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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その五) [三十六歌仙]

(その五)後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)と土御門内大臣(源通親)

藤原忠道.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398

源通親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416

藤原忠道二.jpg

(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019790

(バーチャル歌合)

左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html

かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ

右方五・土御門内大臣(源通親)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html

おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ

判詞(宗偽)

「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の七十七番(左方=左大臣、右方=俊成卿女)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  七十七番  左     左大臣
妻恋の雉(きぎす)なく野の下わらび下にもえても折りをしる哉
        右 勝   俊成卿女
梅の花あかぬ色香(か)も昔にておなじかたみの春の夜の月
 左の歌がら宜(よろしく)侍れども、右「同じ形見の春の夜の月」尤よろし。可為勝

 この判詞のスタイルを借用したい。

 「左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)」の歌がら宜(よろしく)侍れども、「右方五・土御門内大臣(源通親)」の「おりしもあれ月はにしにも成りぬらん」の上句の破調尤よろし。以右為勝。


(九条兼実の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanezane.html#SP

   右大臣に侍りける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍りける
霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分くる沖つ白波(千載8)

【通釈】すみずみまで霞が広がる、春の航路を見わたせば、水の色に染まった霞と、青い海原と、ひとつに融け合ったようないちめん真っ青な景色を、沖に立つ白波だけがくっきりと分けているようだ。
【語釈】◇潮路(しほぢ) 話手が乗っている船の前に広がる海原。◇みどりをわくる 霞と海がひとつに融け合ったような景色の中で、水平線に白く立つ波が霞と海とを分けて見せている、ということ。海や空の青色を当時は「みどり」と言った。
【参考歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波


(源通親の一首)

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    百首歌たてまつりしとき
朝ごとに汀(みぎは)の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき(新古1578)

【通釈】毎朝、水際に張った氷を踏み、道をつけて、宮城に通います。そのように、陛下にお仕えする臣下の道は、身も竦むように畏れ多いものです。
【語釈】◇氷ふみわけて 「ふみわけ」は踏んで道をつけることを言う。氷をよけて通ることではない。「薄氷を履(ふ)む如し」(詩経)を踏まえるとする説もある。◇道ぞかしこし この「道」は、宮廷に仕える臣下としての、然るべきあり方・生き方を言う。「かしこし」は、霊威に対し畏怖を感じる心をいうのが原義。身も心もすくむような感情。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(有一節様)、新時代不同歌合
【本歌】「源氏物語・浮舟」
峰の雪みぎはの氷ふみわけて君にぞまどふ道はまどはず

九条兼実(くじょうかねざね)久安五~建永二(1149-1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など

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 九条家の祖。関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
 保元元年(1156)二月、母を亡くす。同三年正月、元服し、正五位下に叙せられる。この年、兄の基実は二条天皇の関白となった。
 永暦元年(1160)二月、従三位。 同年八月、権中納言。応保元年(1161)、権大納言。長寛二年(1164)には十六歳にして内大臣に任ぜられた。同年二月、父が逝去。
 永万元年(1165)六月、六条天皇の践祚とともに兄基実は摂政に就くが、翌年七月、二十四歳で夭折したため、次兄基房が代わって摂政となった。兼実は仁安元年(1166)、右大臣に昇る。
 承安二年(1172)十二月、基房は関白に転じ、やがて反平氏政策を実行、治承三年(1179)十一月、平清盛のクーデタにより解官され備前国に流された。清盛は娘婿の基通(基実の子)を関白とし、後白河法皇の院政を停止。翌年、福原に遷都したが、兼実はこの時京都に留まった。この間、承安四年(1174)には従一位に叙されている。
 寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。同三年、義仲誅滅と共に基通が摂政に復帰。しかし基通は文治二年(1186)三月、前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって兼実が摂政に就任した。
 文治五年(1189)十二月、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年、関白に転ずる。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。
 しかし建久七年(1196)、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。
 和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。千載集初出。勅撰入集計六十首。長寛二年(1164)から正治二年(1200)に及ぶ日記『玉葉』がある。


源通親(みなもとのみちちか) 久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)

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 村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
 保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
 平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
 寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
 建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
 正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
 和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
 殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
 しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
 著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。
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middrinn

何ヵ所も忠通が「忠道」と誤記されてますし、
また忠通なら法性寺で、「後法性寺」は兼実を
指し、画像のリンク先は「九条忠家」(@_@;)
by middrinn (2019-11-28 17:00) 

yahantei

何時もありがとうございます。「百人一首」に出てくる「法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)」ではなく、子供の「後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)」の一首ですね。「東京国立博物館蔵」の画像の説明は「九条忠家」になっているけど、この和歌は「九条兼実」で、その画像の「後法性寺入道前関白太政大臣」の説明欄の「九条忠家」は誤記なのかも(?) 次は「後京極摂政前太政大臣(藤原良経)」で、この「良経」は「兼実」の子供と、一連の配列が朧げながらに見えてきます。この「九条兼実」と「源通親」はライバル関係にあり、この二人の「歌合」を番いのも、相当な目利きの感じですね。いろいろとありそうで、この「新三十六歌仙」の実質的な撰者が、隠岐に流されていた「後鳥羽院」ではないということになると、これは、最後まで、いろいろと謎があめような感じですね。とりあえず、今回は、ここまでで、また、よろしくお願いします。
by yahantei (2019-11-28 20:03) 

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