SSブログ

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その七) [三十六歌仙]

その七 正徹と紹巴

正徹.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「左方七 正徹」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1511

紹巴.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「右方二五 紹巴」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1494

(歌合)

歌人(左方七) 正徹
歌題 月前雁
和歌 しらさぎの雲井遥かに飛びきえて おのが羽こぼす雪のあけぼの
歌人概要  室町中期の歌人

歌人(右方二四)紹巴
歌題 佛名
和歌 夕々(ゆふべゆふべ)ほとけのみなをとなへつつ つみもきえ行く衣手のつゆ
歌人概要 戦国期~桃山期の連歌師

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syoutetu.html

正徹(しょうてつ) 永徳元~長禄三(1381-1459) 庵号:松月庵 道号:清巌(せいがん)

 備中国小田郡小田庄、神戸山城主小松康清(または秀清)の子と伝える。幼名は尊明または尊明丸。長じて正清(信清とも)と名のった。
 幼くして父母に従い上洛。十四五歳の頃、冷泉派の歌会に交わり、やがて冷泉為尹・今川了俊に師事する。若くして仏道に志し、東山霊山称名寺に草庵を構えるなどしていたが、応永十七年(1410)以後、東福寺に入り、東漸和尚に師事した(寺では書記を勤めたため、「徹書記」と通称され)。
 東福寺の塔頭の一つ栗棘庵の一室を松月庵と名付けて住んだ(のち招月庵と改める)。この間歌道にも精進し、同二十一年(1414)四月、頓証寺法楽一日千首には著名歌人と共に出詠し、ひとかどの歌人と認められていたことが窺える。やがて春日西洞院に住み、今熊野の草庵に移ったが、この草庵は永享四年(1432)四月火災に遭い、三十余帖に書写した二万六七千首の自作和歌が灰燼に帰したと言う。
 若い頃は冷泉家の歌学に影響を受けたが、その後藤原定家の風骨を学び、夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓くに至った。一条兼良の信任を受け、上流武家歌人との交友は広く、京洛歌壇で抜きん出た存在となるが、永享期に六代将軍足利義教の怒りに触れ、草庵領小田庄を没収されるという憂き目に遭った。永享十一年(1439)に完成した新続古今集の撰に漏れたのも、義教の忌避の影響が及んだものであろうと言う。
 義教の死後は歌壇に復帰し、京都・堺周辺の公家・武家・寺社で催された歌合・歌会で活躍した。八代将軍義政には厚遇され、源氏物語を講義するなどした。康正二年(1456)、義教によって没収されていた小田庄を恢復。長禄三年(1459)五月九日、七十九歳で死去した。
 弟子に正広・心敬・宗砌・智蘊・細川勝元などがいる。弟子の正広が編纂した家集『草根集』に和歌一万千余首を収める。また同集の抄出本『正徹千首』(一条兼良編か)がある。歌論書に永享元年(1429)頃執筆の『正徹物語』、紀行文に『なぐさめ草』がある。草仮名の書家としても名をなす。古典の書写は多く残るが、ことに『徒然草』正徹本は名高い。勅撰集への入集は無い。

里村紹巴(さとむらじょうは) 生年:大永5(1525) 没年:慶長7.4.12(1602.6.2)

 安土桃山時代の連歌師。号,臨江斎。奈良興福寺一乗院の小者松井昌祐の子と伝えられる。里村姓は師里村昌休の姓による。連歌を周桂,昌休に,和歌,古典を三条西公条に学んだ。永禄7(1564)年谷宗養が没して連歌界の第一人者となり,近衛稙家,三好長慶,細川幽斎らと交友を深める一方,明智光秀や豊臣秀吉の信任を得た。光秀との『愛宕百韻』,秀吉毛利攻めの戦勝祈願『羽柴千句』などが有名。文禄4(1595)年,豊臣秀次の事件に連座,のちに許されたが失意のうちに没した。
 剛直にして細心,したたかに乱世を生き抜いた人物で,弟子の松永貞徳は「正直正路」「力も心も大剛の人」と評し,辻切りの刀を奪い取って織田信長にほめられた逸話を記している。連歌論に『至宝抄』『連歌教訓』,紀行に『紹巴富士見道記』などがあり,一座した連歌はすこぶる多い。<参考文献>小高敏郎『ある連歌師の生涯』,奥田勲『連歌師―その行動と文学』
(沢井耐三)( 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(正徹と紹巴)

 正徹は、十四世紀の「連歌時代」がスタートする頃の「地下(じげ)連歌」(「殿上連歌」に対する)をリードしていた代表的な「歌人」、そして、紹巴は、十六世紀の「連歌時代」(「殿上連歌」と「地下連歌」を止揚した「連歌の時代」)のゴールする頃の代表的な「連歌師」として、直接的な接点はない。
 ここで、この十四世紀から十六世紀の「連歌の時代」というのは、「救済・周阿時代(十四世紀)」の「熱狂」から、「心敬・宗祇時代(十五世紀)」の「洗練」、そして、「宗養・紹巴(十六世紀)」の「過度」との、「三つのピークで連歌史を把えることができる」(『連歌師---その行動と文学---(奥田勲著)』)を背景とすると、「正徹と紹巴」との二人の関係が明白となってくる。
 すなわち、「連歌時代」をスタートさせたのは「正徹」その人で、その「連歌時代」がゴール地点は「紹巴」その人ということになる。


(参考)愛宕百韻 → 『新潮日本古典集成 連歌集(島津忠夫校注)』など

天正十年愛宕百韻(賦何人連歌)
          天正十年(一五八二)五月二十四日 於愛宕山威徳院

(初表)                      (式目=句材分析など)
01  ときは今天(あま)が下しる五月哉   光秀  夏(五月)・切字(哉)
02  水上(みなかみ)まさる庭の夏山    行祐  夏(夏山)・山類・水辺・居所
03  花落つる池の流れをせきとめて     紹巴  春(花)・水辺・木
04  風に霞を吹き送るくれ         宥源  春(霞)・聳物
05  春も猶(なほ)鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱  春(春)
06  かたしく袖は有明の霜         心前 冬(霜)・夜分・降物・衣装
07  うらがれになりぬる草の枕して     兼如  秋(うらがれ)・旅
08  聞きなれにたる野辺の松虫       行澄  秋(松虫)・旅・虫
(初裏)
09  秋は只(ただ)涼しき方に行きかへり  行祐  秋(秋)
10  尾上(をのへ)の朝け夕ぐれの空    光秀  雑・山類
11  立ちつづく松の梢やふかからん     宥源  雑・木
12  波のまがひの入海(いりうみ)の里   紹巴  雑・水辺・居所
13  漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み  心前  雑・水辺
14  隔たりぬるも友千鳥啼く        昌叱  冬(千鳥)・鳥
15  しばし只(ただ)嵐の音もしづまりて  兼如  雑
16  ただよふ雲はいづちなるらん      行祐  雑・聳物
17  月は秋秋はもなかの夜(よ)はの月   光秀  秋(月)・光物・夜分
18  それとばかりの声ほのかなり      宥源  秋(雁)(「かり」=掛け)・鳥 
19  たたく戸の答へ程ふる袖の露      紹巴  秋(露)・降物・居所・衣装
20  我よりさきにたれちぎるらん      心前  雑・恋・人倫
21  いとけなきけはひならぬは妬まれて   昌叱  雑・恋
22  といひかくいひそむくくるしさ     兼如  雑・恋
(二表)
23  度々の化(あだ)の情はなにかせん   行祐  雑・恋
24  たのみがたきは猶(なほ)後の親    紹巴  雑・人倫 
25  泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ    心前  雑・旅
26  深く尋ぬる山ほととぎす        光秀  夏(ほととぎす)・鳥 
27  谷の戸に草の庵をしめ置きて      宥源  雑・山類
28  薪(たきぎ)も水も絶えやらぬ陰    昌叱  雑・山類・居所
29  松が枝(え)の朽ちそひにたる岩伝い  兼如  雑・山類・木
30  あらためかこふ奥の古寺        心前  雑・釈教
31  春日野やあたりも広き道にして     紹巴  雑
32  うらめづらしき衣手(ころもで)の月  行祐  秋(月)・光物・夜分・衣装
33  葛のはのみだるる露や玉ならん     光秀  秋(露)・降物・草
34  たわわになびくいと萩の色       紹巴  秋(いと萩)・草
35  秋風もしらぬ夕(ゆふべ)やぬる胡蝶  昌叱  秋(秋風)・虫
36  みぎりも深く霧をこめたる       兼如  秋(霧)・聳物
(二裏)
37  呉竹(くれたけ)の泡雪ながら片よりて 紹巴  冬(泡雪)・降物・草
38  岩ねをひたす波の薄氷(うすらひ)   昌叱  冬(薄氷)・水辺
39  鴛(をし)鴨や下りゐて羽をかはすらん 心前  冬(鴛・鴨)・水辺・鳥
40  みだれふしたる菖蒲(あやめ)菅原   光秀  夏(菖蒲)・水辺・草
41  山風の吹きそふ音はたえやらで     紹巴  雑
42  とぢはてにたる住(すま)ゐ寂しも   宥源  雑
43  とふ人もくれぬるままに立ちかへり   兼如  雑
44  心のうちに合ふやうらなひ       紹巴  雑
45  はかなきも頼みかけたる夢語り     昌叱  雑・恋
46  おもひに永き夜は明石(あかし)がた  光秀  秋(永き夜)・恋・夜分・水辺
47  舟は只(ただ)月にぞ浮かぶ波の上   宥源  秋(月)・光物・夜分・水辺
48  所々にちる柳陰            心前  秋(ちる柳)・木
49  秋の色を花の春迄移しきて       光秀  春(花の春)・木
50  山は水無瀬の霞たつくれ        昌叱  春(霞)・聳物・山類
(三表)
51  下(した)解くる雪の雫の音すなり   心前  春(解くる雪)・降物
52  猶も折りたく柴の屋(や)の内     兼如  雑・居所
53  しほれしを重ね侘びたる小夜(さよ)衣 紹巴  雑・恋・衣装
54  おもひなれたる妻もへだつる      光秀  雑・恋・人倫
55  浅からぬ文(ふみ)の数々よみぬらし  行祐  雑・恋
56  とけるも法(のり)は聞きうるにこそ  昌叱  雑・釈教
57  賢きは時を待ちつつ出づる世に     兼如  雑・人倫
58  心ありけり釣(つり)のいとなみ    光秀  雑
59  行く行くも浜辺づたいひの霧晴れて   宥源  秋(霧)・聳物・水辺
60  一筋白し月の川水(かはみづ)     紹巴  秋(月)・光物・夜分・水辺
61  紅葉(もみぢ)ばを分くる龍田の峰颪  昌叱  秋(紅葉)・木
62  夕さびしき小(さ)雄鹿の声      心前  秋(小雄鹿)・獣
63  里遠き庵も哀(あはれ)に住み馴れて  紹巴  雑・居所
64  捨てしうき身もほだしこそあれ     行祐  雑・述懐・人倫
(三裏)
65  みどり子の生い立つ末を思ひやり    心前  雑・述懐・人倫
66  猶永(なが)かれの命ならずや     昌叱  雑・述懐
67  契り只(ただ)かけつつ酌める盃に   宥源  雑
68  わかれてこそはあふ坂の関       紹巴  雑・山類
69  旅なるをけふはあすはの神もしれ    光秀  雑・旅・神祇
70  ひとりながむる浅茅生(あさぢふ)の月 兼如  秋・光物・夜分
71  爰(ここ)かしこ流るる水の冷やかに  行祐  秋(冷やか)・水辺
72  秋の螢やくれいそぐらん        心前  秋(秋の蛍)・虫
73  急雨(むらさめ)の跡よりも猶霧降りて 紹巴  秋(霧)・降物・聳物
74  露はらひつつ人のかへるさ       宥源  秋(霧)・降物・人倫
75  宿とする木陰も花の散り尽くし     昌叱  春(花)・木
76  山より山にうつる鶯          紹巴  春(鶯)・山類・鳥
77  朝霞薄きがうへに重なりて       光秀  春(霞)・聳物
78  引きすてられし横雲の空        心前  雑・聳物
(名残表)
79  出でぬれど波風かはるとまり船     兼如  雑・旅・水辺
80  めぐる時雨の遠き浦々         昌叱  冬(時雨)・旅・降物・水辺
81  むら蘆の葉隠れ寒き入日影       心前  冬(寒き)・光物・水辺・草
82  たちさわぎては鴫の羽(はね)がき   光秀  秋(鴫)・鳥
83  行く人もあらぬ田の面(も)の秋過ぎて 紹巴  秋(秋)・人倫
84  かたぶくままの笘茨(とまぶき)の露  宥源  秋(露)・降物
85  月みつつうちもやあかす麻衣      昌叱  秋(月)・光物・夜分・衣装
86  寝もせぬ袖のよはの休(やす)らい   行祐  雑・恋・夜分・衣装
87  しづまらば更けてこんとの契りにて   光秀  雑・恋・夜分
88  あまたの門(かど)を中の通ひ路    兼如  雑・恋・居所
89  埋(うづ)みつる竹はかけ樋の水の音  紹巴  雑・水辺・草
90  石間(いはま)の苔はいづくなるらん  心前  雑・草
91  みず垣は千代も経ぬべきとばかりに   行祐  雑・神祇
92  翁さびたる袖の白木綿(しらゆふ)   昌叱  雑・神祇・衣装
(名残裏)
93  明くる迄霜よの神楽さやかにて    兼如  冬(霜よの神楽)・神祇・夜分
94  とりどりにしもうたふ声添ふ     紹巴  雑
95  はるばると里の前田の植ゑわたし   宥源  夏(田を植う)・居所 
96  縄手(なはて)の行衛ただちとはしれ 光秀  雑
97  いさむればいさむるままの馬の上   昌叱  雑・獣
98  うちみえつつもつるる伴ひ      行祐  雑・人倫
99  色も香も酔をすすむる花の本     心前  春(花)・木
100 国々は猶(なほ)のどかなるころ   光慶  春(のどか)・

(補注)

一 天正十年(一五八二)五月二十四日、愛宕西之坊威徳院で張行。表向きは毛利征伐の戦勝祈念、実は織田信長を本能寺で破るための明智光秀の祈念をひそかにこめたものと伝える。

二 光秀(明智日向守。惟任=これとう)=)十五句、行祐(ぎょうゆう)=愛宕西之坊威徳院住職=十一句、紹巴(じょぅは)=当代第一の連歌師=十八句、宥源(ゆうげん)=愛宕上之坊大善院住=十一句、昌叱(しょうしつ)=紹巴門の連歌師=十六句、心前(しんぜん)=紹巴門の連歌師=十五句、兼如(けんにょ)=猪苗代家の連歌師(紹巴門)=十二句、行祐(ゆうずみ)=光秀家臣=一句、光慶(みつよし)=光秀の子=一句

愛宕百韻.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00042/bunko20_00042_p0003.jpg

天正十二年五月廿四日於愛宕山明智光秀興行連歌 / 紹巴 [ほか撰](早稲田大学図書館蔵=伊地知鉄男文庫)

三 『島津校注』の底本は「静嘉堂文庫蔵『連歌集書一七』」、校合本として「京都大学蔵平松本」「大阪市立大学森文庫蔵本」「大阪天満宮文庫蔵本」などである。上記の「早稲田大学伊地知鉄男文庫蔵本」の発句は、「時は今雨の下知る五月哉」と『島津校注本』の「ときは今天(あま)が下しる五月哉」と句形が異なる。
   
  時は今雨の下知る五月哉  (「伊地知鉄男文庫蔵本」=A)
  ときは今天が下しる五月哉 (『島津校注本』=B)
  ときは今天が下なる五月哉 (『島津校注本』「京都大学蔵平松本」=C)

「時は今雨の下知る五月哉」(A)の、「時」は明智光秀の本姓の「土岐」氏、「雨の下しる」は「天の下しる」との「天下しる」の、それらの掛詞ということになる。
 同様に、「ときは今天(あま)が下しる五月哉」(B)の、「とき」は「時と土岐」、「天と雨」との、それらの掛詞ということになる。
そして、「ときは今天(あま)が下しる五月哉」(B)の「下しる」と、「ときは今天が下なる五月哉」(C)の「下なる」とは、「光秀失脚後、本能寺の変を事前に承知していたということで責められた紹巴が、もとは「天が下なる」であったと申し開きしたという「紹巴逸話」に由来のある句形である。
 紹巴は、「公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち」、徳川幕府下にあっても、「里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界に君臨し続けた」、戦国時代の乱世をしたたかに潜り抜けた大立者である。
 紹巴の晩年の弟子、松永貞徳が、紹巴の死を細川幽斎に告げた時、幽斎は深く惜しんで、「ああ、あれほどの者は、もう出て来ないであろう」と言ったという逸話が今に遺されている(『戴恩記』など)。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

正徹二.jpg

沙門正徹(狩野蓮長画)

紹巴二.jpg

臨江斎紹巴(狩野蓮長画)
タグ:三十六歌仙
nice!(1)  コメント(3) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 3

middrinn

誰だか思い出せませんが、本能寺の変の謎を取り上げた本か何かで、
光秀の発句についても色々と歴史学者が論じておりました(@_@;)
by middrinn (2019-11-05 16:20) 

yahantei

「水無瀬三吟」と「愛宕百韻」の全句ををアップしたいと思っていて、この抱一画の「集外三十六歌仙」は、ナイス・タイミングでした。しかし、画像は、「花鳥画」ではなく、やや、飽きがくるネ。しかし、「佐田家本三十六歌仙」が、今、京博などで、テレビなどでも取り上げていますが、錚々たる「武将列伝」となると、「集外三十六歌仙」が面白いかもネ。
by yahantei (2019-11-05 17:55) 

yahantei

「佐田家本三十六歌仙」→「佐竹本三十六歌仙」の誤記。あいかわらず誤記が多いね。次回は、これが面白いかも。
by yahantei (2019-11-06 10:16) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。