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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十六) [三十六歌仙]

その十六 佐川田昌俊と里村昌叱

佐川田昌俊.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十六 佐川田昌俊」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1484

里村昌俊.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十四 里村紹叱」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1504

(歌合)

歌人(左方十六) 佐川田昌俊
歌題 待花
和歌 よし野山はなまつ頃の朝な朝な 心にかかるみねのしら雲
歌人概要  永井信濃家家臣

歌人(右方三十四) 里村昌叱
歌題 寄枕恋
和歌 あはれともうしとも今はなれをしも しる人にせむ小夜の手枕
歌人概要 桃山~江戸前期の連歌師  

(歌人周辺)

佐川田昌俊(さがわだまさとし)生年:天正7(1579)  没年:寛永20.8.3(1643.9.15)

 江戸初期の歌人。本姓高階,通称喜六。号黙々,壺斎,不二山人など。下野早川田村生まれ。越後の武将木戸元斎の養子となる。和歌,連歌の手ほどきはまずこの養父から受けたらしい。 
 元斎没後浪々の身となるが,永井直勝に見出され,次の尚政の代には和歌・連歌の両面で活躍し,林羅山,松花堂昭乗,小堀遠州らとの交渉繁く,近世初期を代表する文人のひとりとなる。特に「吉野山花待つ頃の朝な朝な心にかかる峰の白雲」の詠は人口に膾炙した。
<参考文献>渡辺憲司「佐河田昌俊の前半生について」(『近世文芸』31号),同「佐川田昌俊と永井家の周辺」(『立教大学日本文学』67号) (久保田啓一)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

里村昌叱(さとむらしょうしつ)生年:天正2(1574) 没年:寛永13.2.5(1636.3.12)

 連歌作者。名は景敏。号は懐恵庵など。安土桃山時代の連歌作者昌叱の子。母は紹巴の娘。里村南家を継いだ。慶長13(1608)年,35歳で法橋に叙す。元和3(1617)年8月将軍徳川秀忠より采地100石の御朱印を受け,連歌の家としての保証を得る。寛永3(1626)年後水尾天皇から古今伝授を受け,同5年御城連歌に勤仕し,宗匠となる。
 同9年法眼。連歌界の第一人者で,斎藤徳元,松江重頼,西山宗因らの有名俳人もその門下。編著『類字名所和歌集』ほか。<参考文献>小高敏郎『ある連歌師の生涯』 (加藤定彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(「新島譲」と「佐川田昌俊」の一句)

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2014-02-26-12-44

吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲

 この歌について、かつては単純に襄の自作と思われていたこともあったようです。また幕末の勤王の志士が詠じた歌と誤解されたこともありました。今では淀藩の佐河田昌俊(1579~1642)の歌だということがわかっています。
 昌俊(喜六)は小堀遠州や松花堂昭乗とも親しい近世初期の一流文化人でした。当然「吉野山」歌も有名で、後水尾院撰『集外三十六歌仙』(近代三十六歌仙)や緑亭川柳撰『秀雅百人一首』にも収録されています。川田順撰『戦国時代和歌集』(昭和18年刊)にも入っています。
 さらに興味深いことに、三代将軍徳川家光がこの歌を色紙にしたためており、その複製自筆色紙が名古屋にある徳川美術館のミュージアムショップで販売されていることまで分かりました。
 もう一点、長い間誤解されていたのは、この歌の解釈についてです。その原因は歌の本文異同にありました。二句目が「花咲くころの」として引用されていたからです。
 「花咲く」と「花待つ」では、花の状態が異なっています。「花咲く」だともう花は咲いていることになりますが、「花待つ」だとまだ開花していないからです。
 そしてこの違いが、末尾の「白雲」の役割を大きく変容させることになりました(「白雲」を「白雪」としているものもありますが、それは明らかな間違いです)。開花している状態では、「白雲」は花を見たい人にとって花を隠す邪魔な存在というか障害になります。従来はこちらの解釈が通用していたようです。そこから「吉野山の花が散ってしまうことが気が気でないように、生徒達のことが気がかりでならない」と訳されていました。
 ところが古典和歌の常套では、「白雲」は決して花見の邪魔をするものではなかったのです。花を隠すのは、「白雲」ではなく「霞」の役割だからです。むしろ「白雲」は、「待つ」と結びつくことによって、まだ咲いていない花と見間違うものとして歌に詠まれることが普通でした。つまり「白雲」は、花が咲いたのかと一瞬勘違いさせる存在であって、せっかくの花を隠す迷惑なものではなかったのです。まだ咲いていないのですから、当然散ることなどありえません。
 これを本来の「待花」題で訳すと、「吉野山では花を待つころの毎朝毎朝、峰にかかる白雲を見て、花が咲いたのではないかと気にかかることよ(早く咲いてほしい)。」となります。

(バーチャル歌合)

歌人(左方十六) 佐川田昌俊
歌題 待花
和歌 よし野山はなまつ頃の朝な朝な心にかかるみねのしら雲

歌人(右方三十四) 里村昌叱
歌題 寄枕恋
和歌 あはれともうしとも今はなれをしもしる人にせむ小夜の手枕

(判詞=宗偽)

 「左方」の「待花」の一首は、歌の本筋の「もののあはれ」(本居宣長=「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ: 『安波礼弁』」=「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事: 『石上私淑言』」)を殊に感じさせる。また、「右方」の「寄枕恋」も然る也。本来、この両句、共に、秀歌として「持」(引き分け)とすべきを、敢えて、「右方」の「寄枕恋」の「恋の歌」を「勝」とす。その理由は、この「寄枕恋」の、「あはれ」(哀れ)、「うし」(憂し)」そして、「なれを」(馴れを)の、この絶妙な連続の和言のリズムを可とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

佐川田昌俊二.jpg

佐川田昌俊(狩野蓮長画)

里村昌叱.jpg

里村昌叱(狩野蓮長画)
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