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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(五) [抱一・四季花鳥図屏風]

その五 「四季花鳥図屏風」の左隻(冬)

四季花鳥図屏風冬拡大二.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(四~六扇・冬)部分拡大図」

「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「冬」(左隻・四~六扇)の絵図である。
 この右側(四扇)の上部は、前(三扇)の続きの「秋」の草花で、「紅葉した漆・葛と葛の花・篠竹」などが描かれ、その下部には、前(三扇)の続きの「水流・土坡」、その土坡の左方には「冬」の雪が積もり、その上に「水仙」が咲いている。その上部(五~六扇)に二層の雪を被った土坡、その雪間に赤い実をつけた「藪柑子」、そして、その雪を被った土坡の上部に、「白梅と鶯」と枯木の「榛(はん)の木」が描かれている。
 落款は「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」、印章は「雨華道人」朱文二重郭方印・「文詮」朱文瓢印である。この「文化丙子」は文化十三年(一八一六)で、その翌年の両年の年譜は、次のとおりである。

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作                 】

文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳
元日 百花園にて観梅。
▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。
五月、建部巣兆の句集『曽波可理』に序文を記す。
六月十七日、小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る。(御一代)
■六月二十五日、鈴木蠣潭没(二十六歳)。(君山君積宛書簡・御一代は七月没とする)浅草松葉町正法寺(現中野区沼袋)に葬られる。抱一、辞世の句を墓の墓石に記す。(増補略印譜・大観)
鈴木其一(二十二歳)、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む。(増補略印譜・大観)
十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」)

 この二か年の年譜記事から、次のようなことが判明してくる。

一 「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、抱一のパトロンの流山(常陸に隣接した下総=千葉県流山市)の富商・「君山君積」のために制作した作品である。この「君山君積」は、享和元年(一八〇一)の年譜にも、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する。(君山君積宛書簡)」に登場する。
これらのことに関連し、上記の二か年の年譜に出てくる「鵬斎・抱一・文晁」との交友などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-20

二 上記一の「君山君積宛書簡」関連では、文化十二年(一八一五)の年譜にも、「六月二
日、光琳百回忌、大塚村の庵居で法会を修し、付近の寺院で二日にわたり光琳遺墨展を開催。(君山君積宛書簡・雨華庵文庫・年譜考)」とあり、この「君山君積宛書簡」は、図68で紹介されている。その図録解説を下記に掲げておきたい。

【図68 酒井抱一 君山君積宛書簡 一巻 個人蔵
流山の富商、君山君積に宛てた五月十日の手紙で、文化十二年六月二日の光琳百回忌の展観の世話役を頼む内容である。自分が借り主となって故人の掛け物を百幅集めて展観したいので、是非是非世話人に就任して欲しい、そのため江戸へ一日も早く、遅くとも十五、六日までには来て欲しいと懇願している。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)

 なお、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)によると、この光琳百回忌の「光琳遺墨展」(「出品目録」、抱一自筆の手控えもので一部焼失して不明箇所あり)に、「一(?)・・・竪物紙本 君山」とあり、光琳の遺墨作品を、その目録のトップに記載され、出品しているようである。また、「十八 大黒小幅 当日返却 文晁」は谷文晁蔵のものであろう。「二十 竹 南瓜」と「二十九 福禄寿 南瓜」の「南瓜」は、抱一のパトロンの吉原京町大文字屋二代市兵衛(狂名加保茶元成)であろう。この「加保茶元成」などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

三 「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」については、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)に、「此年抱一大沢永之の為めに、妙法連華経観音菩薩普門一部を書す、永之之を印行して施本となす。永平寺愚禅和尚の序文、亀田鵬斎の跋文がある。ここで抱一と特殊の関係にあった大沢永之を紹介せねばならない。(以下、要約、尾形乾山の『紫翠』を号にしている。武州忍町行田の呉服商。江戸浅草茅町に別業に住し、その荘を『百花潭』と称す。その『百花潭』の額は抱一の書である。永之と抱一との交情は頗る厚く、抱一の事業を援けるところ多く、抱一もまた永之の為に製する作品が多い。又、抱一の鑑定に依って蒐集した光琳・乾山の作品を少なからず併蔵している。そして、それらを散せざるなど、稀有の名家である。天保十五年十月没、行年七十五。)
 さらに、此年の作品として、次の二点が記されている。

● 蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵
 文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房
● 四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵
   文化丙子晩冬      抱一写 於鶯邨画房

 上記の「蓬莱図」の所蔵者・大沢久三氏は、抱一のパトロンの大沢永之に連なる子孫の方
であろう。「四季花鳥図屏風」の所蔵者の神田鐳蔵氏は、昭和二年(一九二七)の抱一百年忌の展観当時の所蔵者であることについては、下記のアドレスで触れている。この作品の原所蔵者は、上記の文政十三年(一八一六)の年譜で、君山君積で、現在の所蔵者は陽明文庫であることも先に触れている。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

四 ここで、これらの作品を制作した「槃礴(はんはく)画房」の「槃礴」は、『荘子』田子方篇の「槃礴解衣(はんはくかいい)」(真にその道を得たものは外を粧はぬの意)に由来する「抱一の画房(アトリエ)」と「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」との両意があるものと解したい。そして、「鶯邨画房」は、「槃礴画房」と同じく、文化六年(一八〇九)に転居してきた「下谷根岸大塚村(後の「雨華庵」の住居)の「鶯の里の画房(アトリエ)」で、「抱一の(個人的)画房(アトリエ)」というよりも、「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」の意が強いものであると解したい。

五 これらのことに関して、これまでに触れてきた、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)、そして、「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間と出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間などとを重ね合わせると次のとおりとなる。

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

六 ここで重要なことは、これらの「槃礴画房」「鶯邨工房」、そして、そこでの作品というのは、「抱一と門弟(抱一の酒井家の用人=付け人・鈴木蠣潭他の門人)」との位置からすると、「酒井家の禄を育んでいる殿様絵師・抱一(「千石五十人扶持」=大名の縁戚に連なる地位を維持する石高=年収「千万円」単位より「億円」単位に近い?)と、その抱一をサポートする、本家の酒井家が遣わしている抱一専用の用人(お抱え絵師)鈴木蠣潭(「(等覚院殿)御一代」は、その有力な助手と解して差し支えなかろう。蠣潭は「十三人扶持」(十三人を賄える米代相当?)で、蠣潭の夭逝(二十六歳)の跡を継いだ鈴木其一(二十二歳)は「九人扶持」だが、後に、酒井忠学(ただのり)に嫁いだ第十一代将軍・家斉の息女・喜代姫から医師格に昇進を許され、別途「三十人扶持」を賜っており、抱一没後も其一は酒井家のお抱え絵師の地位を有していたのであろう。
 蠣潭の別号に「必庵」があり、この号は蠣潭没後、其一が継いでいる。

【 百図之事今日奴にてとかけ合候処 光琳忌に間合ひ候つもり出来候まゝ 板下の処明日よりおこたりなく板下御認可被下候 是非とも光琳忌に間に合申度候 其思召にて板下奉頼候 此段申入度早々 以上 十五日 明日のけたいなく奉頼候
 必庵主人  鶯  】
(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』所収「必庵宛 酒井抱一書簡」)

 これは、文化十二年(一八一五)六月に開催した「光琳百回忌光琳遺墨展」に配付する予定で刊行を進めていた『光琳百図』(記念光琳縮図集=約百点)の板下制作の督促を、必庵宛(蠣潭存命中であり、この書簡は蠣潭宛てのものであろう)に送った「鶯(邨)」(抱一)の書簡である。実際には、開催中には間に合わず、この年の秋頃に完成して、主だった方々に配ったのであろう(この年、蠣潭は二十四歳で、其一は二十歳、其一が抱一の内弟子になったのは十八歳の時で、この『光琳百図』の縮図制作には其一も戦力になっているのであろう)。『光琳百図』は、文政九年(一八二六、抱一・六十六歳、其一・三十一歳、鶯蒲・十九歳)に後編が刊行され、その時に前編も改めて刊行されたようで、これらが、今日に現存し、その全容を、下記のアドレスなどで閲覧することが出来る。

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%89%E7%90%B3%E7%99%BE%E5%9B%B3&enter=portal

 なお、鈴木蠣潭については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24

七 鈴木蠣潭が亡くなった文化十四年六月二十五日の十二日前の、六月十七日に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と、蠣潭は、抱一と小鸞女史が同じ屋根の下で暮らすのを見届けるかのように夭逝する(二十六歳)。そして、小鸞女史もまた、酒井家側からすると、抱一用人(酒井家付人)の蠣潭と同じく、抱一御付女中(酒井家御付女中)で、その名も「春篠」なのである。即ち、酒井家にとって、抱一は一代限りであって、抱一没後は、例えば、この翌年(文政元年=一八一八)に「妙華尼(小鸞女史)」の養子になった「酒井抱一(画人)の二代目・酒井鶯蒲」は、大名家の「酒井家」とは、何らのかかわりもないということになる。これらの周辺については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E9%B8%9E%E5%A5%B3%E5%8F%B2

八 この「文化十四年(一八一七)」には、「十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する」と、これまでの、「槃礴画房」・「鶯邨画房」から「雨華画房(工房)」への変遷を告げるスタートの年なのであろう。この「雨華庵」の額の揮毫者は、抱一の甥に当たる、当時の酒井家当主・酒井忠実のものである。この額の裏面に次の文字が刻まれている。

【 文化十四年丁丑十一月十一日乙巳書之 従四位下行雅樂頭源朝臣忠実 】(「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)

この「雨華庵」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15

九 「雨華庵」の号は、この文化十四年(一八一七)以降からのもので、「此年以前に雨華庵と書いたものは見当たらない」(「相見・前掲書)ということで、すると、この号は抱一が亡くなる文政十一年(一八二八)までの、晩年の十一年間のものということになる。この雨華庵の抱一の門下には、雨華庵二世となる酒井鶯蒲、抱一の実質的な後継者・鈴木其一、其一と並ぶ抱一の高弟・池田孤邨、抱一の最晩年の弟子・田中抱二等々の俊秀が集うことになる。この「雨華庵画房(工房)」での、必庵(其一)等の、抱一の代筆などに関しては、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27

(再掲)

【(前略)此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 】
(『日本絵画の見方(榊原悟著)』所収「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」)


これらのことに関して、「抱一筆十二か月花鳥図考」(『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)で、この「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」をより詳しく紹介し、次のような見解を示されている。

【 この書簡集には、ほかにもあい似た内容の書状が含まれている。現在まで、これらは単に手伝い、下絵制作、代筆の存在を示すもの、あるいは芸術的良心の問題として考えられてきた。そして、関心はもっぱら宛名の必庵が、弟子鈴木其一を指すものか、あるいはその養父蠣潭かとい点に向けられてきた。しかし、これはもう立派に工房制作と呼んで差し支えないのではなかろうか。これらの書簡は、抱一が弟子を統括し、その様式のもとに制作を指揮していたことを示している。これらに抱一の落款が加えられ、あくまでも抱一の作品として発表され、依頼主に売却されたことは、改めていうまでもないであろう。そもそも、ヨーロッパ美術における工房とは、芸術家や職人などが制作する部屋や仕事場を意味し、転じて、何らかの共通の基盤あるいは方針のもとに制作する芸術家や職人の集団を指す語である。わが近世絵画史において、宗達工房とか又兵衛工房とかいうのは、ヨーロッパ美術史の工房概念を適用したものにほかならない。抱一の場合も、抱一様式に収斂する共通の基盤や方針があったことは明らかであり、必庵が抱一のもとに出かけて一緒に制作していることは、工房の源義である仕事場のもつ語感とも、よく通い合っているといえよう。(以下略)  】
((『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図考」)



飛鴨図.jpg

尾形光琳筆「飛鴨図」一幅 山口蓬春記念館蔵
【 光琳水墨画の代表的作例で、抱一と交流があり抱一画のほか光琳・乾山の作品を多く伝えた大沢家旧蔵になる。『光琳百図』(後編上)にも収載されたこの図には、抱一による箱書や折紙が「副書」として自筆包紙とともに備わっている。書体や状況から文政五年のものと思われ、光琳画に係る抱一の活動が明快に知られる一例である。日本画家の山口蓬春(一八九三~一九七一)が入手し、その作品にも生かされた。(「図版解説・松尾知子稿)

抱一は、「飛鴨図 尾形光琳筆」と箱書し、極書には「光琳筆一/隻鳬図 但紙本/各審定作/處真蹟疑論/無之者也/午十月十五日/抱一暉真」とした。
「武州行田百花潭大沢家目録」には、本図のほかにも、抱一の箱書があるという作品が多く掲載されている。光琳・乾山に限らず雪舟の山水から、探幽、松花堂、一蝶の絵、西行の和歌や、遊女高尾の短冊など幅広い。抱一の箱書を逐一求めたのであろう大沢永之との関係にとどまらず、絵師の中でも抱一がする箱書、共箱などの多さ、その意識的な行為には注目したいところである。(作品解説・松尾知子稿)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収)』)

 この光琳筆「飛鴨図」の抱一の鑑定書(極書=きわめがき)が、文政五年(一八〇八)作とすると、文化十二年(一八一五)に開催された「光琳百回忌光琳遺墨展」にも、この光琳の水墨画は出品されたものと解して置きたい。そして、抱一は、光琳などの作品の鑑定を依頼される場合が多く、この遺墨展に配付した『光琳百図』(光琳画縮図集)なども、それらの鑑定用の意図もあることであろう。
 そして、光琳百回忌関連の「法会・遺墨展・『光琳百図』『尾形流略印譜』の刊行・『光琳百回忌百幅』関連の制作」において、抱一の有力な助手が「鈴木蠣潭・其一」で、さらに、抱一の有力な支援者(パトロン)が、武州行田の「松沢永之」(江戸浅草茅町の「百花潭」住)と常州流山の「君山君積」の二人ということになろう。
 ここで、この「まとめ(一~十)」のスタートに記した、光琳百回忌の諸行事が終わった翌年の、文化十三年(一八一六)の年譜の記事を再掲して置きたい。

(再掲)

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作 】

 この年譜の「正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)」関連については、下記アドレスの(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」の関連メモで触れている。また、その翌年の「文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳 元日 百花園にて観梅。▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。」に関連しての「佐原鞠塢」についても、「(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)」の関連メモで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-10  

ここで再掲した、年譜記事の「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載」の、この「大沢永之のために『法華経普門品』を書写」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く」とは、抱一の、「大沢永之と君山君積」への、「光琳百回忌の記念行事」が終わって、両者に対するお世話になったことの返礼のものと解したい。

十一

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一双 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 これが、上記の十で再掲した年譜の「▼秋、『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵)制作」の「柿図屏風」である。この原所蔵者は、例えば、抱一の無二の地方の支援者(パトロン)の「大沢永之と君山君積」とのお二人に限定するならば、「尾形乾山五世(?)」を名乗っている「大沢永之」の旧蔵品としても何らの違和感を無いような雰囲気を有している。
 として、もう一つの、「▼冬、『四季花鳥図屏風』(陽明文庫蔵)制作」の、旧(原)所蔵者が「君山君積」であることは、これまた、何らの違和感も覚えないような雰囲気を有しているのである。そして、この「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、極めて、装飾的な琳派の立役者の、乾山の実兄の「尾形光琳」的世界のものということになろう。
 ここで、上記の五の次の模式図を再掲して置きたい。

(再掲)

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

 そして、この模式図に、「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」と「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』とを追加(再々掲)して置めきたい(追加項目は▼印である)。

(再々掲)


●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

▼『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵

「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」


●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)

「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』
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