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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二 尺八(抱一の「尺八図」と「尺八之句」関連)

尺八一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「尺八図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』には、「尺八」の句は見当たらない。酒井抱一俳画集『柳花帖』に、次の一句がある。

14 浴衣図  紫陽花や田の字つくしの濡衣 

 この句は、『屠龍之技』では、「江戸節一曲をきゝて」の前書きが付して収載されている(句形は「紫陽花や田の字盡しの濡ゆかた」)。
 この「江戸節」とは、「江戸浄瑠璃のうち、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)の肥前節、江戸半太夫の半太夫節、十寸見河東(ますみかとう)の河東節の三流」をさしてのもののようであるが、抱一の時代ですると、「河東節」ということになろう。
 それは吉原文化と深い関わりをもつもので、豊後節や常磐津節が人気を博するようになると、河東節は吉原などのお座敷での素浄瑠璃として、江戸通人や富裕層に愛好されるように様変わりしてくる。
 抱一は、酒井雅楽頭家の次男坊で、長兄(忠以)が二代目姫路藩主になり、参勤交代の折りには、忠以の仮養子となり江戸の留守居を仰せつかっている。しかし、抱一、十七歳時に、忠以に、長男忠道が誕生し、抱一の仮養子願いが取り下げられると、酒井家における抱一の立場は微妙となってくる。
 その酒井家における、いわば身の置き所が無いような抱一の二十歳代に、抱一は吉原(台東区千束)を舞台にして、俳諧(馬場存義門)、狂歌(大田南畝・四方側狂歌連)、浮世絵(歌川豊春系)、洒落本(北尾政演=山東京伝画「手拭合」「吾妻曲狂歌文庫」など)等の世界で、「絵に文学に才覚ある酒井家の御曹司」として、それらの世界のスターダムの一角を占めるようになってくる。

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。

抱一上人.jpg

鏑木清方筆「抱一上人」絹本著色/三幅のうち中幅/四〇・五×三五・〇㎝/「永清文庫」蔵/明治四十二年(一九〇九)作
【 鏑木清方(一八㈦八~一九二七)は、随筆中でもよく抱一に触れ、その画風や生き方に共感を示した。三味線をつま弾く抱一を中央に、作画の支度をする遊女と禿を左右に配した三面構成の本図は、まさに清方の思い描いた抱一像。連日吉原に通った抱一の粋人ぶりをよく捉えている。清方はほかに「雨華庵風流」「雨華庵風流下絵」で抱一の肖像を手掛けており、度々抱一像に取り組んだ。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「描かれた抱一像(岡野智子稿)」)

 江戸琳派の創始者・酒井抱一の世界は、まさしく、北尾政演(山東京伝)が描く「尻焼猿人」の有髪の伊達男・抱一と、後代の鏑木清方の描く「等覚院文詮暉真」こと「抱一上人」との、この狭間の世界であるということを思い知る。

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 
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