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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十九)  [酒井抱一]

その十九 江戸の粋人・抱一の描く「その九 吉原月次風俗図(九月・干稲)」

干稲二.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」
【九月(干稲)
吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

     京町あたりの奥座敷からさしのぞけば
   鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

 この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と
加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

【 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、初めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな♪」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ここに出て来る大文字屋の初代楼主・(村田)市兵衛は、安永九年(一七八〇)、抱一が二十歳の時に亡くなっている。抱一と親交の深かったのは、跡を継いだ二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)で、大田南畝(狂歌名・四方赤良)、そして、吉原出身の版元・蔦屋重三郎(狂歌名・蔦唐丸)と昵懇の間柄で、吉原の狂歌連(グループ)の中心的な人物であった。
 そして、その二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)の跡を継いだのが三代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<二世>、画号に加保茶宗園)で、この三代目は抱一の門人
で、江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でているという多芸多才の人物であった。
 抱一が、狂歌名・尻焼猿人で、蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画)に登場するのは、天明六年(一七八六)、二十六歳の酒井家部屋住みの頃である。
その酒井家部屋住みの抱一が、自前でこれらの吉原の狂歌連に出入りし、そして、自前で吉原遊郭内での遊蕩三昧の日々を送るなどということは土台有り得ないことであろう。その背後には、吉原の三代にわたる妓楼・大文字屋(楼主・村田市兵衛、狂歌名・加保茶元成)、特に、二代目加保茶元成(狂歌人としては一世)が、そのパトロン(支援者)として控えていたということであろう。
そして、その加保茶元成の背後に控えている大立者が、蔦唐丸(蔦屋重三郎)と四方赤良(大田南畝)の御両人ということになる。

吉原大通会二.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

(『吉原大通会』関連)
https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(メモ)

※恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。
江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 この恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)『吉原大通会』は、天明四年(一七八四)、抱一が二十四歳の時に刊行された。その二年後の天明六年(一七八六)に刊行された『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、蔦屋重三郎版元)の、その天明狂歌壇の名手五十人中の、その冒頭に、抱一は、狂歌名・尻焼猿人の名で、その狂歌と肖像画が掲載されたことなどについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03

 その『吾妻曲狂歌文庫』中の、その天明狂歌壇を代表する五十人の中に、上記の『吉原大通会』の、その十三名の中で、※印を付している方(七名)は収載されている。また、△印を付している方(三名)も、『徳和歌後万歳集』(天明五年=一七八五)には十首以上の狂歌が収載されている。
 残りの三名の方は、一人は蔦唐丸(蔦屋重三郎)で、もうお二人の「大原久知為・酒盛入道常閑」も、いわゆる、天明狂歌の三大家「四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘州」を中心とする「天明狂歌壇」の中で、別号などでよく知られている方のように思われる。
 そして、この十三人の中で、いわゆる、松平定信が断行した「寛政の改革」により弾圧された方が、「酒上不埒(恋川春町)・蔦唐丸(蔦屋重三郎)・四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・平原屋東作(平秩東作)」と多く、その他の方々も、何らかの余波は受けていることであろう。
 さらに、この『吉原大通絵』の主人公として登場する「すき也」こと、「手柄岡持(朋誠堂喜三二)」は、秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)で、その前任者(天明三年=一七八二・五月交代)が、「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。
 この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。
 そして、その佐藤晩得は、吉原で、その俳号を捩っての「朝四大尽(ちょうしだいじん)」と呼ばれ、この『吉原大通会』では、次のクライマックスの場面で、登場しているようである。

吉原大通会・荻江節.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。
 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。
 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通
人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。
 これらのことに関連し初代荻江露友について、下記のアドレスで次のように記述している。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

【初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。】

鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」
   稲懸けて里しづかなり後の月     蓼太「蓼太句集」

 季語の「十三夜」は「後の月」(晩秋の季語)、子季語として「名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵」など。語意は「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」
 抱一の句と同じ視点(「田・干稲と十三夜」と「干稲・里と後の月」)の句として、蓼太の句(「稲懸けて里しづかなり後の月」)などが上げられよう。
 抱一の句の句意は、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的には、「十三夜の頃になると、鷹も山よりも稲懸けの田が点在する里の方が居馴染んでいるようで、よく見掛けるようになる」というようなことであろう。
 しかし、前書きの「京町あたりの奥座敷からさしのぞけば」や、この賛のある画の「干稲」などからのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的な句意は、下記のように大きな広がりを有してくるであろう。
そして、この「鷹」には、部屋住み時代の抱一が、吉原という「士農工商の身分的差別もなく、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)=公界での交遊・交友の場、そして、そのネットワークの広がり、さらに、新興都市『江戸』の新しい文化の息吹き(浮世絵・文人画・黄表紙・滑稽本・狂歌・俳諧・川柳・歌舞伎・音曲等々)の発信地」での、その切磋琢磨した「遊客」(粋人・通人)の、それらのイメージが隠されているものと解したい。
具体的には、上記で縷々触れてきた『吉川大通会』の、「狂歌通人」(恋川春町・蔦唐丸・加保茶元成・四方赤良・手柄岡持・大屋裏住・腹唐秋人・元木綱・朱楽菅江・紀定丸・平秩東作・大腹久知為・酒盛入道常閑)、そして、「荻江節通人」(荻江露友・佐藤朝四・柳澤信鴻・山東京伝)などのメンバーである。
とすると、この抱一の句のコノテーション的な句意は次のとおりとなる。

「この懐かしい吉原京町・大文字屋の二階の奥座敷から、十三夜の後の月と、その月光の下に広がる干稲などを見ていると、ここで過ごした懐かしい面々の面影が過って来る。既に他界している方が多いが、思い起こせば、寛政の改革などで命を絶った方、筆を断った方、財産を没収された方、手鎖の刑に処せられた方、左遷された方等々、それぞれが、この里の鷹のように、それぞれの土地で、思い思いに、今頃は、居馴染んで過ごしていることであろう。」

(追記一) 抱一をめぐる女性たち (『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

 抱一は部屋住みの身分の後、出家遁世したので正式な結婚をしたことはない。下谷大塚村の庵では、元大文字屋の遊女香川とも伝えられている小鶯女史(出家後の法名は妙華尼)と同居し、文政初めに酒井鶯蒲(おうほ)がその養子となったという。鶯蒲が抱一を「御父(トゝ)様」と呼んだので酒井家から窘められたというエピソードを朝岡興禎編著の『古画備考』巻三十五の鶯蒲の条は伝えている。鶯蒲は抱一没後、雨華菴を継承する。
 抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。   
 鏑木清方筆「抱一上人」(永青文庫)には、そんな女性に囲まれて遊里に耽溺する抱一のイメージが視覚化されている。左右の足のポーズにやや無理があるが、朱壁にもたれて三味線を弾く抱一の眼差しには、一抹の寂寥感が漂っている。
 
抱一上人.jpg

(鏑木清方筆 三幅対の中幅 縦四〇・五㎝ 横三五・〇㎝ 明治四十二年<一九〇九>
  永青文庫蔵 )


(追記二)抱一作「朝顔」(荻江節)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

見しをりのつゆわすられぬ、
あさがほのはなの盛は、
ももとせもかはらぬ今のかたみとて、
むかしかたりにあらばこそ、
見れば、
うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、
ひとよふた代ををなしなの、
あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、
花のおもか」

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」


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