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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その九) [三十六歌仙]

その九 兼裁と細川玄旨

兼裁.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「九 兼裁」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1477

「幽斎.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二七 細川玄旨」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1496

(歌合)

歌人(左方九) 耕閑斎兼載
歌題 浦擣衣
和歌 秋ふかくなるをのうらの蜑人(あまびと)は しほたれ衣いまやうつらむ
歌人概要  室町期の連歌師

歌人(右方二七) 細川玄旨(幽斎)
歌題 田鹿
和歌 さすがまた小田もる賤(しづ)も鹿の音の 遠ざかるをばしたひてや聞く
歌人概要 細川幽斎。桃山~江戸期の武将。歌人、連歌作者  

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kensai.html

兼載( けんさい) 享徳元~永正七(1452-1510) 号:相園坊・耕閑軒

 奥州の名族、猪苗代氏の出。式部少輔盛実の子。初名、宗春。若くして出家したらしい。文明二年(1470)頃、応仁の乱を避けて関東流浪中の身であった心敬に師事する。心敬没後、文明七年(1475)前後に上京し、以後京の連歌界で活躍する。この間和歌にも精進し、飛鳥井雅親・雅康ら和歌宗匠や姉小路基綱・三条西実隆ら公家歌人と親交を持った。地方に下っては木戸孝範ら武家歌人とも交わる。文明十八年(1486)頃、初めて兼載を名乗る。
 延徳元年(1489)、宗祇の辞任に伴い、北野連歌会所奉行・連歌宗匠に三十八歳の若さで就任する。明応三年(1494)、堯恵に入門し、古今集の講説を受ける(堯恵からは『愚問賢注』『井蛙抄』なども授けられた)。同四年、宗祇を助けて『新撰菟玖波集』を編纂するが、入集句をめぐって意見の対立があった。この間、山口・阿波・関東・奥羽などを巡り、各地の大名を歴訪している。明応九年(1500)、京の大火で住居を焼失、翌年の文亀元年(1501)、京を離れて岩城に草庵を結ぶ。のち会津や古河に住み、永正七年六月六日、古河にて病没した。五十九歳。墓は栃木県下都賀郡野木町の満福寺にある。
 句集に『園塵』、連歌論書に『心敬僧都庭訓』『連歌延徳抄』ほかがある。また弟子の兼純が筆録した『兼載雑談』がある。和歌関係の著書としては『万葉集之歌百首聞書』『新古今抜書抄』『自讃歌聞書』『兼載名所方角和歌』などがある。家集『閑塵集』に三百七十余首の歌を残す。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yusai.html

細川幽斎( ほそかわゆうさい) 天文三~慶長一五(1534~1610) 号:玄旨

 本名藤孝。三淵伊賀守晴員の次男(実父は将軍足利義晴という)。母は清原宣賢の娘。忠興の父。七歳の時、伯父細川常元の養子となり、足利将軍家に仕える。永禄八年(1565)、将軍義輝が三好党に攻められて自殺した後、奈良興福寺に幽閉されていた義輝の遺児覚慶(のちの義昭)を救出し、近江へ逃れる。その後、義昭を将軍に擁立した織田信長の勢力下に入り、明智光秀とともに丹波・丹後の攻略などに参加。これらの功により、信長から丹後を与えられた。
 光秀とは親しく、縁戚関係にあったが、天正十年(1582)本能寺の変に際しては剃髪して信長への追悼の意を表した。その後豊臣秀吉に迎えられ、武将として小田原征伐などに従う一方、千利休らとともに側近の文人として寵遇された。慶長五年(1600)、丹後田辺城にあった時、城を石田三成の軍に囲まれたが、古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた。徳川家康のもとでも優遇され、亀山城に隠棲。晩年は京都に閑居した。熊本細川藩の祖である。
 剣術・茶道ほか武芸百般に精通した大教養人であった。歌は三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派正統を継承した。門人には智仁親王・烏丸光広・中院通勝などがいる。また松永貞徳・木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。後人の編纂になる家集『衆妙集』がある。『詠歌大概抄』『古今和歌集聞書』『百人一首抄』などの歌書のほか、『九州道の記』『東国陣道の記』など多くの著書を残す。

(「幽斎逸話」と「古今伝授」周辺)

一 上記の「実父は将軍足利義晴という」というのは、「「幽斎逸話」の一つで、幽斎の生母の「智慶院」(清原宣賢の娘)は、室町幕府第十二代将軍足利義晴の側女で、その「義晴」のご落胤という説に由来する。とすると、幽斎と、足利将軍義輝(第十三代)、義昭(第十五代)とは異母兄弟ということになる。

https://sengoku-history.com/2017/08/03/busyo-yusai/

 さらに、この『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』に登場する唯一の女性の「浄通尼」(「左方三」)は、その第十二代将軍足利義晴の生母なのである。

二 上記の「古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた」との、「古今伝授の唯一の継承者」というのは、『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』の「平(東)常縁」(「左方一」)「宗祇」(「右方一九」)「宗長」(「左方四」)「永閑」(左方六)と深く関わりがあるもので、「永閑」(左方六)で紹介した「伝授系図(古今伝授)」(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』所収)は、この幽斎への「古今伝授」を主としてのものと思われる。

伝授系図.jpg

(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)

四 古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ(上記「系図」の「常縁から宗祇へ)、以降相伝されたものを指す。

五 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。
(上記の「系図」は、この「御所伝授」のものと解せられる。この「系図」には、肖柏と林竹二は出てこない。)

六 堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった。

七 「御所伝授」
三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡し、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は勅使を派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。

八 「御所伝授」の内容
御所伝授は口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」(きりがみでんじゅ)によって構成されている。烏丸家には現存最古とされる切紙と、その付属書類が伝わっており、その内容を知ることができる。切紙は単に受け継がれただけではなく、近衛尚通や幽斎によって書かれたものも存在しており、また時代が下ると次第に内容が書き加えられていく傾向があった。また師が弟子に伝達したことを認可する証明書も含まれている。幽斎は肖柏の一族から堺伝授の切紙を買い上げており、その経緯もともに伝授されている。

 上記の「四~七」については、「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」のものである(川瀬一馬「古今伝授について : 細川幽斎所伝の切紙書類を中心として」 『青山學院女子短期大學紀要』第15号、青山學院女子短期大學)。

(『三鳥・三木・三草秘伝之書』周辺)

 上記の「系図」(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』所収)は、『三鳥・三木・三草秘伝之書』に収載されているものなのだが、「古今伝授」の内容の一つに「三鳥・三木・三草」に関するものがある。

三鳥・三木・三草.jpg


http://tombo-topos.blogspot.com/2011/09/blog-post_12.html


三鳥
百千鳥(ももちどり)
稲負鳥(いなおほせどり)
呼子鳥(よぶこどり)

三木
御賀玉木(をがたまの木)
※河菜草(かはなくさ)→ やまがきの木  
※蓍に削り花(めどにけづりばな)→ かには桜

三草
※川菜草(かはな草)
※蓍に削り花(めどにけづり花)
呉の母(くれのおも) → さがり苔

一 この「三鳥・三木・三草」については、「紙」に書かれたものと「口伝」のものとがある。上記の「三鳥・三木・三草」の内容は「紙」に書かれたもので、これが、「口伝」になると、例えば、「三鳥」は、次のような比喩のようである(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)。

三鳥
百千鳥(ももちどり)→「臣」の比喩→さえずる様が群臣の王命に従うようだから
呼子鳥(よぶこどり)→「関白」の比喩→当期を知らせるから
稲負鳥(いなおほせどり)→「帝」の比喩→すべての鳥の根源だから

28 ももちどり(百千鳥)さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く(よみ人しらず)
29 をちこちのたづき(立つ木)もしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどり(呼子鳥)かな(同上)
208 わが門(かど)にいなおほせ鳥(稲負鳥)のなくなへにけさ吹く風に雁(かり)は来にけり(同上)
306 山田もる秋のかりいほ(庵)におく露はいなおほせ鳥(稲負鳥)涙なりけり」(ただみね=壬生忠峯)

『角川ソフィア文庫 古今和歌集(窪田章一郎校注)』


二 また、この「三鳥・三木・三草」に関して、この「三鳥」については、「百千鳥(ももちどり)・稲負鳥(いなおほせどり)・呼子鳥(よぶこどり)」の説が定説のようなのだが、「三木・三草」については、説が分かれるようである。

https://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/83ab18a7ea25e9134494888a7ed2751c

「三鳥・三木・三草」(A説)
 三鳥(百千鳥・稲負鳥・呼子鳥)・三木(をがたまの木・やまがきの木・かには桜)・三草(かはな草・めどにけづり花・さがり苔)

「三鳥・三木」(B説)
  三鳥(百千鳥・稲負鳥・呼子鳥)・三木(をがたまの木・かはな草・めどにけづり花)

 この他に、「三鳥・三木・一草」(C説)もあるようである。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-65703

三 この「三鳥・三木・三草」関連については、主として、『古今和歌集』「巻十物名(もののな)」に由来があるようである。

431   をがたまの木
  みよしののよしのの滝にうかびいずる あわをかたまのきゆ(「をがたまのき)と見ゆら  
  む     とものり(紀友則)  
(脚注)泡「をか玉の消」ゆに、題を読み込む。

449    かはなぐさ
  うばたまの夢に何かはなぐさ(かはなぐさ)まむ うつつにだにもあかぬ心を  
         ふかやぶ(清原深養父)
(脚注)何(なに)「かはぐさ」まむに、題を詠み込む。

445 二条の后、春宮のみやすん所と申しける時に、
    「※めどにけづり花」させりけるをよませたまひける
  花の木にあらざらめども咲きにけり ふりにしこのみなるときもがな
         文屋やすひで(文屋康秀)
(※補注)詞書の「めど」に両説がある。一つは蓍。めどはぎ・めど・めどぎ・めどくさなどと呼ぶ植物。まめ科の灌木状の多年生草本。茎は直立して一メートル
ほど。初夏、花が咲く。この茎を占に用いる筮(めどき)とする。「けずり花」との関係は、この茎を結い集めて挿してあったろうとする。他の一つは馬道(めど・めどう)。殿舎内の長廊下、または殿舎をつなぐために厚い板を渡し、取りはずしのできる廊下で、そこに「けづり花」が挿してあったことになる。「けづり花」は、十二月の御仏名のときに用いたもので、木を削って花の形に作ったものである。歌意は、「花の咲くような木ではなさそうですが、花の咲いたことです。この上は、古くなった果実(このみ)のなる時があって欲しいと思います」という意を詠み込んでいる。題の「めど」とは関係なく、内容は二条の后への訴えである。

『角川ソフィア文庫 古今和歌集(窪田章一郎校注)』


(稲負鳥)
http://birdnewsjapan.seesaa.net/article/426345011.html

秋の季語に「稲(いな)負(おおせ)鳥(どり)」がある。和歌の秘伝「古今伝授(こきんでんじゅ)」が挙げる鳥の一つだが、正体は諸説があって分からない。藤(ふじ)原(わらの)定家(さだいえ)はセキレイ説、江戸時代の歌人・香川景樹(かがわかげき)はカワラヒワ説、同じく国学者の本居宣長(もとおりのりなが)はニュウナイスズメ説という(夏井(なつい)いつき著「絶滅寸前季語辞典」)▲秘伝がらみで、正体は謎というのが、俳人の遊び心を刺激してきたのだろうか。そうそうたる歌人らが諸説をくり広げてきたのもおもしろい。なかには稲の種を背負って日本にもたらした鳥だという言い伝えもあるようだ。

(百千鳥)
https://blog.goo.ne.jp/oldcat001/e/59ea64bd02ef62989e4fef4cdf0e58be

百千鳥、呼子鳥、稲負鳥の古今伝授の三鳥と言われるが、何の鳥を指すかは不明であった。鶯を指すという説もあったようだが、これは否定されている。現在は百千鳥と言えば、囀と同義語と考えられるが、囀は声に重点を置くのに対して、百千鳥はいろいろな鳥の姿に重点が掛かると考えたい。鳥が集まるのだから鳴き声は聞こえている。

    入り乱れ入り乱れては百千鳥  正岡子規

 描写が平明であるから誰にでもよくわかる句である。と言ってもこれは百千鳥の説明ではなく描写である。いくつかの鳥が木の枝に止まったり飛んだりしているのだが、どれも目まぐるしく動きまわっているのだ。どれ一羽としてじっとしているものはない。もちろん鳴き声も聞こえて騒がしい限りである。百千鳥を平明な表現で写生している。
  ↑
 この正岡子規の一句、古今伝授の説が、「入り乱れ・入り乱れ」て、その一つが「百千鳥」と解すると面白い。『宗祇袖下』では、「百千鳥は鶯のことにや。ただし、初春は万鳥のことにや。句の体によるべし」とある。子規居士は、宗祇御大などの「古今伝授」の「入り乱れ・入り乱れて」の、その様を一句にしているのかも知れない。

(呼子鳥)
http://akaitori.tobiiro.jp/kokin.htm

「カッコウ説/ツツドリ説(中西悟堂)/ヒヨドリ説/アオバト説/ゴイサギ説/アトリ説/猿説/山彦説」

駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり  山家集
瀧の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴きわたるは誰呼児鳥     作者不詳
尋常に聞くは苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ     大伴坂上郎女
をちこちのたつきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥哉   古今集
むつかしや 猿にしておけ 呼子鳥             室井其角
 ↑
 この最終尾の其角の一句「むつかしや猿にしておけ呼子鳥」(『五元集脱漏』)は、西鶴の「呼子鳥はねに替て毛がはへた」(『大矢数』)を念頭においての一句なのかも知れない。西鶴の句は、「呼子鳥は、いつのまにか、その羽に代わって、毛を生やして、猿になってしまった」という句らしい(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)。

 上記のアドレスの記事によると、「稲負鳥」の「ニュウナイスズメ説」は「本居宣長」の説とか(?)
 その本居宣長の「古今伝授」観は、次のとおり。

「古今伝授大いに歌道のさまたげにて、此道の大厄也」(『排蘆小船(あしわけおぶね)』)

https://philosophy.hix05.com/Japanese/Norinaga/norinaga06.ashiwake.html

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

兼裁二.jpg

耕閑斎兼裁(狩野蓮長画)

幽斎二.jpg

細川玄旨(幽斎)(狩野蓮長画)

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middrinn

大変タメになりましたm(__)m 夏井いつきはそーゆー本まで出してたんですね( ̄◇ ̄;)
by middrinn (2019-11-08 19:49) 

yahantei

「集外三十六歌仙」(抱一筆)で、「抱一」の出番はなくて、絶滅品種(?)の「連歌」は、「道灌・幽斎・信玄・政宗」と、迷宮入りの感じだネ。早く、切り上げて、「佐竹本三十六歌仙」「探幽筆三十六歌仙」の方の本筋の感じです。『新々百人一首』(丸谷才一著)が面白い。
by yahantei (2019-11-08 20:59) 

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