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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その八) [三十六歌仙]

(その八)後徳大寺左大臣(藤原実定)と藤原清輔朝臣

藤原実定.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方八・後徳大寺左大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009401

藤原清輔.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方八・藤原清輔朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009419

藤原清輔二.jpg

(右方八・藤原清輔朝臣)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019785

(バーチャル歌合)

左方八・後徳大寺左大臣(藤原実定)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ

右方八・藤原清輔朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010691000.html

 柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん

判詞(宗偽)

 藤原実定と藤原清輔との組み合わせというよりも、実定の「入日」の歌に清輔の「いり日」の歌との、これぞまさしく「歌合」そのものということになろう。
 このお二人は、『小倉百人一首』(藤原定家撰)では、八十一番(実定)と八十四番(清輔)で登場する。

八一 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる(実定)
八四 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(清輔) 

 実定は、『平家物語』に登場する源平争乱時代を生き抜いた、定家とは従兄弟(実定の母は定家の父・俊成の妹、定家より二十三歳年長)にあたる歌人である。この一首は、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかな「郭公の歌の随一」の秀歌として名高い。
 次の清輔は、定家の父・俊成(清輔より十歳年下、『小倉百人一首』では清輔の前の八十三番の作者)と平安時代末期の歌壇をリードした好敵手(ライバル)ということになる。
 ここで、実定の「入日」の歌と清輔の「いり日」の歌とを、あらためて並列してみたい。

なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ(左方・実定)
柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん(右方・清輔)

 共に、「なこの海」(左)に「柴の戸」(右)、「霞」(左)に「時雨」(右)、「白波」(左)に「山辺」と、「定家十体」の「見様」(子規の『俳人蕪村』での「景気といい景曲といい見様体という、皆わが謂う客観的な句=歌」)の歌として、「持」(引き分け)といたしたい。

徳大寺(藤原)実定の二首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanesada.html

   晩霞といふことをよめる
なごの海の霞の間よりながむれば入日(いるひ)をあらふ沖つ白波(新古35)

【通釈】なごの海にたなびく霞の切れ間をとおして眺めると、水平線に沈んでゆく太陽を洗っているよ、沖の白波が。
【語釈】◇なごの海 越中などにも同名の歌枕があるが、ここのは摂津国とするのが通説。本歌(下記参照)との関係からしても、住吉あたりの海を想定して詠んだにちがいない。
【補記】治承三年(1179)成立の歌合形式秀歌撰『治承三十六人歌合』に二番「晩霞」の題で掲載。鴨長明の『無名抄』では俊恵が「上句思ふやうならぬ」歌の例として挙げられている。「入日をあらふ」は素晴らしい表現であるが、第二・三句が釣り合っていないと批判しているのである。
【他出】治承三十六人歌合、林下集、無名抄、和漢兼作集、歌枕名寄、六華集、題林愚抄
【本歌】源経信「後拾遺集」
沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづ枝をあらふ白波
【参考歌】大伴家持「万葉集」巻十七
奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
【主な派生歌】
なごの海のいる日をあらふ浪のうへに春の別れの色をそへつつ(後鳥羽院)
見渡せば空のかぎりもなごの海の霞にかかる沖つしら波(頓阿)

   暁聞時鳥といへる心をよみ侍りける
ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる(千載161)

【通釈】暁になって、やっとほととぎすが鳴いた。その声のした方を眺めると、鳥のすがたは跡形も無くてただ有明の月が空に残っているばかりだ。
【語釈】◇暁聞時鳥 暁に時鳥(ほととぎす)を聞く。◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。
【補記】「初学云、郭公のそなたに鳴つるはとて見やれば、名残あとなき空に、有明の月のみあると也、といへり。実にけしきみえて、郭公にとりては、当時最第一の御歌といふべし」(香川景樹『百首異見』)。『素然抄』『幽斎抄』にも「郭公の歌には第一ともいふべきにや」とあり、古来郭公を詠んだ秀歌中の秀歌とされた。現代の注釈書でも評価は高いが、聴覚(ほととぎすの声)から視覚(有明の月)への転換の鮮やかさがよく指摘される。
【他出】林下集、歌仙落書、治承三十六人歌合、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首
【参考】「和漢朗詠集・郭公」(→資料編)
一声山鳥曙雲外
【主な派生歌】
時鳥過ぎつる方の雲まより猶ながめよといづる月かげ(*宜秋門院丹後[玉葉])
ほととぎす鳴きつる雲をかたみにてやがてながむる有明の空(式子内親王[玉葉])
袖の香を花橘におどろけば空に在明の月ぞのこれる(藤原定家)
時鳥いま一こゑを待ちえてや鳴きつるかたを思ひさだめむ(長舜[新後撰])
ほととぎす鳴きて過ぎ行く山の端に今一声と月ぞのこれる(浄弁[新拾遺])
一声の行方いかにとほととぎす月も有明の名残をぞおもふ(冷泉為村)
時鳥なきつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(蜀山人)

藤原清輔の二首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kiyosuke.html#WT

   題しらず
柴の戸に入日の影はさしながらいかに時雨(しぐ)るる山べなるらむ(新古572)

【通釈】柴の戸に入日の影は射しているのに、どうしてこの山では時雨が降っているのだろう。
【語釈】◇柴の戸 柴を編んで作った戸。山住いの粗末な庵の戸。隙間が多く、そこから夕日の光が射し込むのである。◇山べ 山。山のほとりではなく、山の中である。
【補記】『清輔集』では詞書「山居時雨」。
【他出】清輔集、定家十体(見様)、三十六人歌合、六華集

   題しらず
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(新古1843)〔百)

【通釈】生き長らえれば、今この時も懐かしく思われるのだろうか。昔、辛いと思った頃のことが、今では恋しく思われるから。
【補記】『清輔集』の詞書は「いにしへ思ひ出でられけるころ、三条大納言いまだ中将にておはしける時、つかはしける」とあり、「三条大納言」が中将であった頃に贈った歌とする(「三条大納言」を「内大臣」とする本も)。「三条大納言」は藤原実房を指すと見る説がある(香川景樹)。三条内大臣藤原公教(大治五年-1130-左中将)とも。
【他出】歌仙落書、清輔集、治承三十六人歌合、定家十体(有心様)、定家八代抄、近代秀歌、別本八代集秀逸(家隆撰)、三五記、桐火桶、井蛙抄
【参考歌】三条院「後拾遺集」
心にもあらで憂き世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな
【主な派生歌】
月みても雲井へだつと恨みこしその世の秋ぞ今は恋しき(惟宗光吉)
おのづからつてに通ひし言の葉につらかりし世ぞ今は恋しき(千種有光)
数しらぬ昔をきけば見しほどもすたれたる世の今は恋しき(正徹)
忘れずよ憂しと見しよの春をさへ又このごろの花にしのびて(有賀長伯)
ともすれば君がみけしきそこなひて叱られし世ぞ今は恋しき(*野村望東尼)

徳大寺実定(とくだいじさねさだ) 保延五~建久二(1139-1191)通称:後徳大寺左大臣

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 右大臣公能の一男。母は藤原俊忠女、従三位豪子。忻子(後白河天皇中宮)・多子(近衛天皇・二条天皇后)の同母弟。大納言実家・権中納言実守・左近中将公衡の同母兄。子に公継がいる。俊成の甥。定家の従兄。
 永治元年(1141)、三歳で従五位下に叙される。左兵衛佐・左近衛少将・同中将などを歴任し、保元元年(1156)、十八歳で従三位。同三年、正三位に叙され、権中納言となる。永暦元年(1160)、中納言。同二年、父を亡くす。応保二年(1162)、従二位。長寛二年(1164)、権大納言に昇ったが、翌永万元年(1165)、辞職した(平氏に官職を先んじられたことが原因という)。同年、正二位。以後十二年間沈淪した後、安元三年(1177)三月、大納言として復帰。  
 同年十二月には左大将に任ぜられた。寿永三年(1184)、内大臣に昇り、文治二年(1186)には右大臣、同五年には左大臣に至る。摂政九条兼実の補佐役として活躍したが、建久元年(1190)七月、左大臣を辞し、同二年(1191)六月、病により出家。法名は如円。同年十二月十六日、薨ず。五十三歳。祖父の実能(さねよし)を徳大寺左大臣と呼んだのに対し、後徳大寺左大臣と称された。
 非常な蔵書家で、才学に富み、管弦や今様にもすぐれた。俊恵の歌林苑歌人たちをはじめ、小侍従・上西門院兵衛・西行・俊成・源頼政ら多くの歌人との交流が窺える。住吉社歌合・広田社歌合・建春門院滋子北面歌合・右大臣兼実百首などに出詠。『歌仙落書』には「風情けだかく、また面白く艶なる様も具したるにや」と評されている。『平家物語』『徒然草』『今物語』ほかに、多くの逸話を残す。日記『槐林記』(散佚)、家集『林下集』がある。千載集初出。代々の勅撰集には計79首入集

藤原清輔( ふじわらのきよすけ) 長治一~治承一(1104-1177)

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 六条藤家顕輔の次男。母は能登守高階能遠女。初め隆長と名のった。顕方は同母兄、顕昭・重家・季経は異母弟。父顕輔は崇徳院の命をうけ、天養元年(1144)より『詞花集』の撰集に着手。この時清輔は父より助力を請われたが、かねて父とは不和が続き、結局清輔の意見は採られなかったという(『袋草紙』)。四十代後半に至るまで従五位下の地位に留まったのも、父からの後援を得られなかったためと推測されている(『和歌文学辞典』)。
 しかし歌人としての名声は次第に高まり、久安六年、崇徳院主催の『久安百首』に参加。同じ頃、歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上した。また仁平三年(1153)頃、『人丸勘文』を著し、類題和歌集『和歌一字抄』を編集。久寿二年(1155)、父より人麿影と破子硯を授けられ、歌道師範家六条家を引き継ぐ。
 保元元年(1156)、従四位下。保元三年、和歌の百科全書とも云うべき『袋草紙』を完成する。翌年、これを二条天皇に献上。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得る。この頃から自邸で歌合を催したり、歌合の判者に招かれたりするようになり、歌壇の中心的存在となってゆく。二条天皇からは、かねて私的に編纂していた歌集を召され、補正を進めていたが、永万元年(1165)、天皇は崩御。同年、清輔による撰集は、私撰集『続詞花和歌集』として完成された。やがて九条兼実の師範となり、歌道家としての勢威は、対立する藤原俊成の御子左家を凌いだ。
 治承元年(1177)六月二十日、七十四歳で死去。最終官位は正四位下。著書にはほかに『和歌現在書目録』『和歌初学抄』などがある。自撰と推測される家集『清輔朝臣集』がある(以下『清輔集』と略)。千載集初出。勅撰入集九十六首。
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