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琳派とその周辺(その八)「蕪村ほか諸名家合作図」 [琳派とその周辺]

(その八)「蕪村ほか諸名家合作図」(蕪村「漁夫図」・芳中「鶴図」など)

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「蕪村ほか諸名家合作図」(「柿衛文庫」蔵)(『没後220年蕪村(逸翁美術館・柿衛文庫編)』
所収「柿衛文庫 作品35」)
【 蕪村の漁夫図に周挙(暁台)が加賛したものを中心として、大田南畝・張月樵ら天明期の俳人・歌人・文人・画家が次々に加筆して享和三年にこの大幅と成ったもの。謝寅落款より、蕪村の画は安永末期のものと推定。原箱蓋裏に「享和三年発亥仲春玄谷騰元曷鑑定」と墨書する。 】)(『没後220年蕪村(逸翁美術館・柿衛文庫編)』所収「柿衛文庫 作品35」)
【 蕪村の漁夫図に周挙(暁台)が賛を加え、後に大田南畝や張月樵ら俳人や画家たちが賛や画を書き加えて成った作品がある(指図3)。そこに芳中は鶴を描いて蕪村との共演を果たしている。 】(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「芳中画の魅力『光琳風』が示すもの(福井麻純稿)」)。

 上記の「蕪村ほか諸名家合作図」は、『蕪村全集六 絵画・遺墨編』にも収載されていない、おそらく、蕪村と親交のあった尾張(名古屋)の俳人・加藤暁台や井上士朗からの資料の一つのように思われる。
 『没後220年蕪村(逸翁美術館・柿衛文庫編)』所収「柿衛文庫 作品35」の翻刻文などを参考にして、「蕪村・暁台・士朗・月樵・南畝・芳中」などのものを見て行くと、概略、次のようなことになる。

一 蕪村の画と賛(「釣竿を持っている人物画」と「謝寅書」)は次のとおり。

 「得魚尋常 事沽酒入蘆中 謝寅写 (「趙」印)(「大居」印)

蕪村・漁夫図.jpg

与謝蕪村筆「漁夫図」紙本淡彩 一幅  個人蔵 (『蕪村全集六 絵画・遺墨編』所収「3 漁夫図」→「蕪村の結城・下館時代の作」→三十歳前後の蕪村の初期作品)

 上記の「漁夫図」は、延享二年(一七㈣五)、蕪村、三十歳前後の作であるが、それ以来、蕪村は、この種の「漁夫図」をいろいろと遺している。そして、冒頭の「蕪村ほか諸名家合作図」の「漁夫図」は、「謝寅」書きの作品の一つで、暁台らと芭蕉忌追善の俳諧を興行した安永三年(一七七四、五十九歳)の頃のものであろう。
 これらに関して、下記のアドレス(「蕪村の書簡」)で、「蕪村・暁台・士朗」らの交遊について、先に触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-28

二 暁台(周挙)の賛(俳句)→「漁夫図」(蕪村)の左側のもの。

  冬の日や筌(いけす・うけ)にしつむ魚の息  周挙(暁台) (印) (印)

 蕪村と暁台との交遊については、上記のアドレスに続く、次のアドレス(蕪村書簡)でも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-29

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-30

三 士朗の賛(俳句)と画(不尽=富士→士朗の作か?)→「暁台」の左側の俳句

  月と日の間に澄(すめ)り不尽の山  朱樹士朗写併(ならびに)句

 この「蕪村ほか諸名家合作図」の上部の「富士」の図は、上記の落款からすると、士朗の作と解したい。この井上士朗は、暁台の高弟の一人で、上記のアドレスで紹介したように、
暁台をして、【「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。】と、暁台を実質的に継承している、この享和三年(一八〇三)当時の、大物の俳人の一人で、後に、江戸の鈴木道彦、京都の江守月居と並んで寛政の三大家と称せられることになる。

四 清狂の画(「芦叢の中の舟の漁夫図)(?)→ 士朗の「天」(上部)の「富士」の図に対する「地」(下部)の「画(芦叢の中の舟の漁夫図)」は、当時の尾張画壇の「蕪村に私淑している」画人の一人の、「西村清狂の画」と解したい。

 西村清狂(「参考十」)については、今では、「蕪村・月樵・芳中・暁台・士朗」らに比すると、名が知られていない画人であるが、年齢的には、蕪村よりも十二歳年下、暁台よりも五歳年長で、当時の尾張画壇では最長老のような存在であったのだろう。
 この清狂は、寛政六年(一七九四)に没しており、この寛政六年(一七九四)時には、この「蕪村ほか諸名家合作図」は、殆ど出来上がっていて、後に、その余白に「賛」や「画」を加えたのは、「南畝(賛)」「月樵(画)」「芳中(画)」で、その加筆したのが、南畝の賛(漢詩)の下の、「発亥仲春玄谷謄元曷」なのかも知れない(なお、下記の「十」を参照)。

五 南畝の賛(蕪村の賛に対応する南畝の賛) → 「清狂」の画の上

  滄浪之水 清兮 
  可以濯我 纓

 大田南畝は、享和元年(一八〇一)に、大坂銅座に赴任して、この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で、一時止めていた狂歌を再開している。その大坂滞在中に、蕪村そして芳中とも親交のあった木村蒹葭堂や蕪村の知己の上田秋成らと交流している。
 一方、芳中は、寛政十一年(一七九九)に、江戸へ向け出発している(『蒹葭堂日記』に「昼後芳中餞別行(九月十三日)」)。そして、その年の年譜に、「尾張に立ち寄り書画を描く(『金蘭帖』十月二十四)。十二月、江戸到着、成美を訪問、道彦宅の裏に滞在する(『金蘭帖』十二月八日)」とあり、途中で尾張に滞在している。そして、江戸到着後は、直ぐに、大物俳人の、夏目成美と鈴木道彦を訪ねている。この江戸の成美・道彦と尾張の井上士朗とは旧知の間柄である。
 この江戸下向の時に、尾張に立ち寄った先は、当時の尾張俳壇の雄であった士朗の所とする見方も成り立つであろう。その芳中は、享和二年(一八〇二)に「(同二月二十日)一時帰坂していたか」と、一時帰坂していたようである。
 そして、その年の年譜に「大田南畝『帰郷集』に記述あり『芳中牽牛花 朝々何所見 黒丑著花新 満籬延翠蔓 抽走入比隣』」と、南畝と芳中との何らかの出逢いがあったように思われる。この年に、江戸で『光琳画譜』を刊行し、その翌年の享和三年(一八〇三)に、「蕪村画(安永末)・暁台加賛俳画に『飛鶴図』を加筆」と年譜にあるものが、冒頭の「蕪村ほか諸名家合作図」ということになる。
 その上で、この南畝の漢詩の賛は、大阪から江戸へ帰郷する時に、その途中で尾張の士朗邸を訪ねた折のものと解したい。

六 芳中の「飛鶴図」 → 中央の「鶴二羽」(「蕪村画と賛」と「南畝賛」の上部のもの)

 それにしても、小さな「飛鶴図」である。これは、その右下に描かれている「山並み図」(月樵作)対する「飛鶴図」(芳中)という雰囲気である。

七 月樵の「山並み図」 → 南畝の漢詩の賛の上、芳中の鶴図の右下側

 月樵(参考四)は、蕪村門の高弟・呉春(松村月渓)門の一人とされているが、より応挙門(芦雪と交友関係あり)に近く、「尾張円山(応挙)・四条(呉春)派」の画人ということになろう。安永元年(一七㈦二)の生まれで、恐らく、芳中よりも年下であろうが、芳中とは同じ京都の生まれで、相互に、共感しあう画人同士であったという思いを深くする。

八 龍道人の賛(長文の漢詩?)→ 右上の「上空に記載されている賛」

 性古来今天墜
 四方者心之影  
 響也故日妙画
 者無蹟真画者
 写心是以山河
 大地艸木国土
 者成是一念上
 露現画図也
  六十四翁亀岳龍道人 (印)(印)
 
 この長文の漢詩を賛した「瀧道人」とは、当時の尾張の高僧「龍霊瑞」(参考五)のもののようである。

九 「蘆竹斎」の歌(狂歌?)→ 「蕪村の『画と賛』」の右側の「歌」

  たのしみは老を養ふ酒さかな
  めてたかりつる千代のいとなみ  蘆竹斎 (印)(印)

十  発亥仲春玄谷謄元曷 → 南畝の賛(漢詩)の下 → 原箱蓋裏の「享和三年発亥仲春玄谷謄元曷 → 上記の(四)を参照。

(参考一)与謝蕪村(よさぶそん)
没年:天明3.12.25(1784.1.17)
生年:享保1(1716)
江戸中期の俳人、画家。俳号として別に夜半亭、落日庵、紫狐庵など。画号は長庚、春星、謝寅など。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。本姓は谷口氏と伝えられるが、丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち、与謝の姓を名乗る。20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが、巴人没後、結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り、約10年にわたり常総地方を歴遊する。宝暦1(1751)年、36歳のとき上京、その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが、京都を定住の地と定めてこの地で没した。この間、明和7(1770)年、55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが、画業においても、53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており、画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。池大雅と蕪村について、能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代、覇を作すの好敵手」と述べている通り、早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。俳諧はいわば余技であり、俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく、趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。 死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが、生き方にならおうとはしなかった。芝居好きで、役者や作者とも個人的な付き合いがあり、自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。小糸という芸妓とは深い関係があったらしく、門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく、郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。<参考文献>森本哲郎『詩人与謝蕪村の世界』,尾形仂『蕪村自筆句帳』,清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』,山下一海『戯遊の詩人与謝蕪村』 (田中善信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考二)加藤暁台(かとうきょうたい)
没年:寛政4.1.20(1792.2.12)
生年:享保17.9.1(1732.10.19)
江戸中期の俳人。名は周挙。通称は平兵衛。別号、他朗、暮雨巷など。名古屋の人。実父は尾張藩士岸上林右衛門。同藩士加藤仲右衛門の養子となる。17歳で尾張徳川家に出仕し、28歳のときに致仕。俳諧は武藤巴雀・白尼に師事し、尾張徳川家致仕後に独自の活動を示す。『蛙啼集』(1763)で暮雨巷暁台を名乗り、『姑射文庫』(1768)刊行に至り、門下は充実する。さらに『秋の日』(1772)を出版。与謝蕪村門の選集『あけ烏』に「既に尾張は五歌仙に冬の日の光を挑んとす」と紹介されるごとく、『秋の日』は蕉風復古運動の嚆矢として評価を得た。暁台の蕉風復古は、明和7(1770)年の『おくのほそ道』のあとを辿った『しをり萩』の旅に顕著である。さらに注目すべきは、仙台の丈芝坊白居を伴って京に上り、かねて文通のあった与謝蕪村と親しく交わったことである。ここにおいて活動は鮮明な方向を示し出し,『去来抄』『熱田三歌仙』(ともに1775)を世に紹介するに至る。 以後,越後出雲崎の旦水、江戸の大島蓼太、仙台の白居のところに足を運んだりした。安永7(1778)年から9年にかけて京に何回か上るが,蕪村との交流は以前ほど親密ではない。天明2(1782)年には江戸の方へ足を運び、東北、北陸までの旅行を企画したが、雪の山中に難渋して断念。この関東地方行脚時に興行した芭蕉忌奉財の俳諧を収めて、『風羅念仏』を刊行。翌年には,湖南幻住庵(義仲寺)、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3カ所で,芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。それらをまとめて,『風羅念仏』法会の巻を刊行。暁台の作品は、蕉風復古を志してより、高雅な詩趣を示すようになる。和歌的優美さや繊細さに特徴がある。芭蕉の作品を翻刻、紹介したこと、仮名詩を多く詠んだことも、特筆すべき実績といえる。<参考文献>山下一海『中興期俳諧の研究―暮雨巷暁台―』,伊藤東吉『暁台の研究』 (楠元六男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)井上士朗(いのうえしろう) (1742―1812)
江戸後期の俳人。姓は井上。本名正春。初号支朗。別号枇杷園(びわえん)、朱樹叟(しゅじゅそう)。尾張国(おわりのくに)(愛知県)守山生まれ。名古屋の町医者の井上家を継ぎ、産科医として評判が高かった。国学を本居宣長(もとおりのりなが)に学び、ほかにも漢学、絵画、平曲をよくした。俳諧(はいかい)は暁台(きょうたい)に学び、その門の筆頭として重んじられて、他派にもよく知られ、江戸の道彦(みちひこ)、京都の月居(げっきょ)と並んで寛政(かんせい)の三大家とよばれた。文化(ぶんか)9年5月16日没。俳風は温雅平明で、とくに連句を得意とした。数多い編著は『枇杷園七部集』全5編にまとめられている。文集に『枇杷園随筆』、句集に『枇杷園句集』『枇杷園句集後編』がある。
 足軽のかたまつて行くさむさかな[山下一海]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について

(参考四)張月樵(ちょうげっしょう)
没年:天保三年六月二十二日(一八三二)
生年: 安永元年(一七七二)
名は行貞、字は元啓、通称は晋蔵、後に快助と更む。月樵は其号、別号に醉霞党の号あり。張氏は張振甫の家より貽られしものと云ふ。京師の人なり。夙に画を好み、市川君圭、松村呉春に就いて学び、後京に出でて舟溪の門に入る。依つて月樵と号す。最も花鳥人物を善くす。清人陳南溪の風を慕ひて自ら一家を為す。十七八歳の頃東雲と共に名古屋に来り、桜之町霊岳院に寓居す。後に山田宮常の旧居を継ぐ。即ち富士見の西側小閭の中に在り。其家牀を施す地より高き六尺許り。月樵此に坐して以て揮毫す。画名漸く播く、求むる者踵を接す。遂に機材山積するに至る。文政の大火に此家災に罹り、後に米屋横町に移る。月樵風韻清疎、飲酒三斗、世路を染まず。後藩命を受けて、城内の杉戸・襖等に描き、終に用人支配となり、帯刀を許さる。天保三年六月二十二日没す。享年六十八。張山月樵と諡す。長子月戴家を継ぐ。六十八歳。(名古屋市史)
 墓碑銘は「張山月樵居士」。

http://soutairoku.com/01_soutai/04-2_ti/08-5_yo/owari_tyou/tyou_gessyou.html

(参考五)龍道人 → 龍霊瑞=龍道人→名古屋の「近世稀有の碩徳( 徳の高い名僧)」
の一人。

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180821102012.pdf?id=ART0007366308

(11)一字号であった龍霊瑞
(前略)万松寺ニ十三世を始め市内寺院に住持した龍霊瑞は墨跡及び落款から、号は龍の一字のみであった。(中略)出家して江戸へ遊学した折、しばしば龍の夢をみた。 母と同じ龍の夢をみたことから、自ら龍道人と号するようになった 。(後略)

(参考六)大田南畝(おおたなんぼ)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

(参考七)中村芳中(なかむらほうちゅう)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-11

(参考八)蘆竹斎 → 名古屋の歌人(狂歌作者)か? → 未詳
(参考九)玄谷謄元 → 井上士朗と同じく名古屋の医家か? 未詳

(参考十)西村清狂(にしむらせいきょう)
没年:寛政六年十二月十一日(一七九四)
生年:享保十二年(一七二七)
名は百春、字は子芳、俗称は鑢屋清兵衛、清狂は其号にして、別に糟百春・千壽・酒民等の号あり。城南御園町に住す。幼より画を好み、習字に通ふの旁ら画を事とし、紙盡くれば朋友の法帖を奪ひて其余日に描くに至る。長ずるに及んで画法大に進み、而かも師家なくして自ら一機軸を出す。人と為り風流酒落、頗る池無名の人と為りに類す。性酒を好み、興に乗ずれば壺を携へて屋に登り、自ら飲み自ら楽む。松平掃部頭勝長画を好む。機材を邦内の名画者に下して、之をして描かしめて其技を試む。是に於て皆争ひて画を獻ず。清狂独り三年に及んで、叡ぜず。勝長人を遺はして之を問ふ。清狂始めて其遺忘せるに驚き、画成つて之を獻ず。勝長鑒賞して曰く、我れ未だ甞て雅致此の如きものを見ずと。因つて召見し画を其前に命ぜしと云ふ。甞て雅客城南長福寺に会し、書画の筵を開くや、清狂も亦与かる。期に及んで欣然として襪材を擁して往く。途友人の門前を経、入つて其事を語る。友人起酒す。清狂酣飲、時の移るを覚えず。既にして辞して出で、其所に抵れば日暮れ、会散し[門貝]として人無し。清狂乃ち還る。其拘らざる此の如し。安永十年正月出版の春興の一帖に、謝庵・東甫等と婦人画・梅園を出せり。嘉言の居を般若台に移すや、清狂戯に移居の図を作る。嘉言請うて之を其巻末に加へ、其上に題して「先生筆意新奇。墨韻飄逸。固非俗工之所及也」と云へり。清狂の画は小景の山水及び人物に得意にして、又狂画に妙なり。年六十八で没した。(名古屋市史)
 墓碑銘は「風雪清狂居士」。

http://soutairoku.com/01_soutai/05-2_ni/03-2_si/nishimura_seikyou/nishimura_seikyou.html

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