、何らかの関係し合う文化人ネットワークの二人であったという思いを深くする。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-14

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の六図(算用数字は登載番号)

3「六歌仙」→宗達以来の「琳派」の主要な画題。芳中は蕪村の俳画に近い。

六歌仙.jpg

6蝦蟇鉄拐 →「漢画」「文人画」(南画)の古典的な画題だが、これまた俳画の趣きである。

蝦蟇鉄拐.jpg

9渡舟 → 「琳派」の「王朝・公家もの」の画題だが、渡し守の仕草が可笑しい。

渡し舟.jpg

12竹林七賢 → 「漢画」「文人画」(南画)の古典的な画題だが、何か「挿絵」の一コマのような感じを受ける。

竹林七賢.jpg

13富士 →『伊勢物語』の「東下り」の「富士と松」の雰囲気だが、特定はできない。

富士.jpg

20貴人渡橋 → 「琳派」の「王朝・公家もの」の画題だが、芳中のは「滑稽味」がある。

貴人渡橋.jpg

(参考二)酒井抱一(さかいほういつ)
没年:文政11.11.29(1829.1.4)
生年:宝暦11.7.1(1761.8.1)
江戸後期の琳派の画家。名は忠因。号は抱一のほかに庭柏子、鶯村など。俳号は杜綾。狂名は尻焼猿人。姫路城主酒井家の次男として江戸に生まれる。寛政9(1797)年剃髪し等覚院文詮暉真と称し、文化6(1809)年暮れには、のちに雨華庵と名付けた画房を根岸に営んだ。若いころから多趣味多芸であったが、薙髪隠居後は特に風雅の道に専心し、文化人とも広く交遊する。絵は狩野派ややまと絵のほか、歌川豊春風の浮世絵美人画,新来の洋風画法、沈南蘋風の絵画、さらには京都の円山・四条派や伊藤若冲、尾形光琳などの画法に習熟した。なかでももっとも大きな感化を受けたのは、30歳代終わりから私淑した尾形光琳からで、文化12(1815)年光琳の百回忌を営み、『尾形流略印譜』や『光琳百図』を出版するなど、数々の光琳顕彰を行うと同時に、華麗な装飾画法を瀟洒にして繊細な江戸風に翻案し、優美ななかにも陰影に富んだ江戸風琳派を完成した。また文政6(1823)年尾形乾山の墓を発見し『乾山遺墨』も編んだ。代表作の「月に秋草図屏風」(個人蔵)、「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)、「十二ケ月花鳥図」(御物)などは、いずれも60歳代の作。終生俳諧を好み、洒落た俳画も得意とする。『軽挙館句藻』は俳諧日誌。句集『屠竜之技』(1813)と俳画集『鶯邨画譜』(1817)を刊行している。<参考文献>山根有三ほか編『琳派絵画全集 抱一派』 (仲町啓子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)光琳百図

http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200010562

(参考四)馬場存義(ばばぞんぎ)
703-1782 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)16年3月15日生まれ。2代前田青峨にまなぶ。享保(きょうほう)19年俳諧(はいかい)宗匠となり,存義側をひきいて江戸座の代表的点者として活躍した。与謝蕪村(よさ-ぶそん)とも交友があった。天明2年10月30日死去。80歳。江戸出身。別号に泰里(たいり)、李井庵、有無庵、古来庵。編著に「遠つくば」「古来庵句集」など。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。