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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その三) [三十六歌仙]

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その三)

(その三)順徳院と前内大臣(源通光)

順徳院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396

源通光.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414

(バーチャル歌合)

左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

判詞(宗偽)

 ここで、あらためて、ここまでの左方の作者は、後鳥羽院とその皇子、即ち、三上皇の揃い踏みなのである。こういう芸当が出来る人は、後鳥羽院その人以外には考えなれないという思いがする。

左方一(後鳥羽院・第八十二代天皇)→左方二(土御門院=後鳥羽院の第一皇子・第八十三代天皇)→左方三(順徳院=後鳥羽天皇の第三皇子・第八十四代天皇)

 それに対する右方は、その「後鳥羽院歌壇」の、それぞれに対応する、この「歌合」(虚構の「歌合」)の主宰者(最終的に「後鳥羽院」その人?)の意向のように思われる。

右方一(式子内親王)→右方二(皇太后宮大夫俊成女)→右方三(後久我前太政大臣通光)

 ここで、あらためて、両首を並列してみたい。
 
左方三 順徳院
 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてにほふはる風

 これは、撰者との伝承のある「後鳥羽院」その人の「判詞」(判定)という観点からすると、「持」(引き分け)とするのが「可」なのかも知れないが、この「左方」の一首に『小倉百人一首』(藤原定家撰)の最終を締め括った、次の一首に思いを重ね併せて、左方の順徳院の「勝」としたい。

 ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院『続後撰1205』)


(順徳院御製)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#03

風吹けば峰のときは木露おちて空よりきゆるはるのあは雪
花鳥の外にも春のありがほにかすみてかかる山のはの月
しら雲や花よりうへにかかるらむ桜ぞたかきみ吉野の山
難波江の潮干のかたやかすむらん蘆間にとほきあまの釣舟
あすか川ふちせもえやはわぎもこがうちたれがみの五月雨のころ
暁と思はでしもやほととぎすまだ中空の月に鳴くらむ
明石潟あまのとま屋のけぶりだにしばしぞくもる秋の夜の月
風さゆる夜はのころもの関守は寝られぬままに月や見るらむ
水ぐきの岡のあさぢのきりぎりす霜のふりはや夜寒なるらむ
一すぢに憂きになしてもたのまれずかはるにやすき人のこころは

(後久我前太政大臣通光)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#12

三島江やしももまだひぬあしのはにつのぐむほどのはる風ぞふく
まがふとていとひしみねのしら雲はちりてぞはなのかたみなりける
明けぬとて野べより山にいるしかのあとふきおくる萩の下かぜ
むさし野やゆけども秋のはてぞなきいかなるかぜの末にふくらむ
龍田山よはにあらしのまつふけばくもにはうときみねの月かげ
入日さす麓の尾ばなうちなびきたがあき風にうづらなくらむ
限あればしのぶのやまのふもとにも落ばがうへの露もいろづく
浦人のひも夕ぐれになるみ潟かへる袖より千鳥なくなり
ながめ佗びぬそれとはなしに物ぞおもふくものはたての夕ぐれの空
幾めぐり空行く月もめぐりきぬ契りしなかはよそのうき雲

(順徳院の二首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html

  後鳥羽院かくれさせ給うて、御なげきの比、月を御覧じて
同じ世の別れはなほぞしのばるる空行く月のよそのかたみに(新拾遺918)

【通釈】隠岐と佐渡と、はるか遠くの国に離れていても同じこの世には生きておりましたのに、今や父帝とは今生(こんじょう)の世でもお別れすることとなり、いっそう思慕されてなりません。空をゆく月はたった一つ、それを父帝の面影と偲んでおりましたが、御身はこの世の外へ逝かれ、もはや月を形見と眺めるばかりでございます。
【語釈】◇同じ世の別れ 離れ離れではあっても、同じ世に生きていたが、その同じ世からも別れることになった、ということ。
【補記】後鳥羽院は延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。
【主な派生歌】
雲ゐぢもなほ同じ世とたのみしをさてだにあらで別れぬるかな(契沖)

  題しらず
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰1205)

【通釈】大宮の古び荒れた軒端の忍草――いくら偲んでも、なお偲び尽くせない昔の御代なのであった。
【語釈】◇ももしき 宮廷。上代、「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞であったが、のち大宮そのものを指すようにもなった。◇古き軒端 古び、荒れた屋敷の軒端。百人一首の注釈の多くは、「古き軒端のしのぶ」に宮廷の衰微の象徴を見る。◇しのぶ 忍草。荒れた家の軒端に生える草とされた。偲ぶ(恋い慕う)・忍ぶ(堪え忍ぶ)両義を掛けるか。◇なほあまりある いくら偲んでも、偲び尽くせない。「堪え忍んでも、恋慕の情が外に漏れてしまう」意を掛ける。◇昔 王朝の権威が盛んだった聖代。
【補記】建保四年(1216)頃の「二百首和歌」。承久の乱の五年前である。
【他出】百人一首、紫禁和歌集、万代集、新時代不同歌合
【参考歌】源等「後撰集」
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
【主な派生詩歌】
秋をへてふるき軒ばのしのぶ草忍びに露のいくよ置くらむ(禅信)
小泊瀬やふるき軒端のむかしをも忍ぶの露に匂ふむめがか(源高門)
月うすくふるきのきばの梅にほひ昔しのべとなれる夜半かな(*源親子)
都にはありし忍ぶのみだれよりふるき軒ばのまれになりぬる(姉小路基綱)
いにしへをふるき軒端のしのぶ夜はもらぬ袂もうちしぐれつつ(本居宣長)
今歳水無月のなどかくは美しき。/軒端を見れば息吹のごとく/萌えいでにける釣しのぶ。/忍ぶべき昔はなくて/何をか吾の嘆きてあらむ。(伊東静雄「水中花」より)

順徳院(じゅんとくいん) 建久八年~仁治三年(1197-1242) 諱:守成

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/juntoku.html

 後鳥羽天皇の第三皇子。母は贈左大臣高倉範季女、修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とする。土御門天皇・道助法親王の弟。雅成親王の同母兄。子に天台座主尊覚法親王、仲恭天皇、岩倉宮忠成王ほか。
 建久八年(1197)九月十日、誕生。正治元年(1199)十二月、親王となり、同二年四月、兄土御門天皇の皇太弟となる。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)。父の院と共に宮廷の儀礼の復興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。建保六年(1218)十一月、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とする。
 承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。以後、同地で二十一年を過ごし、仁治三年(1242)九月十三日(十二日とも)、崩御。四十六歳。絶食の果ての自殺と伝わる。佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前は佐渡院と通称されていた)。
 幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。俊成卿女とも親しく、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際 などに歌を贈答している。建暦二年(1212)の内裏詩歌合をはじめとして、建保二年(1214)の当座禁裏歌会、同三年の内裏名所百首、同四年の百番歌合、同五年の四十番歌合・中殿和歌御会、承久元年(1219)の内裏百番歌合など、頻繁に歌合・歌会を主催した。配流後の貞永元年(1232)には、佐渡で百首歌(「順徳院御百首」)を詠じ、定家と隠岐の後鳥羽院のもとに送って合点を請うた。嘉禎三年(1237)、定家はこの百首に評語を添えて進上している。
 著作に、宮廷故実の古典的名著『禁秘抄』、平安歌学の集大成『八雲御抄』、日記『順徳院御記』がある(建暦元年-1211-から承久三年-1221-まで残存)。続後撰集初出(十七首)、以下勅撰集に計百五十九首入集。自撰の『順徳院御集』(紫禁和歌草とも)がある。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

源通光(みなもとのみちてる(みちみつ)) 文冶三~宝治二(1187-1248) 号:後久我太政大臣

 内大臣土御門通親の三男。母は刑部卿藤原範兼女、従三位範子。通宗・通具の異母弟。承明門院在子(後鳥羽院妃)の同母異父弟。内大臣定通・大納言通方の同母兄。子に大納言通忠・同雅忠・式乾門院御匣ほかがいる。
 後鳥羽天皇の文治四年(1188)、叙爵。正治元年(1199)、禁色を聴される。右少将・中将などを経て、建仁元年(1201)、従三位に叙せられる。同二年には正三位・従二位と累進。同年末、父を亡くすが、その後も後鳥羽院政下で順調に昇進し、同四年四月、権中納言。土御門天皇の元久二年(1205)、正二位に昇り、中納言に転ず。建永二年(1207)二月、権大納言。建保元年(1213)、娘を雅成親王に嫁がせる。順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ねる。   
 同六年十月、大納言に転ず。同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞した。安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた。同日、従一位。宝治二年(1248)正月十七日、病により上表して辞職、翌十八日、薨ず。六十二歳。
建仁元年(1201)、十五歳の時歌壇に登場し、早熟の才を発揮した。同年の「千五百番歌合」では参加歌人中最年少。同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)六月の「影供歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。順徳天皇の内裏歌壇でも活躍し、建保四年(1216)閏六月の「内裏百番歌合」、建保五年(1217)十一月の「冬題歌合」、承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」などに詠進。 
 建保五年(1217)八月には自邸に定家・慈円・家隆らを招き、歌合を催す(「右大将家歌合」)。承久の乱後は歌壇から遠ざかるも、後鳥羽院への忠義を失わず、嘉禎二年(1236)の遠島歌合に出詠した。宝治元年(1247)には、後嵯峨院の内裏歌合に出席、俊成卿女と詠を競った。
 新古今集初出(十四首)。勅撰入集計四十九首。琵琶の名手でもあったという。
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