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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その六・七) [三十六歌仙]

(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

慈円.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

(バーチャル歌合)

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

判詞(宗偽)

「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百十九番(左方=具親、右方=釋阿)は、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  百十九番   左 持                 具親
春風や梅のにほひを誘ふらん行衛(ゆくゑ)さためぬ鶯のこゑ
         右                   釋阿
いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へ三吉野の花
 右「あはれと思へみよし野の花」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「ゆくゑさためぬ鶯の聲」、又心詞優に侍り。勝負難決(勝負決シ難シ)。

 この判詞のスタイルを借用したい。

 右「雪げにくもるはるの夜の月」、かぎりなく見え侍(はべる)に、左「このころかなし夕ぐれのそら」又心詞優に侍り。此の叔父(右方=慈円)と甥(左方=良経)の「勝負難決(勝負決シ難シ)」。

(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)

「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。

 この三人(式子内親王・藤原良経・慈円)は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)に次の歌(八九・九一・九五)が撰ばれている。

八九 玉の緒よ/絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)

 『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の「もみもみ」とは、「あっさりと表現せず、曲折をつくすこと」(広辞苑)の意とすると、それは「『たけ(※※)』をむねとし」の「たけ(※※)」(「自ずと格調が高く品性がある」)と対立的な表現となり、「たけ」をむねとする歌の「定型性」重視に比して、「もみもみ」の歌は「多義性」重視のスタンスとなって来る。
 この「式子内親王」の「題詠」(「題」に詠む「虚構(作為)」の作品)の「忍恋」の、この一首の初句切れ(「玉の緒よ(わが命よ)」)の、この「よ」切りに、『後鳥羽院御口伝』の「『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき」の一端が詠み取れる。

九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)

 「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。

九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)

 「もみもみ※」調の式子内親王、「たけ※※」調の良経に比して、後鳥羽院は、「大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり」と、「西行がふり※※※」調の慈円と評している。この「西行がふり※※※」とは「一見無技巧とも見える平明で流暢な調べ歌」と解せられている(『日本古典文学大系65 歌論集能楽論集』所収「後鳥羽院御口伝(補注)」)。
この『小倉百人一首』の歌ですると、「おほけなくうき世の民におほふかな」は「三句切れ」の「切れ字」の「哉」で、同時に「詠嘆」の「哉」であり、そして、「わがたつ杣に墨染の袖」の「墨染の袖」の「体言留め」は、まさに、「西行がふり※※※」の「無技巧の技巧」調ということになろう。
 「おほけなく」は「身の程もわきまえず、そら恐ろしい」のような意。「うき世」は「浮世(現世)」と「憂き世(はかない此の世)」、「おほふ」は「広く包む」、「わがたつ杣」(わが立つ杣)は「比叡山」の異名の意もある。こういう措辞の一つひとつに「西行がふり※※※」が満載している。


(藤原義経=九条義経の一首)
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    家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)

【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。 
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄

(前大僧正滋鎮=慈円の一首)
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    題しらず
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古352)

【通釈】我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空。
【語釈】◇身にとまる思ひ 自分の身に留まって、消えることがない、秋の物思い。◇おき 置き・荻の掛詞。荻は歴史的仮名遣いでは「をぎ」だが、当時は「おき」と書いた。
【補記】「風ともいはず、秋ともいはざるは、ことさらにはぶきて、詞の外に思はせたるたくみ也、此人の歌、かやうなる趣多し」(本居宣長『美濃の家づと』)。

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)

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 法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
 治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
 幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
 後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。

前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

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 摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。
 二歳で母を、十歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。
 寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂をうける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈円は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。
 この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。
 建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(『拾玉集』にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
 建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈円は再び座主に補せられた。この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。
 九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、四年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈円は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。
 この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。
 建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。建保二年(1214)六月まで在任した。
 建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈円との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。
 慈円はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。
 著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊円親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。


(その七)西園寺入道前太政大臣(藤原公経)と右衛門督通貝(源通貝)

西園寺公経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方七・西園寺入道前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009400

源通具.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方七・右衛門督通具」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009418

(バーチャル歌合)

左方七・西園寺入道前太政大臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010688000.html

 桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと

右方七・右衛門督通具
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ

判詞(宗偽)

 『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、慈円(九十五番)と定家(九十七番)に挟まれて出て来る「九十六番:入道前太政大臣=藤原公経=西園寺公経」が、「左方七・西園寺入道前太政大臣」である。

九五 おほけなくうき世の民におほふかな/わがたつ杣に墨染の袖(慈円)
九六 花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(公経)
九七 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに/焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家)

 この九十七番の定家の一首は、男に恋い焦がれた女性になりきって詠んだ恋歌として夙に知られているが、これを「承久の変」(「承久三年=一二二一」に、後鳥羽院天皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げ朝廷側が敗北した事変)の「後鳥羽院」と置き換えると、この三首は、当時の状況の一端を垣間見せてくれる。
 この九十五番の「慈円」は「後鳥羽院」派であり、この九十六番の「公経」は「鎌倉幕府」派ということになる。そして、九十七番の「定家」は、その後鳥羽院に見出され、その後、離反にする、その「後鳥羽院:鎌倉幕府」との中間に位置する「日和見主義」(中間)ということになろう。
 ここで、公経の二首を並列してみたい。

花さそふ嵐の庭の雪ならで/ふりゆくものはわが身なりけり(『百人一首』)
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(「新三十六歌仙画帖」)

 この二首に共通するものは、「ふりゆくものはわが身なりけり」(古りゆくものは己の身である)という述懐であろう。

 次の、通具の一首は、「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」の百八十番(左方=顕昭、右方=通具)に、次のように出ている。

 百八十番  左                      顕昭
遠近(をちこち)の花見るほどに行(ゆき)やらで帰(かへ)さは暮れぬ志賀の山越
       右 勝                    通具朝臣
石(いそ)の上(かみ)ふる野の桜たれ植へて春は忘れぬ形見なるらむ
 左、志賀の山ごえにとりては、遠近、しひてあるべからずや。帰(かへ)さ暮れん事は又うたがひなかるべし。「花みるほどに」などいへることは、無下にたゞ詞にやあらん。右、心詞とがなく見え侍り。勝とすべし。
                    (『日本古典文学大系74 歌合集』)

 通具は藤原俊成女(俊成の養女)を妻とするが、後に離縁する。しかし、定家(俊成の
子)との関係は終始良好で、同年齢の公経(定家の姉の夫)ともども、後鳥羽院よりも定家
寄りの歌人のように思われる。
 ここで、公経(左)と通具(右)との二首の優劣を見ていきたい。

   左
桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと(公経)
   右
磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ(通具)

 左の歌の「桜花みねにも尾にもうへをかむ」の「うへをかむ」のは、作者(公経)自身で
あろう。それに比して、右の歌の「磯上ふるののさくらたれうへて」の「たれうへて」は、
作者(通具)以外の「誰」ということになる。
 ここで、定家の「和歌十体」(「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」)の、基本的な「有心 (うしん) 様」での判とすると、「以左為勝」(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。

西園寺公経の一首
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  西園寺にて三十首歌よみ侍りける春歌
山ざくら峰にも尾にも植ゑおかむ見ぬ世の春を人やしのぶと(新勅撰1040)

【通釈】山桜の若木を、山の頂きにも尾根にも植えておこう。私は見ることが出来ないが、満開に咲き誇る春を、後の世の人々が賞美するだろうかと。
【語釈】◇西園寺 公経が北山に造営した寺。のち、足利義満が同地に北山第を建て、金閣寺となる。◇見ぬ世の春 私は見ることのない後世の春。
【補記】『増鏡』「内野の雪」で名高い歌。西園寺の豪奢な庭園や御堂の描写のあと、「めぐれる山の常磐木ども、いとふりたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑわたすとて、大臣うそぶき給ひける」としてこの歌を引用している。
【参考歌】慈円「堀河題百首」
我がやどに花たちばなをうゑおかむなからんあとの忘れがたみに

源通具の一首
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  千五百番歌合に
いその神ふるのの桜たれ植ゑて春は忘れぬかたみなるらむ(新古96)

【通釈】布留野に咲く桜---いったい誰が植えて、春になれば昔を思い出す記念となっているのだろう。
【語釈】◇いその神 「ふる」にかかる枕詞。◇ふるの 布留野。今の奈良県天理市布留。石上神宮がある。「古」を掛ける。◇かたみ 形見。思い出のよすがとなるもの。

西園寺公経(さいおんじきんつね) 承安元~寛元二(1171-1244)通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣など

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太政大臣公季の裔。内大臣実宗の子。母は持明院基家女(平頼盛の外孫女)。子に綸子(九条道家室)・西園寺実氏(太政大臣)・実有(権大納言)・実雄(左大臣)ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保のむすめ全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。また九条良経(妻の姉妹の夫)・定家(姉の夫)とも姻戚関係にあった。家集を残す西園寺実材母(さねきのはは)は晩年の妾である。
治承三年(1179)、叙爵。養和元年(1181)十二月、侍従。左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、源通親による政変に際し、蔵人頭に抜擢される。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。同月、参議に就任。同年十一月、従三位。しかし翌正治元年(1199)、頼朝が没すると出仕を停められ、院別当を罷免され籠居を命ぜられる。同年十一月には許されて復帰した。その後は順調に昇進を重ね、建仁二年(1202)七月、権中納言。建永元年(1206)三月、中納言。承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。この間、鎌倉と密接な関係を保ち続けた。
承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅(みとら)を後継将軍として鎌倉に下らせた。同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。
その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。
晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。
多芸多才で、琵琶や書にも秀でた。歌人としては正治二年(1200)の「石清水若宮歌合」、建仁元年(1201)の「新宮撰歌合」、建仁二年(1202)の「千五百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」、貞永元年(1232)以前の「洞院摂政家百首」などに出詠。新古今集初出(十首)。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。新三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。

源通具(みなもとのみちとも) 承安元~安貞元(1171-1227) 号:堀川大納言

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村上源氏。内大臣土御門通親の二男。母は修理大夫平通盛女。通光・道元の異母兄。藤原俊成女を妻とし、具定と一女をもうけた。子にはほかに内大臣具実(母は法印能円女、按察局)などがいる。
元暦元年(1184)十一月、叙爵。文治元年(1185)十二月、因幡守に任ぜられる。建久八年(1197)六月、伊予守。正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、まもなく俊成女とは別居したらしい。正治二年(1200)三月、左中将・蔵人頭。建仁元年(1201)八月、参議に就任する。同三年十一月、右衛門督・検非違使別当を兼任。元久二年(1205)四月、正三位権中納言。建暦二年(1212)六月、権大納言に昇り、貞応元年(1222)八月、正二位大納言に至る。安貞元年(1227)九月二日、五十七歳で薨ず。
父通親・後鳥羽院主催の歌会・歌合で活躍し、正治二年(1200)の院当座歌合・石清水若宮歌合、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・鳥羽殿影供歌合などに出詠。同年、和歌所寄人に補され、さらに新古今集撰者に任ぜられた。以後も千五百番歌合、建仁二年(1202)の仙洞影供歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、建永元年(1206)の卿相侍臣歌合、同二年の鴨社歌合などの作者となる。順徳天皇の歌壇でも建保二年(1214)八月の内裏歌合に名を列ねている。
夫木和歌抄によれば家集があったらしいが現存しない。俊成卿女との二人歌合の古筆断簡が「通具俊成卿女歌合」として新編国歌大観にまとめて翻刻されている。新古今集初出(十七首は撰者中最少)。勅撰入集三十七首。新三十六歌仙。

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